一

 夜分、大岡越前が、至急自分に会いたい……と聞いた愚楽老人《ぐらくろうじん》、スックとたちあがった。
 スックと――なんていうと、馬鹿に背《せい》が高いようですが、三尺ほどの愚楽老人なんですから、たてになっても横になっても、たいした違いはないんで。
 壺! こけ猿!
 と、すぐピンと頭脳《あたま》にきたが、静かな声で女中へ、
「どうぞこれへお通しくだされ」
 と言った老人、チョコチョコと隅へ行って、衣桁《いこう》に掛けてある羽織をひっかけた。
 葵《あおい》の御紋これ見よがしの、拝領のお羽織。
 愚楽さんは、この羽織を着なければ人に会わないことにしているんです。子供みたいなからだに、大人《おとな》の羽織をはおったのだから、まるで打ちかけをひきずったよう――しかつめらしい渋い顔で、ピタリ着座して待ちかまえているところへ、
「御老人、こちらかな?」
 微笑をふくんだ越前守の声。
 つづいて、音もなくふすまがすべって、恰幅《かっぷく》のいい忠相《ただすけ》の姿が、うす闇をしょってはいってきた。老人の眼は、あわただしく、この夜の訪問者の手もとへゆく。が、忠相は何も持っていない……。
 手ぶら?
 と、愚楽老人の顔に失望の色がはしったとき、
「大作、其品《それ》をそこへ置いて、その方は溜りで待つがよい」
 忠相がうしろを振りかえって言った。用人の伊吹大作がついてきていたのだ。声に応じて大作は、大きな箱包みを室内へすべらせておいて――無言。
 平伏。愚楽老人に挨拶したのち、あとずさりにさがってゆく。
 壺の包みを引きよせた越前守忠相は、愚楽の前に静かに座をかまえて、いつまでもほほえんでいる。
「――――?」
 と、愚楽老人は、眼できいた。
「例の品でござるか、越州殿《えっしゅうどの》」
「まあ、さようで」
「ホホウ、どうしてお手に?」
「かの泰軒が引き受けた以上、成らぬということはありませぬ」
 愚楽老人は、それを心から肯定するように、大きくうなずいたのち、
「シテ、その泰軒は、いかなる手段により、いかなる方面より壺を入手したものでござろうのう」
「サア、それは……小娘が使者となって持ってきただけで、委細のことはわかりませんが――」
 言いながら忠相は、壺の風呂敷をときにかかる。
 おしとどめた愚楽老人、
「貴公、壺をひらいてごらんになったか」
「ウム、いかに
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