者を見て、
「お町さんの家は、そんなに困っておるというのでもなかろうが」
「ヘエ、この先の豆腐屋《とうふや》で、もっとも、裕福というわけじゃアござんせんが、ナニ、その日に困るというほどじゃあねえので」
「しかるにお町坊は、家を助けるという口実のもとに、その伊勢屋の隠居のもとへ温石《おんじゃく》がわりの奉公に出ようというのだな」
「へえ、あんなに言いかわした、このあっしを袖にして……ちくしょうッ!」
 若い八百屋は、拳固の背中で悲憤の涙をぬぐっている。
「コレ、泣くな、みっともない。お前の話で、そのお町という女の気立てはよく読めた。そんな女は、思い切ってしまえ」
「ソ、その、思い切ることができねえので」
「ナアニ、お町以上の女房を見つけて、見返してやるつもりで、せっせとかせぐがいい。おれがおまえならそうする」
「エ? 先生があっしなら――」
 と八百屋の青年は、急にいきいきと問い返した。泰軒先生はニッコリしながら、
「ウム、おれがおまえなら、そうするなア。金に眼のくれる女なら伊勢屋に負けねえ財産を作って、その女をくやしがらせてやる」
「よし!」
 と八百屋は、歯がみをして、
「あっしも江戸ッ子だ。スッパリあきらめやした。あきらめて働きやす……へえ、かせぎやす」
「オオ、その気になってくれたら、わしも相談にのりがいがあったというものじゃ。サア、次ッ!」
「アノ、泰軒様――」
 と、細い声を出したのが、前列にすわっている赤い手柄の丸髷《まるまげ》だ。とんがり長屋にはめずらしい、色っぽい存在。
 一と月ほど前に、吉原《なか》の年《ねん》があけて、この二、三軒先の付木屋《つけぎや》の息子といっしょになったばかりの、これでも花恥ずかしい花嫁さま。
「お前さんの番か。なんじゃ」
「アノ、あたしは一生懸命につとめているつもりですけれど、お姑さんの気にいらなくて、毎日つらい朝夕を送っていますけれど――」
 泰軒先生ケロリとして、
「ふん、そのようすじゃア、お姑さんの気にいらねえのはあたりまえだ。自分では勤めているつもりですけれど……と、その、けれど[#「けれど」に傍点]が、わしにも気にいらねえ」
 こうして毎日夜になると、泰軒先生の家は、このトンガリ長屋の人事相談所。

       三

 付木屋の花嫁は、たちまち柳眉をさかだてて、
「あら、こんなことだろうと思ったよ。年寄りは年寄り同士、泰軒さんもチラホラ白髪がはえているもんだから、一も二もなくお姑さんの肩をもって」
「コレコレ、そういう心掛けだから、おもしろくないのだ。老人は先が短いもの、ときにはむりを言うのもむりではないと考えたら、お姑さんのむりがむりじゃなく聞こえるだろう」
「だって、うちのお姑さんたら、何かといえば、あたしのことを廓《くるわ》あがりだからと――」
「そう言われめえと思ったら、マア、いまわしの言ったことをよく考えて、お姑さんの言うむりをむりと聞かないような修行をしなさい。そのうちには、お前さんからもむりのひとつも言いたくなる。そのおまえさんのむりもむりではなくなる。何を言っても、むりがむりでなくなれば、一家ははじめて平隠《へいおん》じゃ、ハハハハ。おわかりかな」
「わちきには、お経のようにしか聞こえないよ」
「わちき[#「わちき」に傍点]が出《で》たナ。マア、よい。明日の晩、亭主をよこしなさい。さア、つぎッ!」
「先生ッ!」
 破《わ》れ鐘《がね》のような声。グイと握った二つ折りの手拭で、ヒョイと鼻の頭をこすりながら、このとき膝をすすめたのは、長屋の入口に陣どっている左官《さかん》の伝次だ。
「今夜は一つ、先生に白黒をつけておもらいしてえと思いやしてね。この禿茶瓶《はげちゃびん》が、癪《しゃく》に触わってたまらねえんだ。ヤイッ! 前へ出ろ、前へ!」
「こんな乱暴なやつは、見たことがねえ。泰軒先生、わっしからもお願いします。裁きをつけてもらいてえもんで」
 負けずに横合いからのり出したは、その伝次の隣家《となり》に住んでいる独身者《ひとりもの》のお爺《じい》さんで。
「先生も御承知のとおり、わっしは生得《しょうとく》、犬《いぬ》猫《ねこ》がすきでごぜえやして……」
 じっさいこのお爺さん、自分で言うとおり、犬や猫がすきで、商売は絵草紙売りなのだが、かせぎに出ることなど月に何日というくらい、毎日のように、そこらの町じゅうの捨て猫やら捨て犬をひろってきて、自分の食うものも食わずに養っているのだが。
 それがこのごろでは、猫が十六匹、犬が十二匹という盛大ぶり。
 犬猫のお爺さんでとおっている、とんがり長屋の変り者だ。
「そっちは好きでやっていることだろうが、隣に住むあっしどもは災難だ。夜っぴて、ニャアンニャアンワンワン吠えくさって、餓鬼は虫をかぶる、産前のかかアは血の道をあげる
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