もって感銘いたした。余の恩人であるのみならず、聞けば今宵、まさに丹波の手に渡らんとした道場を、邪魔だてしてすくってくれたのも、かの左膳――」
「それよりも」
と萩乃は、もじもじあかくなりながら、
「わたくしをここへ連れてくれましたのが、何よりうれしくて……部屋へふみこまれていきなり横ざまに、抱きかかえられたときには、この身はどうなることかと思いましたけれど――」
明け方の色の、かすかに動きそめた室内。源三郎はこの萩乃など、なんとも思っていないくせに、さもさも恋人同士のよう、膝を突き合わせんばかりに話しこんでいる。その言葉に伴奏をいれるかのように、あるかなしの音をたてて背戸口から流れこんでくるのは、岸を洗う三方子川の夜の水。
相手が女でさえあれば、変に思わせぶりなそぶりを見せるのが、この不良青年柳生源三郎の、いつもの手なんだ。
そんなこととは知らないから、かわいそうに萩乃、もうこの人のためには家もいらない、命もいらないとまで思いこんでいるようす。
あんなに自分をしたう左膳の胸中は、つゆほども知らずに、悪魔的な源三郎を恋いこがれるなんて、人の心はどうしてこう食いちがうのでしょう。
すると、です!
さっきから、隣室《となり》の境のふすまのかげに、ソッときき耳をたてていた六兵衛の娘、お露さん……。
くわしいことはわからないが、二人の話で、だいたいの模様は察しられます。
許婚《いいなずけ》なんだわ、このふたりは――とそう思うと、眼の先に赤い布を見た牛のように、お露は、カッとして起ちあがっていた。
父六兵衛の寝息をうかがって、しずかに土間へおりたお露、潜戸《くぐり》をあけた。
そして、パッととびだしたんです。コレ! どこへ? 嫉妬に狂って。
二
パッととびだした……パッとかけだした鼓の与吉。
もう、夢中です。
若党でも、儀作、侍のはしくれだけに、刀一本をぶっさしている。
まさか竹光じゃアあるまい。
今にもうしろから、バッサリ斬られる――と思うから、イヤ与の公、このときの逃げ足のはやかったことといったら、それこそ、見せたいようでした。
とっさの機転のきくやつで、背中に壺のつつみを引っしょって走るのは、追いすがりざまに斬られるときの、これが用心で。
楯を背中にしている気だ。
真昼近い神奈川宿の出はずれ。一方は雑木林の山で、いまの今まで鳴き連れていた名も知れない鳥の群れが、この時ならぬ人の気配にびっくりしたものか、ハタと音《ね》をしずめて、明るい深夜のようなものすごさだ。
反対側は崖です。下には、段々畑がひろがって、遠くにお百姓の使う鍬が、ときどきキラリと眼を射る。
あっけにとられたのは、若党儀作でした。
調子のいいことを言って、壺をかついであとについてきていた、そのいなせ[#「いなせ」に傍点]な若い者が、拍子を見てだしぬけにかけぬけて、ドンドンスッとんでゆくんですから、アレヨアレヨと言うひまもない。人間、あんまりおどろくと、即座にからだが動かないものだ。火事のときなどそうです。人がたちさわぐのに、ただひとりボンヤリ立って、ニヤニヤ笑っている人などがある。
あとで皆が感心して、
「どうもあの人は、偉い。いかにも落ちついたものだて。あのおめえ、となりから火が出たという騒ぎのなかに、口もきかねえで、キッと立っているなんてエことは、ちっとやそっとの度胸ではできることじゃアねえやナ」
などと申します。
そう言われるから、本人はべつに否定もせずに、イヤ、ナニ、それほどでも……などと、あごをなでておりますが、いずくんぞ知らん、動かないのではない、動けないので。
ハッとすると、脳の働きがしびれてしまって、口がカラカラにかわき、とたんに舌がまきこむ。まず何を持ち出そうかなどと考えながら、頭のなかはそれこそ火のついた車のよう。これがわきから見ますと、非常に落ちついたように見えることがある。こういう人にかぎって、手提げ金庫とまちがえて煙草盆をだいてかけ出したり、書類入れのつもりで猫をさかさにつかんでとびだしたりなどという話は、よくあります。
こう考えてみると、歴史上の人物なども、実質の何倍か、ずいぶん得をしている人もあり、また一面には、とんでもない損をしている人もあるんじゃないかと思う。
余談にわたりました。
が、このときの若党儀作が、ちょうどそれで、
「ああ、アア、あの……!」
とわめきながら、泰然と突っ立ったままだ。
ところが、与の公も与の公だ。追ってもこないのに、もう、かかとに跫音が迫るような気がして、ひとりであわてて、
「うわあっ!」
さけぶと同時に、右手の雑木林へかけこんだのです。夢中でした。
壺をひっかかえて、ガサガサと灌木を分けてつきすすんでゆくと! 大きな栗の木が
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