「それでチョビ安、おめえ、親に会いたかアねえのか」
「会いたかねえや」
「ほんとに、会いたくねえのか」
すると、たまりかねたチョビ安、いきなり大声に泣き出して、
「会いてえや! べらぼうに会いてえや! そいで毎日、こうして江戸じゅう探し歩いてるんだい」
三
「そうなくちゃあならねえところだ」
と左膳は、見えない眼に、どうやら涙を持っているようす。
そっとチョビ安をのぞき見やって、いつになくしみじみした声だ。
「だがなあ、親を探すといって、何を手がかりにさがしているのだ」
チョビ安は、オイオイ泣いている。
「おっ母《かあ》に会いてえ、父《ちゃん》にあいてえ。うん? 手がかりなんか何もないけど、あたい、一生けんめいになれば、一生のうちいつかは会えるよねえ、乞食のお侍さん」
「そうだとも、そんなかあいいおめえを棄てるにゃア、親のほうにも、よほどのわけがあるに相違ねえ。親もお前《めえ》を探してるだろう。武士《さむらい》か」
「知らねえ」
「町人か、百姓か」
「なんだか知らねえんだ」
「こころ細い話だなあ」
「作爺ちゃんも、お美夜ちゃんも、いつもそういうんだよ」
と洟《はな》をすすりあげたチョビ安、そのまま筵をはぐって河原へ出たかと思うと、大声にうたい出した。澄んだ、愛《あい》くるしい声だ。
[#ここから2字下げ]
「むこうの辻のお地蔵さん
涎《よだれ》くり進上、お饅頭《まんじゅう》進上
ちょいときくから教えておくれ、
あたいの父《ちゃん》はどこ行った
あたいのお母《ふくろ》どこにいる
ええじれったいお地蔵さん
石では口がきけないね――」
[#ここで字下げ終わり]
それを聞く左膳、ぐっと咽喉を詰まらせて、
「おウ、チョビ安」
と呼びこんだ。
「どうだ、父《ちゃん》が見つかるまで、おれがおめえの父親になっていてやろうか」
チョビ安は円《つぶら》な眼を見張って、
「ほんとかい、乞食のお侍さん」
「ほんとだとも、だが、そういちいち、乞食のお侍さんと、乞食をつけるにはおよばぬ。これからは、父上と呼べ。眼をかけてつかわそう」
「ありがてえなあ。あたいも一眼見た時から、乞食の……じゃアねえ、お侍さんが好きだったんだよ。うそでも、父《ちゃん》とよべる人ができたんだもの。こんなうれしいこたあねえや。あたい、もうどこへも行かないよ」
「うむ、どこへも行くな。その壺は、この俄《にわか》ごしらえの父が、預かってやる。これからは、河原の二人暮しだ。親なし千鳥のその方《ほう》と、浮世になんの望みもねえ丹下左膳と、ウハハハハハ」
血《ち》の哄笑《こうしょう》
一
子供の使いじゃあるまいし、壺をとられました……といって、手ぶらで、本郷の道場へ顔出しできるわけのものではない。
あの端気[#「端気」に「ママ」の注記]丹波が、ただですますはずはないのだ。
首が飛ぶ……と思うと、与吉は、このままわらじをはいて、遠く江戸をずらかりたかったが、そうもいかない。
いつの間にか、うす紫の江戸の宵だ。
待乳山《まつちやま》から、河向うの隅田の木立ちへかけて、米の磨《と》ぎ汁のような夕靄《ゆうもや》が流れている。
あのチョビ安というところ天売りの小僧は、なにものであろう……丹下の殿様は、あれからいったいどういう流転《るてん》をへて、あんな橋の下に、小屋を張っているのだろうと、与吉のあたまは、数多《あまた》の疑問符が乱れ飛んで、飛白《かすり》のようだ。
思案投げ首。
世の中には、イケずうずうしい餓鬼もあったものだ。それにしても、悪いところへ逃げこみやがって――驚いた! 丹下左膳とは、イヤハヤおどろいた!
