とは、もとより知るよしもないお美夜ちゃん……まるで、塗りのはげた木履《ぽっくり》に小判がのっかって、港の石垣に流れよって来たようなもの。
そして、一方では。
三方子川の漁師|六兵衛《ろくべえ》の網に、隻眼隻腕の痩せ浪人と、青白い美男とが引っかかった――。
たいへんな獲物。
これも、人間の港のはかり知ることのできない、浪の動きというべきであろう。
人間の港は、雨につけ風につけ、三角浪をたて、暗く、明るくさかまいて、思いもよらない運命のはしはしを、その石垣の岸へうち寄せる……お江戸八百八町の潮のふしぎ。
千代田の濠《ほり》はいかに深く、その城壁はどんなに高くとも、この、人間の港の潮を防ぐことはできない。
お庭をわたる松風の音《ね》と、江戸の町々のどよめきとが、潮騒《しおさい》のように遠くかすかに聞こえてくる、ここは、お城の表と大奥との境目――お錠口《じょうぐち》。
おもては、政務をみるお役所。大奥は将軍の住い。
その中間の関所ともいうべき、このお錠口は、用向きはいちいちここで取り次いで、なんびとといえどもかってに出はいりを許されない。
なんびとといえども――と言ったがただ一人の例外は、例の千代田の垢すり旗本、愚楽老人だ。
お錠口をはいったお廊下のすぐ横手に、お部屋をいただいて、そこに無礼ごめんをきめこんでいるのが、天下にこわい者のない愚楽さん。
今も。
老人|腹這《はらんば》いになって、何か書見をしている。
まだ宵の口。
実にどうもこっけいな光景です。三尺そこそこの、まるで七、八つのこどものようなからだに、顔だけはいっぱし大きな分別くさい年よりづら。それが、背中に大きなこぶをしょって、お部屋の真ん中にペタンと寝そべり、両足でかわるがわるパタン、パタンと畳をたたきながら、しきりにしかつめらしい漢籍を読んでいる。
お城でこんな無作法な居ずまいをする者は愚楽老人のほかにはない。
これは、まず、怪異なかっこうをした亀の子が、上げ潮にうちあげられてきれいな砂浜で日向《ひなた》ぼっこをしている形。
とたんに、そとの廊下を、やさしい跫音《あしおと》がすべるように近づいて来たかと思うと、静かにふすまを開いて、顔をのぞかせたのは、奥女中の一人だ。
「あの、南のお奉行様が、至急御老人にお眼にかかりたいとのことで……」
玉手箱《たまてばこ》
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