にはむろん、となりの部屋の萩乃、源三郎にも聞こえなかった。
朝の闇にとけさった丹下左膳は、このつぎどこに、あの濡れ燕を駆って現われることでしょうか?
それはしばらく、そのままにして。
ばつの悪い思いで萩乃様の前に残されたのは、伊賀の暴れん坊です。
許婚《いいなずけ》どころか、自分としては、もう妻という建て前で、それで丹波とお蓮様一党に対してがんばってきたのですが、こうして萩乃さまとさしむかいになってみると、伊賀の源三、てれることおびただしい。
相手は几帳面なお嬢様育ち。それが、おもう男の前ですから、いやにかたくなっている。源三郎、すっかりもてあまし気味で、
「えへん、ウフン、ええと、イヤそのなんです。おいおい夏めいてまいりました」
なんかと、やっている。
畳《たた》み三味線《じゃみせん》
一
「は?」
と上げた萩乃の顔は、パッと美しく上気している。
それを源三郎はじっとみつめて、
「イヤ、その、実にソノ、なんです……ときに萩乃どの、よく長いあいだ、拙者を思っていてくだされましたなア」
と伊賀の暴れン坊、心にもないことを、例によってそんな殺し文句を吐く。
火に油をそそぐようなもの、源三郎、よせばいいのに――でも女たらしの彼、こんなことをいうのが癖になっているものとみえる。
日ごろの思いがやっとむくわれたように、萩乃は感じて、娘の恥ずかしさもうち忘れ、そそくさと膝をすすめた。
「あたくしほんとうに、もうもうどうなるかと思いましたわ。お兄上対馬守様とのかたいお約束によって、りっぱに道場にお乗り込みになったあなたさまを、今になって筋もなくしりぞけるのみか、あの丹波が継母《はは》うえと心をあわせて、司馬の家を乗り取ろうとしているなんてなんという恐ろしい……そのうえ、弟子どもの噂でふっ[#「ふっ」に傍点]とこの小耳にはさみましたところでは、あなた様を、なんでも穴とやらへ埋めてしまったとのこと。萩乃の胸は、つぶれるばかりでございました」
「イヤ、そうたやすく死ぬ伊賀の暴れン坊ではござらぬ」
頼もしそうに萩乃はほほえんで、
「でも、源さまはよい御朋友をお持ちなされて、おしあわせでございます。あなた様にも、それから、このあたくしにとっても」
「ハテ、よい朋友?」
「は。あの、丹下左膳とやらいう……」
「おお、彼にはこの源三郎、近ごろ
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