どうだ、お蓮! わしがお前に飲まされた煮え湯の味が、いま貴様にわかったか」
 かさなる意外な出来ごとに、長屋の連中は潮が引くように、外の路地へしりぞいて、土間に静かに立っているのは、田丸主水正ただ一人。
 ちょっとしんみりした空気のなかに、主水正の低声《こごえ》が、底強くひびいて、
「作阿弥殿、では、御出立《ごしゅったつ》を――」
「ただいま」
 とふり向いて、お蓮様へ、
「貴様が、自分の栄耀《えいよう》に眼がくらんで、子をかまいつけなんだように、わしは、わし自身の芸術《たくみ》の心にのみしたがって、貴様のことなど、意にも介《かい》せんのじゃ。あとのことは、泰軒先生のお指図《さしず》を受けて、よしなにするがよい。コレ、チョビ安よ。お美夜坊の母親は、この人でなしだったのじゃよ。なんにしても、お美夜坊には母と名のつくものが一匹、現われたわけだが、こんどはチョビ安の両親じゃ。それにつけても田丸殿! この安の父母を、そこもとのお手でお探しくださるという条件で、わしは日光へまいりますのですぞ。かならずこの約定《やくじょう》を御失念なきよう……」
「あとをまかせられても、困るがナ」
 泰軒は髯をしごいて、
「お蓮様とやらには、またいろいろと事情もあろうが、それはいずれ聞くとして、どうじゃな、お美夜坊。おまえはこの女《ひと》を、母と思うかの?」
 きかれたときにお美夜ちゃんは、やっとのことでお蓮様をつきのけて、パッと泰軒先生の腰にとびついた。
「あたし、こんなよその小母《おば》さん知らないわ」
 わッとお蓮様が、大声に泣きふすと同時に、
 戸外《そと》にひと声、
「そうれ見ろ!」
 この言葉を残して、作阿弥の駕籠は地を離れた。

       十一

「何をいうんです、お美夜! こうしてお母さんがお迎いに来たのに、そんなことを言う児《こ》がありますか」
 お蓮様は半狂乱に、手をのばして、またもお美夜ちゃんをだきとろうとする。
「いやよ、いやよ! あたいの考えていたお母ちゃんは、そんな恐ろしい人じゃないわ、知らない小母ちゃんがやってきて、母ちゃんだなんて言ったって、誰がほんとにするもんか。イイだ!」
「まあ、なんて情けないことを! 今このおひげの小父《おじ》さんがおっしゃったように、わたしは今までおまえを構いつけずにおいたのは、それはもう、いろいろとつごうがあってね。いえ、思うとお
前へ 次へ
全215ページ中140ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング