みずから仕組《しく》んだ陰謀《いんぼう》と、この、おのが恋心とのあいだにはさまれた彼女の胸は、どんなに苦しかったかしれない。
そしてまた。
身を裂くような思いで、やっと愛着を振りほどき、りっぱに殺し得たとばかり思っていた、その当の相手の源三郎が!
どうです!
おどろいたことには、何事もなかったようなケロリ閑たるようすで、夕方、奥庭の植木に水を打っていた――。
あれから何事もなく、ずっとこの道場にいて、もうもう毎日、平凡な日を持てあましている、といったように。
渋江村の寮……火事――おとし穴……水責め……あれらはすべて、悪夢の連鎖? ではなかったか?
と、瞬間にお蓮様は、わが眼を疑ったのもむりではなかった。
「アラッ! 源様では――!」
思わず低声《こごえ》につぶやいて、横手に立っていた丹波の袖を、そっと引いたのでした。
峰丹波とお蓮さま、通りがかった廊下に、凝然《ぎょうぜん》と足をすくませて、進みもならず、しりぞきもならず……。
幽霊を見た気持というのは、あのときのことだろう。
ハッハッとあえぐ丹波の息づかいを、お蓮様は耳に近く聞いたのだった。
死んだはずの源三郎が、悠然《ゆうぜん》と柄杓《ひしゃく》をふるって、夕闇せまる庭に、静かに水をまいている。
怪談にはもってこいの夏だ。
おまけに。
物《もの》の怪《け》の立つというたそがれどき。
縁に立つ二人が、水を浴びたようにふるえおののいていると知ってか、知らずにか、源三郎は口のなかで、何か唄いながら、いつまでも草の葉、木の根に水をやっていたが、やがて、振り返りもせずにひとこと、
「丹波! 礼をするぞ。きっとそのうちに、挨拶するからなナ」
せまる宵闇にからんで、しっとりした小声《こごえ》。
源様ッ!……お蓮さまはせいいっぱいに叫んだような気がしたが、声をなさなかった。
突如! バタバタという跫音《あしおと》に気がついて、振り返ったお蓮様は、顔色を変えた丹波が、廊下を、もと来たほうへと逃げかえるのを見た。
意外千万にも源三郎が生きている! 生きてこの道場へ帰ってきている! もういけない! すべてはだめだ! と丹波は観念したのだろう。大きなからだをこまねずみのようにキリキリ舞いさせて、不知火《しらぬい》の弟子《でし》どものいる広間のほうへと、スッとんでいったが……。
茫然とそれを見送ったお蓮様が、ふと気がつくと、手桶《ておけ》をさげた源三郎、露草にぬれる裾を引きあげて、むこうへ帰ってゆく。
すると、です。
丹波の出ようひとつ、源三郎の合図ひとつで、一気に斬りかかろうと、隠れていたのであろう。そこらの植えこみや樹立ちの蔭から、伊賀侍の伏兵が、三人五人と立ちあがって、お蓮様には眼もくれず、源三郎のあとに従って行きます。
「きっとあの萩乃も、いま源様といっしょにいるに相違ない。もう……だめだ! すべては終わった!」
とお蓮様は、蒼白い唇でつぶやいた。
それきりそこの縁の柱にもたれかかって、襟に顎《あご》をうずめて考えこんでいる彼女――侍女の一人が、夕飯の迎いに来ても、首を振ってしりぞけたまま。
八
夕餉《ゆうげ》の膳部《ぜんぶ》もしりぞけて、庭の面《おもて》に漆黒《しっこく》の闇が満ちわたるまで、お蓮様はしょんぼり、縁の柱によりかかって考えこんでいたが――。
道場乗っ取りの策動も、もはやこれまで。
萩乃まで源三郎の手に取られてしまっては、もう自分のとる手段はどこにもない……。
失意。
身をはかなむ気持、無情の感が、時ならぬ木枯しのように胸深くくいいってくる。
どこにすがろう? いずこにこの心の慰めを求めよう――? そのとたん、人間たれしも思い浮かぶのは、肉親の情だ。
「ああ、ほんとうだ。こういうとき、あの児さえ手もとにいてくれたら、わたしは何もいらない。道場も、恋も――世の中のいっさいは、子供の愛にくらべたら、なんでもありはしないわ」
お蓮様がこんな気を起こすとは、よっぽど心が弱ったものと言わなければなりません。
外見《そとみ》は女菩薩《にょぼさつ》、内心《ないしん》女夜叉《にょやしゃ》に、突如湧いた仏ごころ。
お蓮様には、たった一人の子供があるのです。先夫とのあいだに。
その先夫のことは、さておき。
いったん気持が、わが子のもとへはしったお蓮様は、だいたいが思いたつと同時に、じっとしていられない性質《たち》。
そっと居間へ帰って、いくらかのお鳥目《ちょうもく》を帯のあいだへはさむがはやいか、庭下駄のまま植えこみをぬって、ひそかに横手《よこて》のくぐりから、夜更けの妻恋坂を立ちいでました。
子供というのは、どこにいる? お蓮様は、いったいどこへゆくのであろう?
「もう今年《ことし》は、七つになってい
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