紺の法被《はっぴ》の腕ぐみをした瞬間、
「では、ごめん……」
キラリ、丹波の手に、三尺ほどの白い細い光が立った。抜いたのだ。
五
あの与吉めが、あんなに泣いたり騒いだりして、取り戻そうとしたこの壺は、いったい何がはいっているのだろう……。
左膳は、河原の畳にあぐらをかいて、小首を捻《ひね》った。
竹のさきに蝋燭《ろうそく》を立てたのが、小石のあいだにさしてあって、ボンヤリ菰《こも》張りの小屋を照らしている。
きょうから仮りの父子《おやこ》となった左膳と、チョビ安――左膳にとっては、まるで世話女房が来たようなもので、このチョビ安、子供のくせにはなはだ器用《きよう》で、御飯もたけば茶碗も洗う。
珍妙なさし向いで、夕飯をすますと、
「安公」
と左膳は、どこやら急に父親めいた声音《こわね》で、
「この壺をあけて見ろ」
川べりにしゃがんで、ジャブジャブ箸を洗っていたチョビ安、
「あい。なんでも父《ちゃん》――じゃなかった、父上の言うとおりにするよ。あけてみようよね」
と小屋へかえって、箱の包みを取りだした。布づつみをとって、古い桐箱のふたをあけ、そっと壺を取りあげた。
高さ一尺四、五寸の、上のこんもりひらいた壺で、眼識ないものが見たのでは、ただのうすぎたない瀬戸ものだが、焼きといい、肌といい、薬のぐあいといい、さすが蔵帳《くらちょう》の筆頭にのっている大名物《おおめいぶつ》だけに、神韻《しんいん》人に迫る気品がある。
すがり[#「すがり」に傍点]といって、赤い絹紐を網に編んで、壺にかぶせてあるのだ。
そのすがり[#「すがり」に傍点]の口を開き、壺のふたをとろうとした。壺のふたは、一年ごとに上から奉書の紙を貼り重ねて、その紙で固く貼りかたまっている。
「中には、なにが……?」
と左膳の左手が、その壺のふたにかかった瞬間、いきなり、いきおいよく入口の菰をはぐって飛びこんできたのは、さっき逃げていった鼓の与吉だ。
パッと壺の口をおさえて、左膳は、しずかに見迎えた。
「また来たナ、与の公――」
と、壺とチョビ安を背に庇《かば》って、
「汝《うぬ》ア、この壺にそんなに未練があるのかっ」
ところが、与吉は立ったまま口をパクパクさせて、
「壺どころじゃアござんせん。あっしア、今、本郷妻恋坂からかけつづけてきたんだ。丹下の殿様、あなた様はさっき、思うさま人の斬れるおもしれえこたアねえかとおっしゃいましたね。イヤ、その人斬り騒動が持ちあがったんだ。ちょっと来ておくんなさい。左膳さまでなくちゃア納まりがつかねえ。相手は伊賀の暴れン坊、柳生源三郎……」
六
「何イ? 伊賀の柳生……?」
突ったった左膳、急にあわてて、頬《ほお》の刀痕をピクピクさせながら、チョビ安をかえり見、
「刀を――刀を取れ」
と、枯れ枝の刀架けを指さした。
そこに掛かっている破れ鞘……鞘は、見る影もないが、中味は相模大進坊《さがみだいしんぼう》、濡《ぬ》れ燕《つばめ》の名ある名刀だ。
濡れ紙を一まい空にほうり投げて、見事にふたつに斬る。その切った紙の先が、燕の尾のように二つにわかれるところから、濡れつばめ――。
左膳はもう、ゾクゾクする愉快さがこみあげて来るらしく、濡れ燕の下げ緒を口にくわえて、片手で衣紋《えもん》をつくろった。
「相手は?」
「司馬道場の峰丹波さまで」
「場所は?」
「本郷の道場で、ヘエ」
「おもしろいな。ひさしぶりの血のにおい……」
と左膳、あたまで筵を押して、夜空の下へ出ながら、
「安! 淋しがるでないぞ」
「父上、人の喧嘩に飛びこんでいって、怪我をしちゃアつまんないよ」
と、チョビ安は、こけ猿の壺を納《しま》いこんで、
「もっとも、それ以上怪我のしようもあるめえがネ」
と言った。
チョビ安が左膳を父上と呼ぶのを聞いて、与吉は眼をパチクリさせている。左膳はもう与吉をしたがえて、河原から橋の袂へあがっていた。
