に傍点]とはつらい……。
その鼻先へ、治太夫、かかえて来た壺を突きつけんばかりに差し出して、
「申しあげます。儀作の奪われました壺が、戻りましてございます。唄うたいの男が、お宿の前で儀作に追いかけられ、ほうり出して逃げましたので、運よく割れませんでしたのが、何よりのさいわい」
「ナニ? 壺がかえったと? よし、ちょうどよい折りじゃ。一風に鑑定させよう」
たくましい腕をのばして、むずと壺を引ったくった対馬守は、
「宗匠ッ! これはこけ猿かどうだッ」
また耳の聞こえないのを忘れて、大声に叱咤しながら、グイと宗匠の眼のさきへ壺を見せた。なんのことはない、柳生一刀流正眼の構え。
声は聞こえなくても、さすがに宗匠、この意味はわかったとみえる。今まで眠っていたような眼が、見るみるうちにいきいきした光を添えたかと思うと。
二秒、三秒、じッと壺の一箇所をみつめていたが――。
「――――」
だまって首をふりました。
こけ猿ではない、と言う。
「エーイッ、そうだろうと思ったッ!」
叫びざま対馬守、治太夫の頭を目がけてはっしとばかり、壺を投げつけたが、治太夫も相当なもの。日光修理が近づくにつれ、いらだつ殿の癇癪《かんしゃく》は毎度のことで、慣れている。
ハッと首をすくめたから、壺は雨戸へあたって大音響とともに微塵にくだけ散った。
五
同時に対馬守は、すっくと起ちあがって、足ばやに一風の部屋を出かかったが、そのとき、廊下のむこうから儀作を先頭に、二、三人の侍が急ぎ足に――
ハッと殿の足もとに、小膝をついた儀作が、
「残念でござりますが、ふたたびとり逃がしましてござります。なんとも、足の早い男で」
「捨てておけ、さような下郎は……コレッ、皆の者よく聞け。余の求めておるのは、真のこけ猿の茶壺じゃ。今後偽物を持ちこんだやつは、うち首にいたすからそう思え」
八つあたりのありさまだが――むりもない。日光は容赦なくせまり、柳生一藩の存亡、今日明日にかかっているので。
追いすがった儀作は、一生懸命の声。
「その男と連れだち、三味線を弾いておりましたあやしい女を、おさえてございまするが」
「女などとらえてなんになると思うか。たわけめッ!」
吐き出すように言った対馬守だが、すぐ思いかえして、
「ウム、広間へ引き出せ。余がじきじきにきくことがある」
「ハッ、ごめん」
かけ抜けた儀作は、そのまま広い本陣の廊下を小走りに、裏手の供待ち部屋へ来てみると、
「いくらこんな女《もの》でも、まさかネ、野宿はできませんからね。どこかに宿をとらなくちゃアならないと思っていたところを、こうしてこちらへ御厄介になることになって、旅籠《はたご》賃だけでも大助かりだよ。お礼を言いますよ、ハイ」
おおぜいの侍にかこまれて、膝先に煙草盆を引きつけたお藤だ。
平気の平左で、帯のあいだから小意気な煙管を取り出し、一服つけては、ポンとはた[#「はた」に傍点]く吐月峰《はいふき》の音。
「不敵なやつだ」
儀作はにらみつけて、
「殿のおめしだ。すぐまいれ」
「あ、そう?」
お藤は軽く煙管をしまって、
「キリキリ立アてというところだね、オホホホ」
江戸のこけ猿騒動に、なんらかの点でこの女が、重大な関係を持っているに相違ないと思うから、一同はひしとお藤をとりまいて、御前へ出たのです。
あせりきっている対馬守……。
頑丈なからだをもたせかけると、蒔絵の脇息がギシときしむ。
イケしゃあしゃアと前へすわったお藤へ、ジロリとするどい眼をくれた殿様、
「江戸からか?」
「在郷うまれと見えますかね? フン」
かたわらの侍たちが、たけりだって、
「コラ、女! どなた様のおん前だと思う。気をつけて口をきかぬと、ウヌ、手は見せぬぞ」
「よいよい、おもしろそうなやつじゃ。うっちゃっておけ……そこで女、貴様にきくが、逃げたと申すつれの男は、何者かの?」
「サア、……神奈川《かながわ》で顔が合って、のんきに東海道をのぼろうと、マア、話しあいがついていっしょになっただけでね、どこの馬の骨だか、ハイ、あたしゃいっこうに――」
「知らぬと申すか」
じっとしばらく、何事か考えていた対馬守、急にニッコリして、
「ナア女、しばらく芝居をしてみる気はないかの? 余のもとに」
「アイ、それア狂言によりけりでネ、どうせ世の中は、芝居のようなものですから、役によっては承知しないともかぎりませんのサ」
「フーム、これはなかなか話せるわイ――これ、ここはよい、あちらへ!」
と対馬守、いならぶ家臣たちへ、ヒョイとあごをしゃくった。
藪《やぶ》の白虎《びゃっこ》
一
簡単なことを複雑にする……。
うつろな制度、内容の腐りかけている組織を、むりに維持してゆくために
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