うと、このトンガリ長屋の路地へ、また一丁、駕籠がかつぎこまれたのだ。
 騒ぎたつ人々のなかへおりたったのを見ると、武家屋敷の若後家らしい、品のよい女性ひとり。
 供も連れずに、何しにこの、夜の貧民窟へ?
 と思ううち、女はすばやく人をかきわけて、作阿弥の前へ出た。
「あ! お父様、しばらく!」
「ウム、お蓮か――!」
 その声をうしろに聞いたお蓮様、もうサッと家へ駈けあがって、アッというまにだきしめたのは、小さなお美夜ちゃんのからだでした。
 一同はあっけにとられて、声もない。

       十

「誰?」
 と、お美夜ちゃんはいぶかしげに、お蓮様の顔を見あげながら、苦しそうに身もだえして、だきしめる腕のなかからすり抜けようとあせる。
 雨のようなお蓮様の涙が、あお向いたお美夜ちゃんのかあいい顔へ、かかる。
「お母さんですよ。コレ! おまえの母者《ははじゃ》ですよ」
 お蓮様はなおも懸命に、小さいお美夜ちゃんの骨がきしむほど、だきすくめようとするのです。
 チョビ安はぽかんとして、
「こいつア妙ちきりんな芝居になったものだなあ」
 泰軒が作阿弥へ、
「これは、どういう……?」
「娘《むすめ》なのじゃ」
 と作阿弥は憮然《ぶぜん》として立ったまま、じっとお蓮様を見すえています。
 浮き世の労苦を、幾十本の深いしわときざんだ顔には、感慨無量の色が浮かんで、
「わしの娘じゃが、某所へ腰元にあがったまま、ズルズルベッタリに後添《のちぞ》いに直ったのち、今日今夜までなんの音沙汰もなく――泰軒殿聞いてくだされ。このお美夜坊は、こいつが屋敷へあがる前にできた子供でござる」
 急に作阿弥は、おそろしい眼つきになって、お蓮様をにらみつけた。
「今ごろになって、里心がついたのか。身がってなやつめ! 貴様《きさま》に子《こ》のかあいさがわかったところをみると、よほど悪い星にめぐり会って、世のはかなさを知ったものと見えるナ」
 畳に手をついたお蓮様は、片手の袖口を眼へやって、
「どうぞ、何もおっしゃらないでくださいまし。頼《たよ》りになるのは、このたった一人の小さな娘だけ……ということが、わたしの胸にもハッキリ落ちて、それでこんなに、前非を悔いてまいりましたものを」
「苦しむがよい! いくらでも泣くがよい! はぶりのよいときは、同じ江戸におりながら鼻ひとつ引っかけるでなし、今になって――どうだ、お蓮! わしがお前に飲まされた煮え湯の味が、いま貴様にわかったか」
 かさなる意外な出来ごとに、長屋の連中は潮が引くように、外の路地へしりぞいて、土間に静かに立っているのは、田丸主水正ただ一人。
 ちょっとしんみりした空気のなかに、主水正の低声《こごえ》が、底強くひびいて、
「作阿弥殿、では、御出立《ごしゅったつ》を――」
「ただいま」
 とふり向いて、お蓮様へ、
「貴様が、自分の栄耀《えいよう》に眼がくらんで、子をかまいつけなんだように、わしは、わし自身の芸術《たくみ》の心にのみしたがって、貴様のことなど、意にも介《かい》せんのじゃ。あとのことは、泰軒先生のお指図《さしず》を受けて、よしなにするがよい。コレ、チョビ安よ。お美夜坊の母親は、この人でなしだったのじゃよ。なんにしても、お美夜坊には母と名のつくものが一匹、現われたわけだが、こんどはチョビ安の両親じゃ。それにつけても田丸殿! この安の父母を、そこもとのお手でお探しくださるという条件で、わしは日光へまいりますのですぞ。かならずこの約定《やくじょう》を御失念なきよう……」
「あとをまかせられても、困るがナ」
 泰軒は髯をしごいて、
「お蓮様とやらには、またいろいろと事情もあろうが、それはいずれ聞くとして、どうじゃな、お美夜坊。おまえはこの女《ひと》を、母と思うかの?」
 きかれたときにお美夜ちゃんは、やっとのことでお蓮様をつきのけて、パッと泰軒先生の腰にとびついた。
「あたし、こんなよその小母《おば》さん知らないわ」
 わッとお蓮様が、大声に泣きふすと同時に、
 戸外《そと》にひと声、
「そうれ見ろ!」
 この言葉を残して、作阿弥の駕籠は地を離れた。

       十一

「何をいうんです、お美夜! こうしてお母さんがお迎いに来たのに、そんなことを言う児《こ》がありますか」
 お蓮様は半狂乱に、手をのばして、またもお美夜ちゃんをだきとろうとする。
「いやよ、いやよ! あたいの考えていたお母ちゃんは、そんな恐ろしい人じゃないわ、知らない小母ちゃんがやってきて、母ちゃんだなんて言ったって、誰がほんとにするもんか。イイだ!」
「まあ、なんて情けないことを! 今このおひげの小父《おじ》さんがおっしゃったように、わたしは今までおまえを構いつけずにおいたのは、それはもう、いろいろとつごうがあってね。いえ、思うとお
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