こけ猿の壺は、開かれようとして、また開かれなかった。まだ誰もこの壺のふたをとって、内部《なか》[#ルビの「なか」は底本では「なな」]を見たものはないのである。
気が気でない与吉は、辻待ちの駕籠に左膳を押しこんで、自分はわきを走りながら、まっしぐらに本郷へ……。
仔細も知らずに、血闘の真っただなかへとびこんでいく左膳、やっと生き甲斐を見つけたような顔を、駕籠からのぞかせて、
「明るい晩だなあ。おお、降るような星だ――おれあいってえどっちへ加勢するんだ」
駕籠|舁《か》きども、ホウ! ホウ! と夜道を飛びながら、気味のわるい客だと思っている。
道場へ着いて裏木戸へまわってみると……驚いた。
シインとしている。源三郎は石に腰かけ、四、五間離れて、丹波が一刀を青眼に構えて、微動だにしない。あれから与吉が浅草へ往復するあいだ、ずいぶんたったのに、まださっきのまんまだ。
七
与吉が、そっとうしろからささやいて、
「丹下さま、こいつアいってえどうしたというんでげしょう。あっしが、あなた様をお迎いに飛び出した時と、おんなじ恰好《かっこう》だ。あれからずっとこのまんまとすると、二人とも、おっそろしく根気のいいもんでげすなア」
その与吉の声も、左膳の耳には入らないのか、かれは、蒼白《まっさお》な顔をひきつらせて、凝然と樹蔭に立っている。
ひしひしと迫る剣気を、その枯れ木のような細長い身体いっぱいに、しずかに呼吸して、左膳は、別人のようだ。
与吉とかれは、裏木戸の闇の溜まりに、身をひそめて、源三郎と丹波の姿を、じっと見つめているのである。
藍を水でうすめたような、ぼうっと明るい夜だ。物の影が黒く地に這って……耳を抉《えぐ》る静寂。
夏の晴夜は、更《ふ》けるにしたがって露がしげって、下葉《したば》に溜まった水粒が、ポタリ! 草を打つ音が聞こえる――。
源三郎は、その腰をおろしている庭石の一部と、化したかのよう……ビクとも動かない。
白い鏡とも見える一刀を、青眼に取ったなり、峰丹波は、まるで大地から生えたように見える。斬っ尖《さき》ひとつうごかさず、立ったまま眠ってでもいるようだ。
二分、三分、五分……この状態はいつ果つべしともなく、続いていきそうである。
邸内《なか》では、だれもこの、裏庭にはらんでいる暴風雨《あらし》に気づかぬらしく、夜とともに静まりかえっている。病先生のお部屋のあたりに、ぱっと灯が洩れているだけで、さっきまで明りの滲んでいた部屋部屋も、ひとつずつ暗くなってゆく。
左膳は、口の中で何やら唸りながら、源三郎と丹波を交互《かたみ》に見くらべて、釘づけになっているのだ。二人は、左膳と与吉の来ていることなど、もとより意識にないらしい。
と、たちまち、ふしぎなことが起こったのだ。
丹波の口から、低い長い呻き声が流れ出たかと思うと……かれ丹波、まるで朽ち木が倒れるように、うしろにのけぞって、ドサッ! 地ひびき打って仰向けに倒れた。
かた手に抜刀をさげたまま――そして、草に仰臥したなり、その大兵《たいひょう》のからだは長々と伸びきって、すぐ眠りにはいったかのよう……丸太のごとくうごかない。
むろん斬られたのではない。気に負けたのである。
源三郎は、何ごともなかったように、その丹波のようすを見守っている。
左膳が、ノッソリと、その前に進み出た。
八
「オウ、若えの」
と左膳は、源三郎へ顎をしゃくって、
「この大男は、じぶんでひっくりけえったんだなア」
源三郎は、不愛想な顔で、左膳を見あげた。
「ウム、よくわかるな。余はこの石に腰かけて、あたまの中で、唄を歌っておったのだよ。全身すきだらけ……シシシ然るに丹波は、それがかえって怖ろしくて、ど、どうしても撃ちこみ得ずに、固くなって気をはっておるうちに、ははははは、じぶんで自分の気に負けて――タ丹波が斬りこんでまいったら、余は手もなく殺《や》られておったかも知れぬに、こらッ、与吉と申したナ。その丹波の介抱をしてやれ。すぐ息を吹きかえすであろうから」
