は、これよりほかはない。形式、儀礼の尊重ということは、ここから生まれるのです。
時代をへだててみると、いかにも無用――無用どころか、滑稽としか考えられない儀礼や形式でも、当時その社会に生き、そのなかに呼吸していると、なんらの不自然もなく、そのまま受け入れることができたに相違ない。
制度、組織の力が、そこに働いていたからだ。
たとえば、このお茶壺というもの。
お茶を入れる壺といってしまえば、それだけのものだが、これを宇治の茶匠まで送りとどけて、茶を詰めてかえる道中が、たいへんなものでした。
壺の主のお大名と同じ格式をもって、宇治へ上下したものだという。一万石は一万石、十万石は十万石の権式《けんしき》で、茶壺が街道を往来するのです。
槍を立て、その他の諸道具を並べた行列――お駕寵のなかは殿様かと思うと、そうではなく、お茶壺がひとつ、チョコナンと乗っかっていようという。
騎馬、徒歩の警護の侍が、ズラリと壺を取りまいて、
下におろう、下におろう……!
平民はみな土下座をして、壺一箇を送り迎えしなければならない。
第一日は、品川松岡屋が定宿。
「サア祝儀が出るから、こんなのんきな旅はない。ゆるゆる行こう」
こう言って、供の人数を見まわすように振りかえったのは、石川左近将監の重臣で、竹田なにがし。
あの日光お相役をのがれるようにと、賄賂を持って柳生藩江戸家老、田丸主水正のもとへ使者に立ったことのある人物だ。
こんどその、石川左近将監どのの茶壺が、宇治へのぼることになったについて、竹田が道中宰領として今江戸を出発するところ。
旅にはもってこいのいい時候。
朝七つ時に神田|連雀《れんじゃく》町の石川様の屋敷を、御門あきとともに出発した一行は、これから五十三次を、お壺だちといってそれぞれの宿場にとまりを重ねてゆくのだが、宿屋などでは身祝いをして、御馳走が出たり、名物のおみやげがめいめいの前に山と積まれたり……。
役得根性の一同は、イヤ、もう大喜びだ。
何日となく旅をつづけて、大磯から小田原へはいると、いわゆる箱根手前、ここは大久保加賀守の御領で、問屋役人から酒肴が出る。
竹田の一行はすっかりいい気持で、箱根を越え、サテ、いまこの沼津へさしかかりました。水野出羽守様御領……。
沼津名物、伊賀越え道中双六の平作と、どじょう汁。
品川から十三番目の宿場ですな。
三島からくだり道で、沼津の町へはいりますと、
「どうだい、右に見えるのが三国一の富士の山、左は田子の浦だ。絶景だなア!」
お壺の駕龍が千本松原へ通りかかると、お壺休み。つきしたがう侍たちは、松の根方や石の上に腰をかけて、あたりの景色にあかず見入っています。
警護頭の竹田も、のんびりした気持になって、お駕籠わきの床几にからだをやすめながら、煙管をとり出して一服しようとする……。
そのときだ。
たちならぶ松のむこう、下草などの生い茂っている草むらのなかから、ヌッと白い柱のようなものが起ちあがった。が、まだ誰も気がつかない。
「さア、ひと休みしたら、そろそろ出かけるとしようか」
てのひらで煙管をたたいて、竹田がポンと火殻を吹いた。
二
恋をゆずる気持ほど、悲惨な心はないであろう。
とすれば。
今の丹下左膳ほど、暗い胸のうちもまたとあるまい。
三方子川尻の漁師、六兵衛の家に、萩乃と源三郎をそのままにして、心の暁闇をいだいてたちさった左膳。
アアもうふつふついやだ、うるさいことは……期せずして、あの櫛巻の姐御と同じ心境にたちいたったが。
その、世を捨てた気の丹下左膳――左膳だけに、その捨て方がちょっと違う。
「おれの力ひとつで、なんとかしてこけ猿を見つけだしてえものだ。はじめ与吉が盗みだしたのを、あのチョビ安が引ったくって走り、それがおいらのふところに飛びこんだのだから、あの最初の壺こそは、真のこけ猿に相違ねえのだが、それがいつのまにか転々の、数かぎりもない偽物が現われて、こけ猿はいまどこにあるやら?――こうなりゃア、天下の茶壺という茶壺をかたっぱしから手にいれるだけだ。それには、宇治へ上下する茶壺道中をねらい……ウム! どの大名の壺にも、供の侍がおおぜいいることだから、ひさかたぶりにおれも、この濡れ燕も、思うさまあばれられようというものだ。こいつはうめえところへ気がついたぞ」
ニンマリ笑った左膳、見つけしだい壺の行列をおそって、斬って斬ってきりまくり、それでやっと、萩乃をあきらめたせつなさを忘れようというので――旅に出るといったって、べつにしたくも何もありはしない。
いつものまんまです。
汗と塵によごれて、ところどころ黄色くなった白の着物に、すりきれてしんが出ていようという博多の帯を貝の口に結んで、彼にとっては女房
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