小石の影や、土の色がうっすらと見えてきた。東が白みかけたのだ。まもなく、途中ですっかり夜が明けはなれたので、疲れきったお露は、通りかかった辻駕籠《つじかご》を呼び止めて、早朝の女の一人歩きにいぶかしげな顔をしている駕籠かきへ、
「あの、駕籠屋さん、お父《とっ》さんが急病なんですが、お父さんのかかりつけのお医者様が、本郷の妻恋坂にいましてね、そこまでいそいで迎いに行きたいんですけれどやってくださいな」
とお露、さっそくの機転でそう言った。そして、駕籠屋のうなずき合うのを待って、裾で足を包んだお露、スルリと乗りこんだのです。
二
ずいぶん気の長い話……だが、双方、意地になっているのだ。
妻恋坂、司馬道場の屋敷内には、まだふしぎな頑張《がんば》り合いがつづいている。
軒を貸して母家《おもや》を取られる――ということわざがあるが、まさにそのとおり。
宏大な屋敷のほんの一部に、お蓮様、峰丹波など、以前からの不知火《しらぬい》道場の連中が追いつめられて、これは、小さく暮らしているに反し、奥のいちばんよい住居《すまい》のほうは、伊賀侍の一団が占領して日夜無言のにらみ合い。
若君源三郎はいなくても、安積玄心斎、谷大八等、すこしもあわてません。
「なんの、源三郎様にかぎって、まちがいなどのあろうはずはない。かならず今にも、あのとおり蒼白いお顔で、ブラリと御帰還になるにきまっている」
一同、こうかたく信じて疑わないから、源三郎がいなくても平気なものだ。あい変わらず傍若無人に振る舞って頑張《がんば》っている。
ただ。ゆうべの今朝《けさ》。
そのゆうべ、隻眼隻腕の浪人が道場のほうへあばれこんで、多勢《おおぜい》の司馬の弟子どもを斬りたおし、萩乃をさらって立ち去った……あのさわぎには、玄心斎をはじめ谷大八、どっちへついていいかとまちまちの議論が沸《わ》いたが、朝になってようすをうかがうと、お蓮様や丹波は、何事もなかったかのようにヒッソリとしている。
「たとい祝言はまだでも、萩乃様は若殿の奥方様じゃ。これはこうしてはおられぬ」
という考えが、伊賀の連中のあいだにだいぶ有力だったのだが、これには何か仔細《しさい》ありとにらんだ玄心斎、今日《きょう》にも明日《あす》にも、どこからか手がかりの糸がほぐれてくるに相違ない。このさいいたずらにあわてまわるのは、策《さく》の得たものではないと、信ずるところあるもののごとく、玄心斎はそう言って、やっとみなをおさえているのだ。
ところで、この司馬の屋敷は、門をはいると道が二つにわかれて、一方は板敷の大道場を中心にしたひと構《かま》え、ここに、お蓮様丹波の一党が巣を喰っているのです。
そして。
もう一つの道は、そのまま奥庭へ通じて、庭のむこうの壮麗をきわめた一棟――源三郎の留守を守る伊賀の連中が、神輿《みこし》をすえているのはここだ。
で、道をまちがえたのだ。お露は。
来てみると、想像していた以上に大きな屋敷である。
まず、りっぱな御門におどかされたお露は、とみにははいれずに、しばし門の前をいったり来たりしたが、これでは果《は》てしがない……。
「こちらのお嬢さまが、いま自分の家にいる若殿様を慕って、ゆうべからこっそり会いに来ていると知れたら、どんな騒ぎになるだろう。イエ、大騒ぎにしないではおかない」
萩乃と源三郎のことを思うと、弱いお露が、ぐっと嫉妬で強くなった。スタスタと門をくぐって、数奇《すき》をきわめた植えこみのあいだを、奥のほうへ――。
もうとうに朝飯のすんだ時刻。
ほがらかな陽が、庭木いっぱいに黄金《こがね》の雨のように降りそそいで、その下を急ぐお露の肩に、白と黒の斑《ふ》を躍《おど》らす。
さいわい誰にも見とがめられずに、奥座敷の縁側のそばまで来たお露は、沓《くつ》ぬぎにうずくまるように身をかがめて、低声《こごえ》。
「あの、モシ、どなたかおいでではございませんでしょうか」
「アア、びっくりした!」
座敷の真ん中に、大の字なりに寝ころんでいた谷大八が、ムックリ起きあがった。
三
ものを言うたびに、首を振る。すると、大髻《おおたぶさ》がガクガクゆらぐ。
これが、谷大八の癖《くせ》だ。
「なんだ、娘。貴様はどこからまいった」
「アノ、わたくしは、葛飾《かつしか》の三|方子《ぽうし》川尻《かわじり》の六兵衛と申す漁師の娘で、お露という者でございますが――」
「ナニ、漁師の娘? それが何しにここへ……誰がここへ通した。門番へことわってきたのか」
「いえ、ただスルリとはいってまいりましたが――アノ、お侍様たいへんなことができましてございます。源三郎様のところへ、昨晩こちらのお嬢様が逃げていらっしゃいまして」
「ナニ? 源三郎様のところへ?
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