るはず……同じ駕籠にあたしが抱いてどこかへ連れ出したら、どんなに喜ぶことだろう。このおなじ江戸に住みながら、往き来はおろか、たよりひとつしなかった罪を、お父様にとっくり詫びなければならない……」
口のなかにつぶやきながら、坂の上下を見わたすと、折りよく通りかかった一丁の夜駕籠。
お蓮様は白い手をあげて、それを呼びとめた。
「ヘエ、どこへゆきますんで?」
と駕籠屋がきいたが、ここで、場面はぐると大きく回転して、
「ヘエ、どこへゆきますんで?」
と溝板《みぞいた》を鳴らして、この作爺《さくじい》さんの家へ駈け込んで来たのは、おもての角《かど》に住んでいるこのかいわいの口きき役、例の石屋の金さん、石金さんだ。
ふたたび、とんがり長屋――。
「おらア湯にへえってたんだが、ガラッ熊の野郎が駈けて来やアがって、なんだか知らねえがりっぱなお侍さんが、素敵もねえ駕籠《かご》を持って、おいらの長屋の作爺さんを迎えに来たというじゃアござんせんか。イヤ、おどろいたね。どんなわけがあるにしろ、べらぼうメ、作爺さんをもってゆかれてたまるもんか――ッてんでネ、ヘエ、ぬれたからだのまんま、こうしてふんどしひとつでとんできやしたが、ああ、苦しい!」
一気にまくしたてる石金を先頭に、なが年おなじみのトンガリ長屋の住人たちが、ワイワイ言って作爺さんの土間へおしこんでくると!
「コラコラッ、下郎ども! 寄るでない。作阿弥先生に御無礼があっては、あいすまぬ。道をあけろあけろ!」
という田丸主水正のどなり声。
夢見るような顔つきの作爺さんが、その主水正のあとにつづいて、土間へ下り立とうとしている。
「お爺ちゃん、やっぱりゆくの?」
チョビ安とお美夜ちゃんの、ふりしぼるような声が追う。
作阿弥は、長屋の人たちの顔を見わたして、
「いかいお世話になりましたな」
と言った。
九
静かな中に、炎々《えんえん》たる熱を宿した作阿弥の姿は、つめたい焔のように、見る人の胸を焼きつらぬかずにはおかない。
ながらくひそんでいた芸術心に、点火された作阿弥。
もう現実に鑿《のみ》を手にしているように、右手を痙攣的に、ヒクヒクと動かしながら、せまい土間へたちおりた。
チョビ安とお美夜ちゃんへの愛に、うしろ髪引かるる思い……が、それも、一期《いちご》の思い出に名作を残そうとする、心のちかいの前には、たち切らざるをえなかった。
ひややかに主水正をかえりみて、
「まいりましょう。御案内くだされたい」
ここへ来るときは、いくら日本一の名匠だとは言っても、たかが手仕事の工人《こうじん》、たんまり金銀を取らせるといったら、とびついてくるだろうと思っていた田丸主水正。
いっかな動きそうにもない作爺さんを相手に、懸命な押し問答のすえ、やっと今、腰を上げさせることができたのだが、ああして話し合っているあいだに、主水正はすっかり、この裏店《うらだな》の見るかげもない老人の人柄に、気おされてしまったのでした。
気品といいましょうか。人間の深みといおうか。いずれにしても、身についた芸術のはなつ、金剛不易《こんごうふえき》の光に相変わらない。
「はっ」
と、思わず頭を下げた主水正、もうまるで従者よろしくの体《てい》で、
「先ほどより、お駕籠がお待ち申しあげておりまする。では、どうぞ……」
冷飯草履《ひやめしぞうり》を突っかけた作阿弥は、竹の杖を手に、一歩路地へ踏みだそうとした。
家のなかから土間、路地へかけて、長屋の人で身動きもならない。
「かわいそうに作爺さん、どんな悪いことをしたか知らねえが、あんな仏みてえな人だ、ゆるしてやればいいのに」
と、なかには何か勘《かん》ちがいして、作爺さんがお召捕《めしと》りにでもなったようなことを言うやつもある。ねいりばなをこの騒ぎにたたき起こされて、寝ぼけているんです。
「日光へ連れてゆかれるということだが、ときどきは長屋を思い出して、たよりをしてくだせえよ、ナア」
「ところが変わると、水あたりするというから、気をつけなさるがいいぜ、お爺さん」
別離は、このトンガリ長屋でさえも、いささかセンチだ。
上《あが》り框《がまち》に仁王立ちになった蒲生泰軒は、左右の手に、チョビ安とお美夜ちゃんの頭をなでながら、髯《ひげ》がものを言うような声で、
「蜀漢《しょくかん》の劉備《りゅうび》、諸葛孔明《しょかつこうめい》の草廬《そうろ》を三たび訪《と》う。これを三|顧《こ》の礼《れい》と言うてナ。臣《しん》、もと布衣《ほい》……作阿弥殿、御名作をお残しになるよう、祈っておりますぞ。お美夜坊と安のことは、拙者がどこまでも引き受けた」
泰軒居士、いつになくかたくなって、そう言ったときだった。
ドッと人ごみがどよめきわたったかと思
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