た……。
お蓮様は、ぞっと身ぶるいをして、
「ああ、ほんとうにかわいそうなことをした」
あの白衣《びゃくえ》の浪人が暴れこんで、道場の跡目に直《なお》ろうとしていたまぎわの、峰丹波にじゃまを入れ、多くの門弟を斬ったのみか、萩乃をつれて消えうせた。あの騒ぎなどは、お蓮様の心のどこにもないのだった。それはみんな自分になんの関係もない、遠い国の、しかも、大昔の出来ごととしか思えないほど、彼女の胸は、源三郎に対する悔恨でいっぱいなのだ。
「ああ、もうなんの欲《よく》も得《とく》もない。源様さえ生きていてくだすったら……」
司馬道場、峰丹波、それらへの興味はすっかりなくなって、この頃のお蓮様は、まるで別人のように、うち沈んでいるのである。
萩乃なぞ、あの片腕の浪人にひっさらわれて、どんな目にでもあうがいい。
今も今。
無意識にそうひとり言《ごと》を口にしながら、お蓮様が、きっと、血の気のない唇をかみしめたときです。
故十方斎先生は、此室《ここ》で皆伝《かいでん》の秘密の口述《くちず》をしたもので、大廊下からわかれてこっちへ通ずる小廊下の床《ゆか》が、鶯張《うぐいすば》りになっている。踏《ふ》むと音がするんです。
忍んで来ることができない。盗み聞きは不可能。
今そのうぐいす張りの細廊下がキューッとふしぎな音をたてて鳴いた、人の体重を受けて。
「誰です、そこにいるのは?」
お蓮様は低声《こごえ》にとがめた。
「誰だときいているに、誰? 何者です……」
五
「誰です」
お蓮様は、繰り返した。
鶯張りの板がきしんで、それに答えるように鳴るだけ……返事はない。
舌打《したう》ちしたお蓮さまは、ツと立って、障子をひらいた。
丹波《たんば》である――峰丹波が、ノッソリと突っ立っているのだが。
その顔をひと眼見たお蓮様、あっとおどろきの叫びをあげた。
血相をかえた丹波、右手を大刀の柄《つか》にかけて、居合腰《いあいごし》で、部屋の外の小廊下に立っているではないか。
「マア、おまえ! どうしたというのです、わたしを斬ろうとでも……」
それには答えず、丹波はハッハッとあえぎながら、
「どこにいます。どこにいます?」
そう言いながら、眼を室内に放って、四|隅《すみ》をにらみまわすようす。
および腰に体《たい》をひねって、今にもキラリと抜きそう……ただごとではない。
「どこにいる、今たしかに、この座敷の中で彼奴《きゃつ》の声がしましたが」
「どこにいるとは、誰がです。あいつとはエ?」
丹波の剣幕におどろき恐れて、お蓮様は一歩一歩、一隅へ下がりながら、ふと思った――峰丹波、乱心したのではあるまいか、と。
が、そうでもないらしく、丹波は大刀を握りしめたまま、じっとお蓮さまをみつめて、
「今あなたは、このへやで誰と密談しておられた。いやさ、たれを相手に、お話しておられた?」
「誰を相手に? まあ、丹波。おまえは何を言うのです。わたしはここに、さっきから一人で……」
沈思にふけっていたお蓮様、胸の思いが声に出て、思わず、あれやこれやとひとり言《ごと》をもらしていたことは、彼女自身気がつかない。
もう、いつのまにか夕暮れです。夏の暮れ方は、一種あわただしいはかなさをただよわして、うす紫の宵闇《よいやみ》が、波のように、そこここのすみずみから湧《わ》きおこってきている。
どこか坂下《さかした》の町家《ちょうか》でたたく、追いかけるような日蓮宗の拍子木《ひょうしぎ》の音《ね》。
やっと丹波は納得したらしく、ふしぎそうに首をかしげると同時に、グット刀《とう》をおし反《そ》らした。
「ハテ、面妖《めんよう》な! いまたしかにどこかで、アノ、源三郎――伊賀の暴れん坊の笑い声が、響いたような気がしましたが」
何やらゾッとするのをかくして、お蓮様はあでやかに笑った。
「ホホホ、仏様《ほとけさま》が笑うものですか、気のせいですよ――しじゅう気がとがめているものだから」
「それはそうと、お後室《こうしつ》様、あの丹下左膳とやらは、萩乃様をおつれして、いったいどこへまいったのでござりましょうな」
「そんなことはどうでもいいじゃないの。わたしはなんだか、もうもう気がふさいで……」
「ハッハッハッハ、それは、お一人でこんなところにこもって、何やかやともの思いをなさるからじゃ。サ、あちらへまいりましょう」
と手を取らんばかり。
丹波はお蓮様に従って、長い渡り廊下を道場のほうへ。
残影で西の空は赤い。庭にも、もう暮色が流れて、葉末をゆるがせて渡る夕風《ゆうかぜ》は、一日の汗を一度にかわかす。
と、ヒョイと見ると、その庭におり立って、手桶の水を柄杓《ひしゃく》で、下草や石|燈籠《どうろう》の根に、ザブリザブリとかけてまわっ
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