ち、まずその筆頭にあげられるのは、本坊輪王寺に納めある開山上人《かいさんしょうにん》御作《ぎょさく》の、薬師仏《やくしぶつ》御木像《ごもくぞう》一体……」
 と主水正は、まるで、そのあらたかな仏像に面と向かっているかのように、うやうやしく一礼した。
「開山上人。諱《いみな》は勝道《しょうどう》。日光山の開祖でござって、姓は若田氏《わかたうじ》、同国《どうこく》芳賀郡《はがごおり》のお生れですナ。今を去る千百余年、延暦《えんりゃく》三年|二荒山《ふたらさん》の山腹において、桂《かつら》の大樹を見つけ、それを、立ち木のままに千手大士の尊像にきざまれたが――」
「なんだい、お開帳かい? こいつ、髪《かみ》をゆってる坊さんなんだね?」
 お美夜ちゃんの手を引いたチョビ安が、いつのまにか上がってきて、そう言って横手の壁を背に、お美夜ちゃんとならんでちょこなんとすわった。
「家の前《めえ》には、この長屋に用もありそうのねえ、りっぱな駕籠が、止まっているし、屋内《なか》にはまた、抹香《まっこう》くせえお談議が始まっていらア。ヨウ作《さく》爺ちゃん、泰軒小父《たいけんおじ》ちゃん、これはいったい、どうしたというんですイ?」
 チョビ安はまるい眼をキョトキョトさせて、作爺と泰軒|居士《こじ》へ、交互《たがい》に問いかけた。
 二人とも、答えない。
 見向きもしない。
 それどころではない……といった一種切迫した空気が、室内にたちこめて。
 お美夜ちゃんとチョビ安の帰って来たことさえ、人々の意識にないようす。
 それよりも今。
 まるで別人のような、急激な変化を見せているのは、この家《や》の主人《あるじ》作爺さんこと作阿弥《さくあみ》である。平常《ふだん》は眠っているのか、さめているのかわからない眼が、かっと開き、いきいきと燃えあがって、いつも草鞋《わらじ》の裏のように生気のない顔が、今は何ものかに憑《つ》かれたかのように、明るいかがやきをともしているのだ。
 病《や》みほうけたからださえシャンとなって、スウッと肩をのばし、端坐《たんざ》の膝に両手を置いた作阿弥、主水正の言葉をツとさえぎって、夢みる人のように言いだした。
 これはもう、トンガリ長屋の作爺さんではない……当代に名だたる名木彫家《めいもくちょうか》作阿弥の、芸術心に燃える姿。
「さよう――だが、お話の開山上人の薬師仏は、二荒山《ふたらさん》の桂《かつら》の大樹を、立ち木ながらに手刻《しゅこく》したものではござらぬ。のちに歌《うた》ケ浜《はま》においてその同じ桂の余木《よぼく》をもちいて彫《ほ》らせられたのが、くだんの薬師《やくし》の尊像《そんぞう》じゃとうけたまわっておる。ハイ、まことに古今《ここん》の妙作《みょうさく》」
 泰軒先生が無言のまま、深くうなずいた。田丸主水正はお株を取られたかたちで、だまっている。
 チョビ安とお美夜ちゃんは、常と違う作爺さんの態度に、いったい何事かと、あっけにとられて見まもるばかり。
「日光には、たしか弘法大師|御作《ぎょさく》の不動尊の御木像《おんもくぞう》も、あるはずじゃが、あれは、寂光寺《じゃくこうじ》の宝物でござったかナ?」
「は」
 主水正は、かしこまって、
「そのほか、慈眼大師《じげんだいし》の銅製《どうせい》誕生仏《たんじょうぶつ》、釈尊《しゃくそん》苦行《くぎょう》のお木像《もくぞう》、同じく入涅槃像《にゅうねはんぞう》、いずれも、稀代《きだい》の名作にござりまする」
「うけたまわっております。命のあるうち、ひと眼拝観したいものじゃと、作阿弥一生の願いであったお品々じゃ」
「サ、それらをしたしく御覧になれようというもの。そのうえ、腕にまかせて神馬《しんめ》をお彫りなされば、それらの名品と肩をならべて、世々生々《よよしょうしょう》伝わりまするぞ、作阿弥殿……サおむかえの駕籠《かご》が、まいっております」

       四

「さすがは柳生じゃ。世を捨てた名人を探しだして、一世一代の作を残させるとは、このたびの日光造営は、おおいに有意義であった。その作阿弥の神馬とともに、柳生の名も、ながく残るであろう……と上様からおほめ言葉のひとつも、いただこうというもので」
 ここを先途《せんど》と主水正は口説《くど》きにかかる。
 作阿弥はじっと眼をつぶったまま、身動《みじろ》ぎもしない。
 その小さな老人のすわった姿が、この狭い部屋いっぱいにあふれそうに、大きく見えるのは、彼の持つ技《わざ》の力が、放射線のように、にわかに炎々《えんえん》と射しはじめたのであろうか。
「わしに、馬を彫って、後世へ残せという……」
 口のなかで噛むように、作阿弥は、そうひとことずつ句ぎってつぶやきながら、そっと眼をあけて泰軒先生を見やった。
 どうしたものであろう―
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