終わった。
 そして、片手に壺を握るやいなや、
「百潮というからには、海へ帰りゃあ本望だろう」
 ドブーン――!
 うちよせる波へ、その壺を投げこんでおいて、あとをも見ずにスタスタ歩きだした。
 ほんとに、百の壺を集めるうちには、どういういきさつで真のこけ猿が現われないものでもないと、左膳はまったく信じているのだろうか。
 そんなことは、どうでもいいので。
 茶壺というものに対して、魔のような迷執を持ちはじめた丹下左膳、ただ、壺を手にすればいいのだ。いや、濡れ燕に人血を浴びさせればいいのだ。ひょうひょうとして左膳はたちさって行きます。

       七

 東海道の道筋に、白衣をまとったおそろしく腕のたつ浪人者が、伏せっていて、やにわに路傍の藪からおどり出ては、それも奇妙に、茶壺の道中だけをねらう……。
 というので、人呼んで藪の白虎。
 これが宿場宿場の辻々に評判になって、人々みな恐れをなしたのは、このときである。
「駿河の国にいたりぬ、宇津の山にいたれば、蔦《つた》、楓《かえで》はえ茂りて道いと細う暗きに、修行者に逢いたり。かかる道をば――」
 伊勢物語の一節。
 この宇津谷峠《うつのやとうげ》で出会ったのは、修行者だったからいいようなもの――。
 安倍川《あべかわ》を西に越えると、右のほうにえんえんたる帯のような、山つづきが眺められる。箱根から西で名の高い、宇津谷峠というのはこれだ。山のいきおいは流れて、高草山となり、ものすごく海にせまっている。
 宇治の茶匠からの帰り、茶のいっぱい詰まった壺を、例によってお駕籠へ乗せ、大勢で守護して通りかかったのは、堀口但馬守のお喫料《のみりょう》を、これから江戸屋敷へ届けようという一行。
「なんの。これだけの人数のそろっておるところへ、その藪の白狐とやらが現われたところで」
 と、供のなかで、そう大声をあげたのは、額の抜け上がった四十五、六の侍だ。
「白狐ではない。白虎じゃ」
 一人が訂正して、
「イヤ、いずくの藩中でも、お壺の守護はおろそかにはいたさぬに相違ないが、それでも、噂によれば、かなりやられておるということだぞ。岡本能登守様、井上大膳亮殿、これらがみんな壺を奪われ、あまつさえ、すくなからぬ人命を失ったとのことじゃ」
「ナアニ、いかに腕が立てばとて、相手は浪人者ひとり、なにほどのことやある」
 とまたべつの一人が、こう時代な言葉でいばってみせたときだ。
 すぐうしろで、
「箱根を越してしまやア、もうこっちのものよ。箱根からむこう、お江戸とのあいだにゃア、化け物はいねえからの」
 という鉄火な声!
 ギョッとして振りむいた一同の眼にうつったのは、ちょうど一行が通りかかっている路傍に、大きな杉の老木……その杉の木の幹によりかかって、ニヤニヤ笑ってこっちを見ている、隻眼隻腕の立ち姿。
 噂をすれば影!――出たんです、案の定。
 それからのち、またたくうちに、その宇津谷峠の山道の草は、たんまり人の血のこやしをあびて、おまけに、丹下左膳のふところ帳「心願百壺あつめ」には、堀口但馬守おん壺、銘《めい》東雲《しののめ》、宇津谷峠にて……と、書き加えられていた。
 これはいくつ目か、わからない。
 一、秋元淡路守殿御壺、銘《めい》福禄寿《ふくろくじゅ》、日坂宿手前、菊川べりにて。
 一、大滝壱岐守殿おん壺、春日野《かすがの》の銘《めい》あり。
 一、藤田|監物《けんもつ》……の場合などは、これはからの壺を守って、宇治へ急ぐ途中でしたが、夕方、丸子の宿へかかろうとするとき、霧のように襲う夕闇に、誰も気がつかなかったのだが、あわただしい一人のさけびにフト心づくと、いつのまにまぎれこんだものか、左膳チャンと行列のなかにはいって、足なみそろえていっしょに歩いていた。
 藤田家重代の、松の下露の銘ある宝壺が、このときみごとに奪われたことは、言うまでもない。だが、心願の百までは、まだいくつあることやら。
 恋の憂さを忘れようと、街道に狂刃をふるう丹下左膳。

   お山《やま》四十|里《り》


       一

 江戸へ着いた柳生|対馬守《つしまのかみ》一行。麻布|林念寺前《りんねんじまえ》の上《かみ》やしきで、出迎えた在府《ざいふ》の家老|田丸主水正《たまるもんどのしょう》を、ひと眼見た対馬守は、
「主水ッ! 御公儀のお情けで、名もなき壺に秘図を封じこめ、屋敷の庭隅に大金が埋ずめあるなどと……貴様、いいようにされて、つかまされたなッ」
 とどなった。
 剣眼|隼《はやぶさ》よりも鋭い柳生対馬守さすがに、あの、上様と愚楽と、越前守とで編みだしたからくりを、まだ話を聞かぬ先に、みごとに見抜いてしまったのだ。
「恐れながら、かの愚楽老人より、それとなく申しふくめられまして……日光は迫るワ、こけ猿《ざる
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