、これじゃア一日のかせぎに、ちょっと足りねえや。もうちっと出そうなもんじゃあねえか。おう、そこにいる御隠居さん、十徳なんか着こんで、えらく茶人ぶっていらっしゃるが、そうやってふところンなかで、巾着切《きんちゃくき》りの用心に財布《せえふ》をにぎってばかりいねえでサ、その財布《せえふ》のひもを、ちっとといたらどんなもんだい」
名指された御老人は、苦笑しながら、小銭をつかんだ手を十徳の袖口から出して、チョビ安へ渡す。
ドッと湧く爆笑。
もう、忍びやかな夕陽《ゆうひ》の影が、片側の松平越中様の海鼠塀《なまこべい》にはい寄って、頭上のけやきのこずえを渡る宵風には、涼味《りょうみ》があふれる。
早い家では灯を入れて、腰高の油障子に、ポッと屋号が浮かび出ています。
なつかしい江戸のたそがれどき。
「サア、散った、散った。いつまで立っていたって、もう今日はこれで店仕舞《みせじめ》えだ。だがな、明日もここで、『辻のお地蔵さん』の所作事《しょさごと》をお眼にかけるから、お知りあいの方々おさそい合わせのうえ、にぎにぎしく御見物のほどを……ナンテ、さア、お美夜ちゃん。巣へ帰《けえ》ろうなあ。作爺さんと泰軒|小父《おじ》ちゃんの待っている、あの竜泉寺のトンガリ長屋へヨ」
「アイ」
お振袖のかあいい女の子と、意気な兄イの見本のような、こましゃくれたチョビ安と、二人の小さな影が、まるで道行きのように手を引き合って、長い横町を遠ざかる。そして、夕陽のカッと射す角を曲がって、浅草のほうへ消えてゆくのを、町の人々はまだ立ちどまって、見送っている。
ガヤガヤ笑いながら、
「兄妹《きょうだい》でしょうか」
「イヤ、そうじゃあねえらしいんです。あの、口のよくまわる男の子は、父も母もないとかで、それを探すために、ああやって辻芸を売って、江戸《えど》じゅうを歩いているんだそうですよ」
「だけど、おめえ、あの女の子にも、母親がねえとか言っていたじゃアねえか」
「それはそうと、二人の仲のいいことったら、どうでげす。振りわけ髪の筒井筒《つついづつ》、あのまま成人させて、夫婦《めおと》にしてやりてえものでげすナ」
お迎《むか》え駕籠《かご》
一
「すまなかったなあ、お美夜ちゃん。今日は朝から踊りつづけで、くたびれやしないかい?」
「ううん、そんなでもないの」
「足が痛くはねえかい?」
「ええ、ちょっとね。でも、たいしたことはないわ」
「ほんとにおめえには、気の毒だよ。遊びてえ盛りを、こうやっておいらといっしょに、日《ひ》がな一|日《にち》辻に立って、稼業《しょうべえ》するんだからなあ」
とチョビ安、言うことだけ聞くと、いっぱしの大人が子供を相手にしているようだ。
遊びたい盛りなんて、自分《じぶん》はいくつだと思っている。
こまかい藍万筋《あいまんすじ》の袖へ、片手を突っこんで、こう、肩のところで弥造《やぞう》をおっ立てたチョビ安。
吉原《よしわら》かぶりにしていた手拭を、今はパラリと取って二つ折り、肩《かた》にかけています。
下目《しため》に、横っちょで結んだ算盤絞《そろばんしぼ》りの白木綿《しろもめん》の三尺が、歩くたんびにやくざ[#「やくざ」に傍点]にねじれる。
身幅《みはば》の狭い着物ですから、かあいい脛《すね》がチラチラ見えて。
その意気なことったら、ほんとに、見せたいような風俗。
にがみばしった――と言いたいところですが、顔だけはどうもしようがない。これで顔にむこうッ疵《きず》でもあれば、うってつけの服装《つくり》なんですが、それこそ、辻のお地蔵さんへあげるお饅頭みたいな、愛《あい》くるしい顔だ。
片手に、お美夜ちゃんの手を引いて、
「なア、これで泰軒先生に、今夜も寝酒の一|杯《ぺい》もやってもらえようってもんだ」
「ねえ、安さん……」
とお美夜ちゃんは、チョビ安のこまっちゃくれたのがうつったのか、これも、いつからともなくませた口をきく。
「あたいね、毎日のことだけど、いつもあすこんところでは泣かされちゃうのよ――あのホラ、あたいの父《ちゃん》はどこにいる、あたいのお母《ふくろ》どこへ行った、で、あたしがネ、こう、手をかざして、お父《とっ》ちゃんやお母《っか》ちゃんを探してまわる物狂《ものぐる》いのところね――何度やっても、あそこは身につまされるわ。きょうも涙ぐんだの」
「おいらもそうだよ。どうもあすこはいけねえ。思わず涙声になっちまって、こっぱずかしくっていけねえや。だけどなア、考えてみると、おいらのような運の悪いものも、またとねえだろうよ」
お美夜ちゃんは、その小さな手で、ギュッとチョビ安の手を握りかえして、
「アラ、思い出したように、どうしてそんな心細いことを言うの? あたい、泣きたくなっちゃうわ」
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