という騒ぎだ。あっしゃアこの親爺のところへ、何度となくどなりこんだんだが……」
「わが家の中で、おれがかってなことをするに、手前《てめえ》にとやかく言われるいわれはねえ」
「何をッ! 汝《われ》が好きなことなら、人の迷惑になってもかまわねえと言うのかッ」
「マア、待て!」
 と泰軒先生は、大きな手をひろげて、二人をへだてながら、
「これは爺さんに、すこし遠慮してもらわなくッちゃならねえようだ。人間は近所合壁《きんじょがっぺき》、いっしょに住む。なア、いかに好きな道でも、度をはずしては……」
「泰軒先生ッ! 屑竹《くずたけ》の婆あが、お願いがあって参じました」
 お兼婆さんの大声が、土間口から――。

       四

「そら、見ろ!」
 と左官《さかん》の伝次が犬猫の爺さんをきめつけたとき、
「先生様ッ! ちょっと自宅《うち》へ来てくださいッ。竹の野郎が、また酔っぱらって来て」
 叫びながら、人をかきわけて飛びこんできたお兼婆さん、いきなり泰軒先生の手をとって、遮二無二《しゃにむに》引きたてた。
 大は、まず小より始める。
 富士の山も、ふもとの一歩から登りはじめる……という言葉がある。
 日本の世直しのためには、まずこの江戸の人心から改めねばならぬ。
 それには、第一に、この身辺のとんがり長屋の人気を、美しいものにしなければならない。
 と、そう思いたった泰軒先生。
 乞われるままに、長屋の人々の身の上相談にのっているうちに、いつしか、毎夜こうして、先生が居候《いそうろう》をきめこんでいるこの作爺さんの家には、とんがり長屋の連中が、煩悶、不平、争論の大小すべてを持ちこんできて、押すな押すなのにぎやかさ。
 嫁と姑の喧嘩から、旅立ちの相談、恋の悩み、金儲けの方法、良人《おっと》にすてられた女房の嘆き……いっさいがっさい。
 それをまた泰軒先生、片っぱしから道を説いて、解決してやるのだった。
 まるで、この人事相談が蒲生泰軒の職業のようになってしまったが、むろん代金をとるわけではない。
 だが。
 淳朴《じゅんぼく》な長屋の人達は、先生に御厄介をかけているというので、芋が煮えたといっては持ってくるし継《つ》ぎはぎだらけのどてら[#「どてら」に傍点]を仕立ててささげてくる者もあれば……早い話が、泰軒先生にはつきものの例の貧乏徳利《びんぼうどくり》だ。
 あれは、このごろちっとも空《から》になったことがない。
 と言って、先生が自分で銭を出して買うわけではないので。
 知らぬまに長屋の連中が、お礼心に、そっと酒をつめておいてくれる――。
 泰軒先生、このとんがり長屋に来て、はじめて美しい人情を味わい、世はまだ末ではない。ここに、新しい時代をつくりだす隠れた力があると、考えたのだった。
 近ごろでは、トンガリ長屋ばかりでなく、遠く聞き伝えてあちこちから、思いあぐんだ苦しみや、途方にくれた世路|艱難《かんなん》の十字路、右せんか左せんかに迷って、とんがり長屋の王様泰軒先生のところへかつぎこんでくる。
 先生が来てから、長屋の風《ふう》は、一変したのだった。
 眼に見えるところだけでも、路地には、紙屑一つ散らばっていないようになり、どぶ板には、いつも箒《ほうき》の目に打ち水――以前の、大掃除のあとのようなとんがり長屋の景色からみると、まるで隔世の感がある。
 何かというと、眼に角たてた長屋の連中も、このごろでは、
「おはようございます」
「どうもよいお天気で――何か手前にできます御用があったら、どうかおっしゃってくださいまし」
 などと、挨拶しあうありさま。
 徳化。
 その泰軒先生、いま、お兼婆さんにグングン手を引っぱられて、屑竹《くずたけ》の住居へやってきた。

       五

「酒は飲むのもよいが、盃の中に、このお母《ふくろ》の顔を思い浮かべて飲むようにいたせ。いい若い者が、酒を飲むどころか、酒に飲まれてしもうて、その体《てい》たらくはなにごとじゃッ」
 先生の大喝に、屑竹はヒョックリ起きあがり、長半纏《ながばんてん》の裾で、ならべた膝をつつみこみ、ちぢみあがっている。
 もうこれでいいだろう……と、チラと母親へ微笑を投げた泰軒、
「ほんとに先生、御足労をおかけしまして、ありがとうございました。これで竹の野郎も、どうにか性根を取りもどすでしょう。どうもお世話さまで――」
 と言うお兼婆さんのくどくどした礼を背中に聞いて、出口へさしかかると、
「オヤ……?」
 と歩をとめて、先生、足もとの土間の隅をのぞきこんだ。
「なんじゃ、これは、茶壺ではないか」
 つぶやきつつ、手に取りあげ、灯にすかしてジッとみつめていたが、「ウーム」と泰軒、うなりだした。
「ううむ、きたない壺だな。こんなきたない壺が、このとんがり長屋にあっては、長屋の不
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