与吉はおずおずあらわれて、
「ヘ、ヘエ。いや、まったくどうも、おどろきやしたナ」
と意識を失っている丹波に近づき、
「といって、この丹波様を、あっしひとりで、引けばとて押せばとて、動こう道理はなし……弱ったな」
左膳へ眼をかえした源三郎、
「タ、誰じゃ、貴様は」
ときいた。
眼をトロンとさせて、酔ったようによろめきたっている左膳は、まるで、しなだれかかるように源三郎に近づき、
「誰でもいいじゃアねえか。おれア、伊賀の暴れン坊を斬ってみてえんだ。ヨウ、斬らせてくれ、斬らせてくれ……」
甘えるがごとき言葉に、源三郎は、気味わるげに立ちあがって、
「妙《みょう》なやつだ」
つぶやきながら、倒れている丹波のそばへ行って、
「カカカ借りるぞ」
と、その握っている刀をもぎとり、さっと振りこころみながら、
「植木屋剣法――うふふふふふ」
と笑った。
変わった構えだ。片手に刀をダラリとさげ、斬っさきが地を撫でんばかり……足《そく》を八の字のひらき、体をすこしく及び腰にまげて、若い豹《ひょう》のように気をつめて左膳を狙うようす。
一気に!――と源三郎、機を求めて、ジリ、ジリ! 左へ左へと、まわってくる。
濡れ燕の豪刀を、かた手大上段に振りかぶった丹下左膳、刀痕の影を見せて、ニッと微笑《わら》った。
「これが柳生の若殿か。ヘッ、青臭え、青臭え……」
夜風が、竹のような左膳の痩せ脛に絡む。
九
「おウ、たいへんだ! 鮪《まぐろ》があがった。手を貸してくんねえ」
飛びこんできた与吉の大声に、道場の大部屋に床を敷きならべて、がやがや騒いでいた不知火流の内弟子一同、とび起きた。
「与吉とか申す町人ではないか。なんだ、この夜ふけに」
「まぐろが、なんとしたと? 寝ぼけたナ、貴様」
口々にどなられて、与吉はけんめいに両手を振り、
「イエ、丹波様が、お裏庭で、鮪《まぐろ》のようにぶっ倒れておしまいなすったから、皆さんのお手を拝借してえんで」
「ナニ、峰先生が――」
与吉の話に、深夜の道場が、一時に沸き立った。それでも、瀕死の老先生や、お蓮様や萩乃のいる奥には知らせまいと、一同、手早く帯しめなおして、
「日本一の乱暴者が二人、斬り合っておりますから、そのおつもりで……」
という与吉の言葉に、若い連中せせら笑いながら、手に手に大刀をひっ掴んで、うら庭へ――。
闇黒《やみ》から生まれたように駈けつけて来る、おおぜいの跫音《あしおと》……左膳がそれに耳をやって、
「源三郎、じゃまがへえりそうだナ」
と言った瞬間、地を蹴って浮いた伊賀の暴れん坊、左膳の脇腹めがけて斬りこんだ一刀……ガッ! と音のしたのは、濡れ燕がそれを払ったので、火打ちのように、青い火花が咲き散った。
「ウム、丹下左膳に悪寒《さむけ》をおぼえさせるのア、おめえばかりだぞ」
言いながら左膳、おろした刀をそのまま片手突きに、風のごとく踏みこんだのを、さすがは柳生の若様、パパッと逃げて空《くう》を突かせつつ……フと気がつくと、二人の周囲をぐるりかこんで、一面の剣輪、剣林――。
筑紫の不知火が江戸に燃えたかと見える、司馬道場の同勢だ。
気を失った峰丹波の身体は、手早く家内《なか》へ運んだとみえて、そこらになかった。
この騒ぎが、奥へも知れぬはずはない。庭を明るくしようと、侍女たちが総出で雨戸を繰り開け、部屋ごとに、縁端《えんばた》近く燭台を立てつらねて、いつの間にか、真昼のようだ。廊下廊下を走りまわり、叫びかわすおんな達の姿が、庭からまるで芝居のように見える。
左膳は、一眼をきらめかせて、源三郎をにらみ、
「なお、おい、源公。乗合い舟が暴風《しけ》をくらったようなものよなア。おれとおめえは、なんのゆかりもねえが、ここだけアいっしょになって、こいつらを叩っ斬ろうじゃアねえか」
十
はからずも顔をあわせ、焼刃《や
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