ニタニタッと笑った時が、いちばん危険な丹下左膳、もうすこしで斬られるところだった。あやうく助かったのはいいが、またしても心配になるのは、なんといって峰丹波様に言いわけしたらいいか……。
それを思うと、妻恋坂へ向かいだした与の公の足は、おのずと鈍ってしまう。
しかし待てよ、駒形高麗屋敷と、吾妻橋と、つい眼と鼻のあいだにいながら、櫛巻きの姐御は、丹下様が生きてることを知らねえのだ。あの左膳の居どころを、お藤姐御にそっと知らせたら、またおもしろい芝居が見られないとも限らない……。
そんなことを思って、ひとり含み笑いを洩らしながら、与吉がしょんぼりやってきたのは、考えごとをして歩く道は早い、もう本郷妻恋坂、司馬道場の裏口だ。
お待ち兼ねの柳生の婿どのに会わぬうちは、死ぬにも死にきれぬとみえて、司馬老先生は、まだ虫の息がかよっているのだろう。広いやしきがシインと静まりかえっている。この道場によって食べている付近の町家一帯も、黒い死の影におびえて、鳴り物いっさいを遠慮し、大きな声ひとつ出すものもない。
なんといって峰の殿様にきりだしたら……と与吉が、とつおいつ思案して、軽い裏木戸も鉄《くろがね》の扉の心地、とみにははいりかねているところへ、その木戸を内からあけて、夕やみの中へぽっかり出てきた若い植木屋――。
一眼見るより、与吉、悲鳴に似た声をあげた。
「うわあッ! あなた様は、や、柳生源……!」
二
「シッ! キ、貴様は、つ、つづみの与吉だな」
と、その蒼白い顔の植木屋が、つかえた。
根岸の植留の弟子と偽って、この道場の庭仕事にまぎれこんでいる柳生源三郎……ふしぎなことに、職人の口をきく時は、化けようという意識が働くせいか、ちっともつかえないのに、こうして地《じ》の武士《さむらい》にかえると、すぐつかえるのだ。
「ミ、三島以来、どうやら面《つら》におぼえがあるぞ。壺はいかがいたした。こけ猿は――」
と眉ひとつ動かさずに、きく。
与吉は、およぐような手つきで、あッあッと喘《あえ》ぐだけだ。声が出ない。
どうしてこの伊賀の暴れん坊が、当屋敷に?……などという疑問は、あとで、すこし冷静になってから、与吉のあたまにおこったことで、この時は、つぎの瞬間に斬られる!――と思っただけだ。
植木屋すがたの源三郎は、うら木戸の植えこみを背に、声を低めた。
「壺を出せ! ダ、出さぬと、コレ、ザックリ行くぞ!」
与吉は、やっと声を見つけた。
「へえ、こけ猿の壺は、丹下左膳てえ化け物みてえなお方の手もとに……あっしもそれで、とんだ迷惑を――実あ、チョビ安というところ天屋の小僧が、あらわれ出やしてネ……」
一語ずつ唾を呑み呑み、手まね足真似で、与吉は自分で何を言っているかも知らず、しどろもどろだ。
「丹下左膳? 何やつか、その者は。どこにおる」
「ヘエ、吾妻橋の下に――」
「何を吐《ぬ》かす? 壺の儀は、いずれ詮議いたす。それより、貴様は、余が源三郎であることを観破したうえは、一刻も早く道場の者に知らせたくて、うずうずしておるであろうな」
源三郎は、ほほえんで、
「行け! 行って、峰丹波に告げてまいれ。余はここで待っておる。逃げも隠れもせんぞ」
ものすごい微笑だ。与吉は、いい気なもので、このときすきを発見した気になった。サッと源三郎の横をすっ飛んで、勝手口へ駈けあがった与吉……。
そこにいた婢《おんな》がおどろいて、
「あれま! この人は草履のまんま――」
言われて、台所の板の間に麻裏を脱ぎ棄てた与吉は、どんどん奥へ走りこんで、かって知った峰丹波の部屋をあけるなり、
「ア、おどろいた! います! この家にいるんです! なんて胆ッ玉のふとい……」
さけびながら与吉、べたべたと敷居にすわった。
三
この剣術大名の家老にも等しい峰丹波である。奥ざしきの一つを与えられて、道場に起居しているのだ。
机にむかって、何か書見をしていた丹波は、あわただしい与吉の出現に、ゆっくり振りかえった。
「今までどこにおった。壺は、どうした」
どこへ行っても壺は? ときかれるので、与吉はすっかり腐ってしまう。
