ですから、藩の上下をあげてそのあわてようといったらありません。
 壺はかいもく行方知れず。日光おなおしの日は、容赦なく迫る。たいがいのことにはさわがない対馬守も、これにはさすがに手も足も出ない。
 やっと神輿《みこし》をあげたわけですが、
「東海道は一本道じゃ。江戸のほうからまいる旅人に気をつけるようにと、先供《さきとも》によく申せよ。どうも余は、今にも主水正から使いがありそうな気がしてならぬ」
 とこうして途上でも、剛腹な殿様が壺のことを気にしているのは、もっともなことで。
 虫が知らせる……というほどのことでもないが、江戸へ近づくにつれて、なんとかして壺の吉左右《きっそう》が知れそうなものだと、しきりにそんな予感がするのです。
 百いくつになる一風宗匠も、これが最後の御奉公とばかり、枯れ木のようなからだを駕籠に乗せて、やっとここまで運ばれてきたのですが、何しろ希代の老齢、江戸へ着くまでからだがもてばいいけれど。
 にせのこけ猿が二つも三つも現われたという。この噂だけは、国もと柳生藩にも伝わっているので、唯一無二真のこけ猿の鑑定人としてどうしてもこの一風宗匠の出馬はこの際必要だったのです。
 江戸へさえ出れば、なんとかなる……これが対馬守のはら。この、源三郎と司馬道場のいざこざも、どうなっていることか――。
 剣をとってはまことに天下一品、腕前からいっても源三郎の兄である剣豪柳生対馬守の胸も、この心たのしまない旅に、ちぢに乱れて。
 平塚――大山|阿夫利《あふり》神社。その、三角形の大峰へ詣る白衣の道者がゾロゾロ杖をひく。
 藤沢――境川にまたがって、大富、大坂の両町。遊行寺《ゆぎょうじ》は一遍上人の四世|呑海和尚《どんかいおしょう》の開山。寺のうしろの小栗堂は、小栗判官照手姫の物語で、誰でも知っている。
 戸塚――程ケ谷。
 おとまりはよい程ケ谷にとめ女、戸塚まえで、放さざりけり……ちょうど地点が一夜のとまりに当たっていますから、大小の旅宿《はたご》がズラリと軒をならべて、イヤ、宿場らしい宿場気分。
 町のはずれまで宿役人、おもだった世話役などが、土下座をしてお行列を迎えに出ている。いくら庄屋でも、百姓町人は絹の袴は絶対にはけなかったもので、唐桟柄《とうざんがら》のまち[#「まち」に傍点]の低い、裏にすべりのいいように黒の甲斐絹《かいき》か何かついている、一同あれをはいています。
 対馬守と一風と、二丁のお駕籠が本陣の前にとまりました。

       五

 本陣の奥の広間。何やら双幅《そうふく》のかかった床の間を背に、くつろいだ御紋付きの着流し、燭台の灯にお湯あがりの頬をテラテラ光らせて、小高い膝をどっしりとならべているのは、柳生一刀流をもって天下になる対馬守様。
 今宵のとまりは、この程ケ谷。
 一夜の旅の疲れをやすめようとなさっているとき、近侍の者の知らせ……江戸家老田丸主水正の若党儀作というのが、狂気のように、ただいまお眼どおりを願ってお宿へ駈けこんだという注進だ。
 普通ならば、若党が殿様にじきじきお話を申しあげるなどということは、あるべきはずのことではない。
 何人もの口をとおして、言上もし、また御下問にもなるわけですが、旅中ではあり、何分急を要することなので。
 破格のお取りあつかい。
「その儀作とやらを、これへ――」
 となった。
 で、今。
 合羽を取っただけの旅装束のまま、裾をおろした若党儀作……彼は、神奈川の宿はずれで、名も知れない道中胡麻の蝿のために、大事の証拠品の壺をうばわれて、追いかけるまもなく、相手は、地殻を割れてのまれたように見えずなってしまったから、それからのちの儀作は、もう半狂乱、半病人。
 申し訳ない。なんと言いひらきをしたらいいか――いくど切腹を思ったかしれません。
 が。
 さきの長い街道筋だ。これから柳生の里までのあいだに、またあの町人に出あうことがあるかもしれないと、それだけを唯一の頼みに、フラフラとつきものでもしたように、やっとこの夕方通りかかったのがこの程ケ谷の本陣の前。
 今夜はお大名のおとまりがあるとかで、宿中なんとなくざわめいているから、片側に道をよけて通りながら、ヒョイと見ますと、
 昔は殿様のお宿には、大きな立て札を出したもので――墨痕おどる一行の文字は、柳生対馬守御宿。
 眼をこすった儀作、めざす国もとの殿様が、先知らせもなく江戸へのぼって来る途中、もうここまでおいでになっているとは……知らなかった、知らなかった――。
 言いようのない不覚をとった以上、伊賀へ帰れば、斬られる。といって、このままおめおめ江戸へ引っかえせば、やっぱり主人主水正が、ただはおくまい。
 どうせあの壺とかけかえに、消える命ときまっているなら、今ここで、藩主の御一行に出あったのをさいわい
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