武者窓をもれるあわい夜光と交錯して、道場全体、夢のような気にしずんで見える。
 鎧櫃の前に、裃を着《ちゃく》した峰丹波が、大きな背中を見せて端坐。
 その横に、被布《ひふ》の襟をかすかにふるわせて、お蓮様がうつむいている……ひそかに絹ずれの音が、一方の入口から近づいて、なみいる一同の眼がそっちへ向いた。
 泣きたおれんばかりの萩乃である。
 常ならば、澄みきった湖心のような美しい眼が、赤くはれあがっているのは、いまの今まで涙にくれていたものとみえる。二人の侍女に左右から助けられて、ソロリソロリと、足を運ばせてくる姿は、さながら重病人のようだ。
 席がきまると、
「エヘン……」
 出もしない咳《せき》ばらいをして上座《かみざ》にたちあがったのは、結城左京――あの、穴埋めの宰領をつとめた男。小腰をかがめて、ツツツウと丹波の横手へ進み、皆のほうを向いて、懐中から何やら書き物を取り出しました。
 奉書。
 つごうのいいかってなことがならべてあるに相違ない――左京、とっておきの声を張りあげて、読みはじめたのを聞くと、
「先師、司馬十方斎先生亡きのち、当道場のお跡目いまだ定まらず、もはやこれ以上延引いたす場合は、御公儀のきこえもいかがかと案じらるるまま……」
 なんかと、うまいことが書きつらねてあって、結局、峰丹波先生にとっては、これほど御迷惑なことはないであろうけれども、門弟一同の総意として御推挙申しあげるのであるから、どうぞどうぞお願いだから、この道場のあるじになっていただきたい――。
「……以上、道場総代、結城左京」
 読み終わった彼、一統のほうへ向いておごそかに、
「さて、諸君! 峰先生を流師とあおぐことに、誰も異議はあるまいな?」
 みんな黙って、いっせいに頭をさげた。と、そのとき、
「異議あるぞ」
 どこからか、小さな声が……!

       五

 異議あるぞ!――という妙にこもった声が、しんとした空気をふるわせて、ハッキリと一同の耳にはいったから、さア、野郎ども、ぎょっとした。
 膝に置いた両手で、そのまま袴をギュッとつかんで、思わず身をかたくしました。
 誰よりも驚いたのは、当の丹波とお蓮様、左京の三人――その結城左京の手にしている口上書の紙が、恐怖にカサカサと鳴るのが、聞こえる。
 ピンの落ちる音も、大きな波紋のようにひびくという静寂の形容はこういう息づまる瞬間のことを言うのでありましょう。
 唇を真っ白にした左京、かすれた声をあげて、もう一度、
「峰丹波先生が、当道場のあるじに直られることについて、むろん、誰一人として異議を唱える者はないであろうな?」
「いいや! おれは不服だ! おれは不承だ!」
 地の底? 地獄の釜の下――陰々たる声が……。
 とてもはやかった、そのときの一同の動作は。
 パッと弟子どもが片膝をたてた刹那、なかからあいたんです、鎧櫃の蓋が。
 お蓮様は、うしろざまに手をついて、今にも失神せんばかり――萩乃はかたわらの侍女の手をグッと握って、はりさけそうに眼をみはっている。
「何者だッ!」
 叫んだ丹波、とっさに腰を浮かすと同時、引きつけた大刀の柄に大きな手をかけながら、
「出入口に締りをしろッ!」
 門弟のほうへ向かってあわただしい大声。この相手は何者にしろ、道場から一歩も出さずに、押っ取りかこんで斬りふせてしまおうというので。
「ワッハッハッハ、だいぶおもしろそうな芝居だったが、イヤ、この狭いなかに身をかがめておるのは、丹下左膳、近ごろもって窮屈しごくでナ」
 声とともにその鎧櫃の中から、スックと立ち上がった白衣《びゃくえ》の異相を眼にしたときには、傲岸奸略《ごうがんかんりゃく》、人を人とも思わない丹波も、ア、ア、アと言ったきり、咽喉がひきつりました。
 大髻《おおたぶさ》の乱れ髪が、蒼白い額部《ひたい》に深い影を作り、ゲッソリ痩せた頬。オオ! その右の頬に、眉のなかばから口尻へかけて、毛虫のはっているような一線の疵《きず》跡……しかもその右の眼は、まるで牡蠣《かき》の剥身《むきみ》のように白くつぶれているではないか!――ひさしぶりに丹下左膳。
 道場いっぱいに、騒然とどよめきわたったのは、ほんの一、二秒。さながら何か大きな手で制したように、シンとしずまりかえったなかで、左膳、からっぽの右の袖をダラリと振った。枯れ木に白い着物をかぶせたようなからだが、ゆらゆらとゆらいだ。笑ったのだ、声なき笑いを。
「出口入口の締りをしろ! 今夜てエ今夜こそは、一人残らず、不知火燃ゆる西の海へ……イヤ、十万億土へ送りこんでくれるからナ」
 ケタケタと響くような、一種異様な笑い声をたてた左膳は、細いすねに女物の長襦袢をからませて、鎧櫃をまたいで出た。
「サ、サ、したくをしねえか、したくをヨ! こ、この濡れ燕はナ、
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