でも、今はそれどころではないので、壺のことは、丹下左膳という得体の知れない人斬り狂人におさえられてしまったと、その一条《ひとくさり》をざっと物語ると、ジッと眼をつぶって聴いていた丹波、
「壺の儀は、いずれ後で詮議いたす」
源三郎と同じことを言って、
「与吉、あの男に気がついたか」
と、ためいきをついた。
「気がついたかとおっしゃる。冗談じゃございません。あの男に気がつかないでどういたします。あれこそは、峰の殿様、品川に足どめを食ってるはずの源三郎で……」
「声が高いぞ」
と丹波は、押っかぶせるように、
「一同を品川に残して、そっと当方へ単身入りこんだものであろうが、はてさて、いい度胸だ」
「あなた様は、前から御存じだったので?」
「うむ、知っておった。秘伝《ひでん》銀杏返《いちょうがえ》し――イヤナニ、其方《そち》の知ったことではないが、この丹波、ちゃんと見ぬいておったぞ」
「それで、どうしてお斬りにならなかったので?」
「斬る? 斬る? 伊賀のあばれン坊を誰が斬れる?」
丹波は、またしずかに眼を閉じて、
「源三郎に刃の立つ者は、広い天下にたった一人しかないぞ?」
いぶかしげに、与吉は首をかしげて、
「へえイ、それはどなたで?」
「もう一人の源三郎殿だ。つまり、いまひとり源三郎殿があらわれねば、彼と刃を合わすものはあるまい」
「フウム、もう一人の源三郎……」
と、何を思ったか、与吉、ハタと小膝を打って、
「峰の殿様、あっしに心当りがねえでもねえが――」
「いま、源三郎殿は、どこにおる?」
いつのまにか、丹波は、顔いろを変えて、突ったっていた。
「其方《そち》が知った以上、やむを得ん。わしが斬られよう。丹波の生命もまず、今宵限りであろう」
「待った! あっしに一思案……」
「とめてくれるな」
と丹波、大刀を左手《ゆんで》に、廊下へ出た。
四
逃げも隠れもせぬ。ここに待っておるから、丹波に告げてこい……源三郎はそうは言ったが、よもやあの刀を帯びない植木屋すがたで、暢気《のんき》に丹波の来るのを待ってはいまい――与吉はそう思って、丹波のあとからついていった。
司馬道場の代稽古、十方不知火の今では第一のつかい手峰丹波の肩が、いま与吉がうしろから見て行くと、ガタガタこまかくふるえているではないか。
剛愎《ごうふく》そのものの丹波、伊賀の暴れん坊がこの屋敷に入りこんでいることを、さわらぬ神に祟《たた》りなしと、今まで知らぬ顔をしてきたものの、もうやむを得ない。今宵ここで源三郎の手にかかって命を落とすのかと、すでにその覚悟はできているはず。
死ぬのが怖くて顫《ふる》えているのではない。
きょうまで自分が鍛えに鍛えてきた不知火流も、伊賀の柳生流には刃が立たないのかと、つまり、名人のみが知る業《わざ》のうえの恐怖なので。
「どうせ、あとで知れる。お蓮さまや萩乃様をはじめ、道場の若い者には、何もいうなよ。ひとりでも、無益な命を落とすことはない」
と丹波が、ひとりごとのように、与吉に命じた。
ずっと奥の先生の病間《びょうま》のほうから、かすかに灯りが洩れているだけで、暗い屋敷のなかは、海底のように静まりかえっている。
「だが、峰の殿様、どうして植木屋になぞ化けて、はいりこんだんでげしょう。根岸の植留の親方を、抱きこんだんでしょうか」
丹波は、答えない。無言で、大刀に反《そ》りを打たせて、空気の湿った夜の庭へ、下り立った。
雲のどこかに月があるとみえて、ほのかに明るい。樹の影が、魔物のように、黒かった。
丹波のあとから、与吉がそっとさっきの裏木戸のところへ来てみると!
まさか待っていまいと思った柳生源三郎が、ムッツリ石に腰かけている。
丹波の姿を見ると、独特の含み笑いをして、
「キ、来たな。では、久しぶりに血を浴びようか」
と言った、が、立とうともしない。
四、五|間《けん》の間隔をおいて、丹波は、ピタリと歩をとめた。
「源三郎どの、斬られにまいりました」
「まあそう早くからあきらめることはない」
源三郎が笑って、石にかけたまま
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