ッ子も同様な例の濡れ燕を、グイとおとし差し……。
ふところ手――といっても、片手ははじめからないのだから、左の手を袂のなかへ引っこめただけだ。たったひとつの眼で往来の人をジロジロにらみながら、
「どこの大名のでもいいや、壺の道中はねえかナ」
アア人が斬りたくてたまらねえやといわぬばかりの顔で、ブラブラ歩いてゆくのだから、旅人たちはみんな片側へよけて通る。そばへきて吠えつくのは、野良犬だけだ。
「おれのからだにゃア、生き血のにおいがするとみえる。フフフヤ、犬どもが吠えるワ吠えるワ。ヤイヤイ、もっと吠えろッ! もっと吠えねえかッ!」
幽霊のような姿で、宿はずれの辻堂に泊まったり、寺の縁の下に這いこんだり――すると、街道のむこうに見えてきたのが、宇治へのぼる途中のこの石川左近将監のお壺。
おおぜいの足が砂塵をまきあげて、一団になって練ってゆくのを、遠く後方からのぞんだ丹下左膳、
「オオ、とうとうひとつ出会ったぞ」
と足をはやめ、それからずっとあとになりさきになり、ここまでからみ合ってきたのですが。
沼津の町を駆け抜けた左膳、ここに先まわりして、行列の来るのを待ちかまえていたのだ。
名にし負う千本松原……。
店開きにはもってこいの背景だと、たちあがった左膳、ガサガサ藪を分けて松のなかを進んでゆく。
まるで友達とでも話しにゆくようだ。
変な浪人が現われたナ、とじっと立ちどまってこっちを見ている竹田へ、左膳引きつったような笑顔で話しかけた。
「どなたのお壺かな?――イヤ、誰の壺でもかまわねえ。ひとつ、口あけだ。威勢よく斬らせてもらおうじゃアねえか、なア」
左の手は、相変わらず懐中にのんだままだ。
丹下左膳、頼むようにそう言った。
三
剣意しきりに動く丹下左膳。
こういうときの左膳は、ふだんとグッと人が変わるのである。へいぜいは石炭がらのように、人ざわりのガラガラした、無口な、変な隻眼を光らせている男だが……。
腰間《こし》の濡れ燕に催促されて、「人が斬りたい、人が斬りたい!」と、ジリジリ咽喉《のど》がかわくような気分になったときの丹下左膳は。
とてもにこやか[#「にこやか」に傍点]な、やさしい人間になるんです。蝋のような蒼白い頬に、ポッと赤らみがさして、しきりに唇をなめるのは、なんのしるしか。
「なあおい、せっかくここまで、あと
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