《や》った!
 そのはやいのなんの……右側にいた一人、ガクリと膝をついたとみると、その膝っ小僧から一時にふき出す血、血。
 プクプクとおもしろいようにわき出る血綿、血糊が、みるみる袴のすそを染め、板の間にひろがって、
「わッ! ウーム!」
 大刀をいだいて、ころがってしまった。
 足を斬ったからあし[#「あし」に傍点]からず……左膳、そんなくだらない洒落は申しません。
 無言だ、もう。
 ひさしぶりに血を味わった濡れ燕は、左膳の片腕からとびたとうとするもののごとく、すでにこのときは、またもや正面の一人をななめ胴に下から斬りあげて、そいつの手を離れた一刀、はずみというものはおそろしいもので、ピューッと流星のようにとんで板壁につきささった。刀の持主は、すでに上下身体を異にして……だから、言わないこっちゃアない。
 あまりのめざましさに、一同、瞬間ぼんやりしてしまったが、
「屋内では不利! 戸外《そと》へおびき出せッ!」
 声に気がついてみると、峰丹波だ。どうもひどく要領のいいやつで、うしろのほうへ来て、足ぶみなんかしてしきりに下知している。安全地帯。
 が、さっきの丹波の命令で、道場の出口入口、厳重に戸じまりをしてしまったから、オイソレとはあきません。一方、左膳はもう、一団の白い風のようだ。白衣をなびかせて、低く、高く、飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ濡れ燕……。
 何人斬ったか、何刻《なんどき》たったか。
 このすさまじい道場の物音に、身をふるわせて自室《へや》につっぷしていた萩乃。跫音が廊下を走ってきて、やにわにふすまを引きあける者があるので、振りかえってみると、どうだ! 血達磨のような左膳が、かこみを切りやぶって此室《ここ》まで来たのだ。
「萩乃さんとかいいましたね。サ、おいらといっしょに来るんだ」
 サテは、恋に狂ったか丹下左膳。
 泣きさけぶ萩乃を、一本しかない左手にギュッと抱きかかえ、口に濡れ燕をくわえた丹下左膳。そのまま縁の雨戸を蹴やぶって、庭へ、暗黒《やみ》の樹だちのかげへ。

       三

 左膳の口にくわえている濡れ燕……五月雨《さみだれ》に濡れた燕ならで、これは、血に濡れた怪鳥《けちょう》、濡れ燕。
 その妖刀から、何人かの冷たい血潮が、刃を伝わってしたたり落ちる。
 雲のどこかに、新月が沈んでいるのであろう。庭木の影の重なるあたりに、あるかなしかの夜光が、煙のように浮動している――あわい闇夜。
 なかば気を失った萩乃は、左膳の口の濡れ燕から、しずくのように落ちる血が、その白い首筋に、二筋三筋の赤縞をえがいているであろうのを、かすかに意識しただけだった。
 口をきけば、刃が、愛する萩乃の上へ……左膳は、重い大刀をグッと歯にかんだまま、ハッハッと吐く荒い息が、萩乃の顔へ、肩へ。
「あなたは、いつぞや門之丞を斬ったお浪人、どうして今夜、またあの鎧櫃のなかへなど忍んで――そして、わたくしをさらい出して、どうなさろうというのでございます」
 必死にもがく萩乃、匹田《ひった》の帯あげがほどけかかって、島田のほつれが夜風になびき、しどけない美しさ。乱れた裾前に、処女《むすめ》の素足は、夜目にもクッキリと――。
 答えぬ左膳の恐ろしさに、萩乃は、はじめて気がついたように、
「アレイ、誰か来て! 狼藉者……!」
 さけぼうとする口を、横ざまに萩乃の胸にかかっていた左膳の左手が、ムズとふさぐ。
 振りかえれば、灯のもれる道場は、大混乱だ。何人、何十人、イヤいく十人かの死体が、そこにころがっているのであろう。人々は、左膳を追うことも忘れているらしく、屋敷ぜんたい、異様に静まりかえっている。
 ヒタヒタと庭の苔を踏んで、……ギイ、バタン! そっと裏木戸を出た左膳、萩乃を引きずり、ひったて歩かせながら、土塀に沿って魔のように、真夜中の妻恋坂を駈けておりてゆく。
 この妻恋坂の途中……ちょうど司馬の屋敷の真下に当たるところにちょっとした空地がございます。
 もと小普請入りの御家人の住居だったのが、あまり古びたのでとりこわし、まだそのままになっている。ものすごい雲の流れを背に、立ち木が二、三本ヒョロヒョロと立って、くずれた石垣のあいだに、チチチと、耳鳴りのような音《ね》をたてて鳴いているのは、あれは、なんの地虫?
 左膳は萩乃を引っかかえて、そのあき地へ切れこんだ。小暗い隅へ走りこむと、やっと萩乃をはなして、左手に持ちかえた濡れ燕を、自分の着物の裾でスウーッとふきつつ、
「萩乃さんとやら、おどろくことはねえ。おれはこのあぶない橋をわたって、おめえさんをむけえに来たのだ」
 牡丹の大輪が落ち散るように、萩乃は地面に居くずれたまま、身動きもしない。言葉もない。
 その、あやしくも美しい萩乃のさまを眼のあたりにして、左膳の胸は麻と乱れざるをえませんでし
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