「おいらも、何も言いたかねえけどさ、だって、そうだろうじゃアねえか。やっと橋下の乞食小屋で、かりにも、父《ちゃん》てエ名のつくお侍を一人拾い上げて、まあ、父《ちゃん》のつもりで孝行をつくす気でいたところが、そのお父上は穴埋めにされて、おまけに水浸しときたもんだ。いかに強《つえ》えお父上でも、あれじゃア形なしにちげえねえ。でも、死骸の出ねえところをみると、ヒョッとすると――どこにどうしているかなア、あのお父上は」
 木履に冷飯|草履《ぞうり》と、二人の小さな歩がからみ合って、竜泉寺はトンガリ長屋のほうへ……。
 その横町《よこちょう》の居酒屋《いざかや》、川越屋《かわごえや》の土間《どま》へとびこんだチョビ安は、威勢よく、
「オ、爺《とっ》ツアん、いつもの口《くち》を、五|合《ごう》ばかりもらおうじゃあねえか。飲《の》む口《くち》に待っていられてみると、どうも手ぶらじゃア帰《けえ》れねえや」

       二

 柳生家の定紋《じょうもん》を打ったお駕籠が一丁、とんがり長屋の中ほど、作爺《さくじい》さんの家の前に、止まっています。
 紺《こん》看板に梵天帯《ぼんてんおび》のお陸尺《ろくしゃく》が、せまい路地いっぱいに、いばり返って控えている。
「オウオウ、寄るんじゃアねえ」
「コラッ、この餓鬼ッ! そんなきたねえ手で、お駕籠にさわると承知《しょうち》しねえぞ」
 陸尺の一人が、そう言って子供をどなりつける。ヨチヨチ駕籠のそばへ歩いてきて、金色《きんいろ》の金物《かなもの》のみごとなお駕籠へ、手を触れてみようとしていた三つばかりの男の子が、わっと泣きだす。
 母親らしいおかみさんが、子供を抱きかかえて、
「なんだい、おまえさん、何をするんだい。子供に罪はないじゃないか」
 取りまいている長屋の連中のなかから、
「このトンガリ長屋へ来て、きいたふうなまねをしやがると、けえりには駕籠をかつぐかわりに、仏様にしてその駕籠へのせてけえすぞ」
「どこの大名か知らねえが、このトンガリ長屋は貧乏人の領地だ。気をつけて口をきくがいいや」
「何を洒落《しゃら》くせえ。柳生一刀流にはむかう気なら、かかってこい」
 なんかと、駕籠かきと長屋の人々と、ワイワイいう騒ぎだ。
 そのののしり合う声々を戸外《そと》に聞いて、田丸主水正は、ここ作爺さんの住居《すまい》……たった一間《ひとま》っきりの家に、四角くなってすわっている。
「サ、そういう理由《わけ》でござるから、なにとぞ、さっそく林念寺《りんねんじ》前の上屋敷のほうへ、おこしを願いたい。馬を彫《ほ》らせては、当代|唯《ゆい》一|無《む》二の名ある作阿弥《さくあみ》殿、イヤ、かようなところに、名を変えてひそんでおられようとは……?」
 主水正《もんどのしょう》がうやうやしく頭をさげる前に、迷惑そうにちょこなんとすわっているのは、作爺さんです。老いの身の病気あがり、気のせいかこんどの病で、めっきりおとろえたようです。つぎはぎだらけの縦縞の長半纏《ながはんてん》の上から、夏だというのに袖なしを羽織《はお》って、キチンとならべた両の膝がしらを、しきりに裾《すそ》を合わせて包みこみながら、
「ヘイ、なにがなんだか、おっしゃることがいっこうにわかりませんで、ヘイ。私《わたくし》は作爺と申す名もないもので……」
 恐縮しきった作爺さん、救いを求めるような視線を、横手へ向けます。
「イヤ、そうお隠しなされては、てまえホトホト困迷《こんめい》いたす」
 と田丸主水正も、横へ眼をやる。
 そこに、小山を据えたようにすわっているのは、先ごろから、このトンガリ長屋の王様とあおがれている、巷《ちまた》の隠者|蒲生泰軒《がもうたいけん》先生だ。
 両方から助《すけ》だちを乞うような眼を受けて、
「ウフフフ」と泰軒は含み笑い、
「あちら立てればこっちが立たず……という、柳生の御使者どの、この御老人は単にトンガリ長屋の作爺さんでけっこうだとおっしゃる。無益な前身の詮議だてなどなさらずと、早々《そうそう》にお帰りなされたほうがよろしかろう」
「とんでもない! それでは、かく申す家老の拙者が、わざわざ自身で乗りこんでまいった趣旨がたち申さぬ。先ほどから申すとおり、てまえ主人柳生対馬守、このたび日光造営奉行を拝命なされたについては、何がな後世へ残るべき彫刻をほどこして、廟祖御神君の霊をなぐさめたてまつらんと、そこで思いつきましたのが、神馬《しんめ》の大彫《おおぼ》りもの……」
「ヤイヤイ、なんでえ! どいたどいた。チョビ安様《やすさま》とお美夜ちゃんのおけえりだ……オヤ! この駕籠は?」
 土間口《どまぐち》に、チョビ安の大声。

       三

 田丸主水正は、必死につづけて、
「御承知でもござろうが、日光|什宝《じゅうほう》のう
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