と考えますが」
 若侍は、取りつく島もなく、黙ってしまった。
「全く」
 と別所信濃守は、うれい深げに腕組みをして、
「百姓は近年、なみなみならぬ困りようでございますが、穀種を他《た》から借り受けて、ようやく植えつけをすまし、本面《ほんづら》の額《たか》を手ずから作る者は、いたってすくないとのことです」
「実に窮乏の体《てい》に見えます。そこで、このたびの東照宮御普請は、各領その高々に応じて、人別で沙汰するようにするのですナ」
「殿、おそれながら……」
「日光山から四十里のあいだは、御修覆ができあがるまで、住民の旅立ち、その他すべて、人の出入りを禁ずることは、お山止《やまど》めと言って、これは先例のとおりです。各所に関所を設けて、この見張りを厳《げん》にせねばならぬ」
「さよう。それから、いっさいの雑役は、たしか宗門を改めたうえで、各村から人足を出させるのでございましたな」
「そうです。壮年組は二十五歳から五十歳まで、少青年組は十五歳から二十三歳までをかぎって、村々から人夫を取りたて、昼夜の手当と、昼飯料《ちゅうはんりょう》をとらせねばならぬ」
 対馬守は、今度のお役につき調べたところを、ボツボツ思い出しながら、
「すべてこの日光を取りまく四十里の地が、御修理に力を合わせることになるわけで、女子《おなご》にもつとめが科せられるはずだとおぼえておる。十三歳から二十歳までの女一人に、一か月につき木綿糸《もめんいと》一|反分《たんぶん》を上納させるんですな――」
 いつまで続くかわからない。たまりかねた取次ぎの若侍。
「殿! 司馬道場より、安積玄心斎殿がお見えになりました」
 思わずそう言いかけると、対馬守、クルリと膝を向けかえて、
「ナ、何? 玄心斎がまいったと? ナ、なぜ早く言わぬッ!」
 言おうと思っても、いう機会を与えなかったくせに。

   水打《みずう》つ姿《すがた》


       一

 女の子が人形の毛をむしったり、こわしてしまったりするのと、同じ心理。
 女性には、得《え》てこういうところがあるのかもしれない……大事な品でも、じぶんの手に入れることができないとわかれば、いっそ破壊してしまおうという本能が湧《わ》く。
 この場合は、それに嫉妬《しっと》が手伝って。
 父|六兵衛《ろくべえ》の家を、パッと飛び出した娘のお露《つゆ》。
 外はまだまっ暗だが、これから朝へ向かうのだから気が強い。しっとり露を含んだ地面に、下駄の歯を鳴らして、お露はいつしか、白い素足も乱れがちの小走りになっていた。
 目の前の闇よりも、彼女の心の暁暗《ぎょうあん》。
 それというのが……。
 父が三|方子川《ぽうしがわ》から救いあげてきた柳生源三郎、わが家の奥座敷に病《やまい》を養い、このお露が、朝夕ねんごろに看病《みとり》をするうちに、見る人が思わずおどろきの声を発するほどの、すごいような美男源三郎ですから、お露はいつからともなく、三方子川の川波よりもさわがしい胸を、源三郎に対していだくことになったので。
 由緒《ゆいしょ》のある人――もとより、はじめからそうにらんではいた。言《げん》を左右にして身分を明かさないところがなおいっそう、そう思われたのだが。
 しかし、知らなかった……知らなかった!
 あれが、本郷の有名な道場のお婿さんで、あんなきれいな――あんなきれいな奥様があろうとは!
「たしか本郷妻恋坂、司馬道場とやらの……」
 さっき、つぎの間のふすまのかげで、そっと立ち聞いたところでは、ボンヤリとだが、なんでもそういう話。
「でも、ほんとうにもう奥様なのかどうか――どうも二人の話では、ハッキリしないけれど、お互いに思い思われた同士のことは、あの模様でもよくわかる。それに、何やらあのお侍さんは、お婿入り先の道場とのあいだに事情があって、どうやら死んだことにでもなっているようす」
 両の袖をしっかり胸におさえてお露は足を早めながら、心の闇から外の暗《やみ》へ、苦しいひとり言《ごと》を吐《は》きつづける。
「とてもいわくがありそうだわ。ひとつ、その妻恋坂の道場とかへ知らせてやったら、どういうことになるかしらん――」
 深いことは知らないお露、ただもう嫉妬の焔に眼がくらんで……きっとあのお侍のいどころが知れれば、その道場から人が来て、あのお嬢さんとの仲を引きさくに相違ない。そうして、あの美しいお武家様が一人になったら、また自分へ、色よい言葉をかけてくださるかもしれぬ……。
 お露の頭には、このこと以外何もありません。こうして彼女が源三郎の所在《ありか》を道場へ通じることが、どう事件を浪《なみ》だたせて、自分は無意識のうちに、どんな運命の一役を買っているのか、そんなことを思うひまは、お露にはないのだった。
 ころがるように急ぐ道に、だんだん
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