た。
 あらゆる世の約束を断ち切り、男と男のあいだの問題を解決するには左膳の手に利刃濡れ燕がある。だがこの恋の迷い、おのが心のきずなだけは――。
 このひとに宛てて、あの恥ずかしい、まわらぬ筆の恋文を、書いたこともあったっけ。
 今その当の萩乃は、こうして自分の足もとに、おそれおののいている。
 手をのばせば、すべてじぶんのものに……。
 虹のような、熱い長い息とともに、左膳はひとこと。
「泣きなさんな。なア、おめえさん、源三郎を思っていなさるだろう。その恋しい源三に、会わしてやろうじゃアねえか。おいらが手引きを……」
「え?」

   心《こころ》の暁闇《ぎょうあん》


       一

「え?」
 と、涙に濡れた顔を上げた萩乃、左膳は、その夜眼にも白い顔から、苦しそうに眼をそらして、
「何もおどろくことはねえ。まさかおめえさんまで、あの丹波などといっしょになって、源三郎はもう死んだものと思っていたわけじゃアあるめえが――なア、江戸じゅうの人間が、みんな源三郎をなきものときめてしまっても、萩乃さん、おめえだけは、どこかに生きていると信じていたことだろう」
 萩乃は、もうとびたつ思い、すがりつかんばかりに、
「あの、それでは、アノ、源三郎様は御無事で……まあ! シテ、どちらに?」
 その満面にあふれる喜色は、左膳の一眼に、そのまま、針のようなつらさと映る。
 微苦笑というのは、昔からあったのです。左膳は今それをもらして、
「ウフン、おめえを源三郎にあわせてえと思って、おれアこっそり道場へまぎれこんでいたんだ。源三郎もおめえさんのことを――」
「え? では、あのお方も、このわたくしのことを?」
「マアさ、あいつもおめえのことを、おもっているだろうと思うんだ。これアおいらの推量だが――何しろ、口をきかねえ野郎だから、あの伊賀の暴れん坊の胸のうちだけは、誰にもわからねえ」
「ハイ……」
「サア、お起ちなせえ。すこし遠いが、おいらが案内役だ。こう来なせえよ」
 バタバタと裾の土をはらって、立ちあがった萩乃、左膳にしたがってその空地を出ようとすると!
「うぬ、あの化けもの。侍、いずくへまいった」
「ソレ、とりにがしてはならぬぞ」
「ナニ、拙者が見つけて、一刀両断に――」
 提灯の灯といっしょに、司馬道場の若侍の声々が、妻恋坂をすっとんでゆく。大丈夫もうそこらにいないと見きわめをつけたうえで、いばっているんだから世話はない。
 その連中の通り過ぎるの待って、左膳は萩乃をつれて、妻恋坂をあとにしました。折りよく通りがかったのは、二丁の空駕籠。左膳と萩乃と二人の姿は、その駕籠にのまれたが――。
 ゆく手は?
 ちょうど、この同じ時刻。
 話はここで、この二丁駕籠の先まわりをして……三方子川の下流です。
 川釣りの漁師、六兵衛の住居。
 奥の六畳……といっても、ふすまはすすけ、障子は破れ、柱などは鰹節のように真っ黒な――真ん中に、垢じみた薄い夜具を着て、まだ病の枕から頭があがらずにいるのは、柳生源三郎でございます。
 伊賀の暴れン坊の面影は、今この、病む人の身辺に、わずかに残っているにすぎない。あの穴埋め水責めの危機の際に、悪い水を飲んだらしいのです。衰弱したからだに余病を発して、あれからずっと、この川網六兵衛の家に寝たッきりなのだ。
 看病するのは、あの痩せ鬼のような左膳。かれのどこに、そんなやさしい心根があるのか、まるでもう親身のようなこまかい心づかい、
 それと、この家の娘、お露――。
「あの、御気分はいかがで……」
 いまも、そう言って枕もとにいざりよって来たのが、六兵衛のひとり娘お露です。破れ行燈の灯を受けて、手織りのゴツゴツした縞|木綿《もめん》、模様もさだかならぬ帯をまいて、見るかげもない田舎娘ですが……その顔の美しさ! 着飾らして江戸の大通りを歩かせたら、振りかえらぬ人はないであろう。ことにその眼! 今その眼が、艶に燃えているのは、ハテ、どういうわけでありましょう?

       二

 年齢《とし》は十七? それとも八?
 ポッと上気した顔を、恥ずかしそうに灯にそむけて、お露は枕もとへ膝をすすめ、
「アノ、もうお薬をめしあがる時刻で……」
「ウム」
 やっと腹《はらん》ばいになった源三郎、のびた月代《さかやき》を枕に押し当てたまま、
「イかいお世話になるなア。あの左膳とともに、あなたの父上にあぶないところを救われてから、もうよほどになる。左膳はあのとおり、すぐ恢復いたしたが、おれは濁水を飲んだのがあたったとみえて、いまだにこのありさまとは、われながら情けない」
 身もだえする源三郎のようすに、お露は美しい眉をひそめて寄りそい、
「すこしおみ足でもおさすりいたしましょうか。マア、そんなにおじれにならずに、ゆっくり御養生あそ
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