ねえ」
苦笑したお藤、ヒステリカルな癇癪を起こして、一人っきりの家で髪をかきむしったり、茶碗をぶつけて割ったり……それも一人相撲と気のついたあげくは、通りがかりの屑屋を呼んであのこけ猿の茶壺を二束三文どころか、ただでくれてしまった。
ブラリと旅に出たんです。住みなれた尺取り横町の長屋に、ベタリと貼られたかしや札。
尺取り虫を踊らせる、奇態な女芸人がいるところから、人呼んで尺取り横町……その名物の本尊がなくなった。
「笠ひとつに、三味線一丁、それにこのかあいいお虫さんさえいれば――」
荒い滝縞に、ずっこけに帯を巻いて、三つに折れるたたみ三味線と、商売道具の尺取り虫、それを小さな虫籠に入れたのを、長い袂へほうりこんだお藤、思いきりよく江戸をあとにした。
奇妙な俗説があります。頭のテッペンから足のさきまで、この尺取り虫に尺を取られると、命がないという。
嘘かほんとうかわからないが、櫛巻お藤、それを信じている。
信じて疑わない。
で、ふだんなら尺取り虫を飼って、弾く三味線の音《ね》につれ、何匹もの虫が背を高く持ちあげては、伸びたり縮んだりしてはいまわる。それが、いかにも虫の踊りに見えるところがお愛嬌の売りもの。
だが、すごい遊芸です。まかりまちがえばこの虫に相手の尺を取らして、ほんとに死ぬかどうか、見たいものだと考えているお藤、最大の武器をたずさえて道中している気だ。
一時木曽街道へ出たのですが、まもなく引っかえして、気まぐれの一人旅。こんどはこの東海道を、足の止まるところまで伸《の》そうという考え。
思い出すのは、左膳のこと……また。
「どうしたろうねえ、あのチョビ安って子は。あたしが連れて、虫踊りの門づけに、八百八町を流し歩いたこともあったッけ。こましゃくれた、かあいい児だったがねえ」
と、神奈川の街道筋で、ボンヤリ追憶にふけっているところへ出現したのが、鼓の与吉だったのです。もうすっかり世を捨てたつもりのお藤姐御、与吉を見ても知らん顔して、つっぱねようとしたのだが。
そうはいかない。
与の公、まるでダニみたいな男で、ズルズルべったりにつれになってしまった。
妙な組みあわせの同行二人。
今この程ケ谷の夜の町。
ふと唄いだした与吉の、伊賀の暴れん坊の歌を、お藤が止めたときです。
「コレコレそこへ行く二人」
声がした。
艶虜人《えんりょじん》
一
「アッ! 柳生対馬守とあらア」
本陣の前を通りながら、与吉がさきに見つけたのだ。
出たとこ勝負の二人なんです。与吉は、儀作からうばったこの壺をぶらさげて、ほどあいを見はからって江戸へ帰ろうという心。
江戸では、峰の殿様が待っていらっしゃる。
が、しかし、これからすぐ江戸へ……とお藤姐御に言ってみたところで、おいソレと引っかえす櫛巻のお藤ではない。といって壺をかついで一人でノコノコ江戸入りするのは、危険千番。
さいわいここで、お藤というものを発見したのだから、二人連れの旅芸人と見せかけて、でたらめの唄でもうたいながら、せめて箱根の手前ぐらいまで行ったのち、お藤のお天気のよいときに、江戸へ戻ろうとすすめても、遅くはない。
こういうはらだから、与の公、手拭を吉原かぶりに、聞きおぼえの新内などうなりながら、今宵さしかかったのがこの程ケ谷の宿だ。
伊賀からのぼって来た対馬守の一行が、ここに泊まっていると知った与吉、まさか、あの、神奈川宿でいっぱい食わした若党儀作が、自分より先まわりして、もうこのお宿にいようとは、夢にも思いません……あいつは、壺を取られて面目なく、泣くなく、江戸に帰りやがったに相違ねえ。
一つ、ひやかしてやれ。
突拍子もない調子を張りあげて、
「さわるまいぞエ手を出しゃ痛い、伊賀の暴れん坊と栗のいが[#「いが」に傍点]」
聞こえよがしに歌ったものです。
「およしなさいよ、お前さん。伊賀侍をおこらせると、あとのたたりがこわいことは、誰よりも与の公、お前がいちばん知ってるはずじゃアないか」
お藤がたしなめたが……。
すでに遅かった、そのときは、
「コレ、そこへまいる両人、ちょっと待て」
「ヘイ、あっしどもで」
立ちどまった与吉が、ヒョイと見ると、肩をいからした頑丈な侍が、広い本陣の門口から出て来ようとしている。
お藤はソッと与吉のひじをついて、
「ソレ、ごらん、おまえさん。だから言わないこっちゃアない。藪をつついて蛇を出したじゃあないか」
侍は威猛高に、ツカツカと寄ってきて、
「コラッ! 栗のいが[#「いが」に傍点]がいかがいたしたと?」
その大声に、供溜りにいたらしい若侍が五、六人、バラバラッととびだしてきたが。
それよりも!
与吉のおどろいたことには――。
あがり框《がまち》にせのびを
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