ついては、いろんな話がのこっております。水のいっぱいはいった茶碗をささげて、一日歩いても、一滴もこぼさなかったなんてことをいう、完全にからだの平均がとれて、一つもむだな動きがないから、全精力をあげて歩くほうに能力があがったというわけでありましょう。
また。
あるおそろしく足の早い人は、胸へ紙一枚当てて歩いて、けっして落ちなかったという。
そうかと思うと、ある人の通り過ぎたあとには、あまりの勢いに空気が渦をまいて、屋根瓦が舞いあがるやら……そんなのは当てにならない。
林念寺のお上屋敷をあとにした柳生家の若党儀作、たった一人で、伊賀の国をさして江戸を出はずれました。
妙な荷物をかついでいる。
例の松の木にぶらさがっていた贋のこけ[#「こけ」に傍点]猿を、ぐるぐるッと風呂敷包みにして、ヒョイと背中へはすかいに――。
この壺の一伍一什《いちぶしじゅう》を知らせに走るのだから、証拠物件としてしょって来たのだ。
同時に。
壺の騒ぎを知る人に対しては、こけ猿ここにあり、という宣伝にもなる、が、何も御存じない連中には、大きな茶壺をしょって粋狂な! としか見えません。
品川から大森の海辺へかけては、海苔をつけるための粗朶《そだ》が、ズーッと垣根のように植えられています。名物ですなア。
これが、江戸《えど》の江戸らしいものと別《わか》れる最後《さいご》。
急ぎの旅だから、いい景色も眼にはいりません。六郷の水は、ゆるやかに流れて、広い河口のあたり、蘆のあいだに上下する白帆が隠見する。
やがて神奈川、狩野川をはさんだ南北に細長い町。海に面した見はらしのいい場所に、茶店が軒を並べております。おなじみの広重の絵を見ましても、玉川、たるやなどとありますとおり。
有名な文句の、
「おやすみなさいやアせ。あったかい冷飯もござりやアす」
「旦那さん、煮たてのさかなのさめたのもござりやアす。おやすみなさいやアせ」
細い坂みちに姐さんたちが出ばって、口々に客を引く。儀作もようやく咽喉の乾きをおぼえましたので、潮風の吹きあげる縁台に腰かけて、
「日中はなかなかむすじゃあねえか」
額の汗をふいておりますと、
「おやすみなさいやアせ」
表のほうに、客引き女の黄色い声がわいて、儀作のあとを追うように、ズカリとその茶店へはいってきた一人の男。
唐桟《とうざん》の袷をつぶ[#「つぶ
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