び出してくるのでは……?」
 丹波にとって、丹下左膳は伊賀の源三郎以上のにがて。
「アッ、そうだ! そうかもしれん。あいつがいることを思いつかなんだ。これはまったく、ことによったら事によるかもしれん。ウーム、とんだ藪蛇《やぶへび》!」
 顔色を変えているところへ、
「おしたくがよろしければ――主人がお待ち申しておりまする」
 いやなことを言って、源三郎のほうから使いが来た。
 もう、やむをえません。
 こうなると、さすがは峰丹波。スッパリと覚悟ができてしまった。あばれるだけあばれたうえで、機を見て逃げ出すだけのことだ!
 たち上がった丹波、ふるえる手で袴のももだちを取りながら、白足袋のまま、明るい光のみなぎる庭へ下り立った。
 肩をそびやかし、左手にさげた愛刀の鯉口《こいくち》を切って、足ばやに庭の隅へ――。
 眼くばせした門弟達は、まるでお葬式に列するようにうちうなだれてゾロゾロつづく。
 もと弓場のあったあとです。そこだけ立ち木がひらいて、地面にはバラッと砂がまいてある。
 濃い影を土に落として、むこうの隅にガヤガヤたち騒いでいる伊賀の連中の中から、着流しに懐《ふところ》手をした源三郎が、例の蒼白い顔をゆがめて笑いながら、出て来ました。
「ながらく失礼つかまつった。今朝《こんちょう》はまたこの真剣勝負、さっそく御承引あってかたじけない」
 皮肉な挨拶。
 だが、峰丹波は、それに言葉を返すより、何よりも気になってならないのは、この源三郎よりも腕達者だという今日の判定役。
「お立ちあいは、どなたで――?」
 と、そこらの人々へ眼を走らせた。

   猫《ねこ》と鼠《ねずみ》


       一

「うむ、その儀は――」
 と源三郎が、いつになくつつましやかな真顔《まがお》で、ツと身を避けると……。
 うしろに。
 でっぷりした中年の侍が、威儀をただして立っている。
 象のような細い柔和な眼、抜けあがった額部《ひたい》。両手をうしろにまわして、悠然たる殿様ぶり……。
 大刀をささげたお子供小姓をしたがえ、小刀を前半《ぜんはん》にたばさんだ――柳生藩江戸家老、田丸主水正。
「兄でござる。兄、柳生対馬守……」
 源三郎が、まじめくさった顔で、丹波に紹介《ひきあ》わせた。
 そして、主水正へ、
「兄上、これなる御仁が当|不知火《しらぬい》道場の師範代――というよりも、ながらく拙者のじゃまをしてこられた、峰丹波どの……」
 むろん名前は、日本国じゅう、いかずちのごとくとどろきわたっている伊賀の殿様だが、峰丹波、まだ眼通りを得たことがない。
 対馬守のお顔は、知らないんです。
 で、換え玉などとは、もとより思うわけもなく。
 ギョッとすると同時に、丹波はくずれるように、土に小膝をつきかけた。
「ヤ? これは大先生にござりまするか。そうとも存ぜず、かかる異様のいでたちにてまかりいで……」
 あわてて、袴の股立《ももだ》ちをおろそうとした。
「お見ぐるしき段、ひとえに御容赦を――手前は、ただいま源三郎様よりお言葉のありましたる、峰丹波と申する未熟者……」
「イヤイヤ! その御挨拶では、かえって痛みいる」
 田丸主水正、なかなかどうして芝居気がございます。すっかり主君対馬守になりきって、鷹揚《おうよう》にそっくりかえっている。
 ゆうべおそく。
 やっとのことで作阿弥《さくあみ》老人の神輿《みこし》を上げさせ、トンガリ長屋からつれ出して、麻布の上屋敷へ引っ張ってゆくと。
 この道場の源三郎のもとから、安積玄心斎が使者に来ていて、もうひとつ、主水正の命令《いいつ》かった役目というのが。
 あろうことか、藩主対馬守に化けこんで、今朝《けさ》のこの源三郎対丹波の真剣勝負に立ちあうこと。
「余の顔を知らぬのだから、大丈夫だ。大名らしくふるまえばよい。そちなら勤まるであろう」
 と対馬守がおっしゃった。
 そのつもりで、いい気持になって来ている主水正、せいぜい一藩のあるじらしくかまえこんで、
「丹波とやら、マ、マ、立つがよい。今は、正式に眼どおりさし許しておるという場合ではない。余は、単なる判定者の資格でまいっておるのじゃ。余と思わず、一剣士と思うて、目礼だけにとどめておいてもらいたい。そうでないと、余が困る、うむ、余が困る。アッハッハ」
 呵々大笑《かかたいしょう》しました。相当なものです。
 立会人に、あの丹下左膳でも飛び出してくるのでは?……と、おっかなビックリでいた峰の先生、その左膳の上をゆく柳生対馬守があらわれたのですから、もうなんといってもこの試合を、のがれるすべはありません。
 蒼白に顔色を変えて、
「大先生のお立ちあいとは、身にあまる光栄――」
 と言ったが、よほど身にあまるとみえて、全身ががたがたふるえている。

       二


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