声である。
五十嵐鉄《いがらしてつ》十|郎《ろう》という人が、いちばん敷居際の、縁に近いところに寝ていた。
そのいななきを耳にして、最初に眼をさましたのは、この五十嵐鉄十郎だった。
「はてな……」
と、彼は身をおこした。
「若殿の御帰館かしら。それにしても、この深夜に――」
轟《ごう》ッと立ち木をゆすぶり、棟をならして、まっ暗な風が戸外《そと》をわたる。さながら、何かしら大きな手で、天地をかきみだすかのよう……。
ひとしきり、その小夜《さよ》あらしが走って、ピタとやんだのちは、まるで海底のような静かさだ。
なんのもの音も聞こえない。
枕から頭をあげていた五十嵐鉄十郎は、
「空耳?――だったに相違ない。今ごろこの奥庭で、馬のなき声のするはずはないのだから」
とそう、われとわが胸に言いきかせて、ふたたびまくらに返ろうとした瞬間、こんどこそは紛れもない馬のいななきが、一声ハッキリと……。
「殿ッ! お帰りでござりまするか」
思わず大声が、鉄十郎の口をにげた。
と、となりに寝ていた一人が、眼をさまして、
「なんだ、どうしたのだ」
「しっ!」
「ホ、この庭先に、何やら生き物の気配がするではないか。うむ! 馬だな」
それに答えるかのように、戸外《そと》では、土をける蹄《ひづめ》の音が、断続して聞こえる。
今は躊躇《ちゅうちょ》すべきではない。五十嵐鉄十郎ともう一人の侍は、力をあわせていそぎ雨戸をくってみると、――もう、空のどこかに暁の色が流れそめて、物の影が、自くおぼろに眼にうつる。
裏木戸を押しやぶって、はいってきたものに相違ない。雨戸の外、庇《ひさし》の下に、ヌウッと立っていたのは一頭の馬だ。
それが、戸のあくまももどかしそうに、長い鼻面を縁へさしいれた。おどろいた鉄十郎と相手は、顔をみあわせて、しばし無言だった。
馬は、口をきけないのがじれったいと言わんばかりに、頸《くび》をふり、たてがみをゆすぶって、何やら告げたげなようすである。
じっと見ていた五十嵐鉄十郎がうめいた。
「おう、これは、殿の御乗馬では……!」
「うむ! たしかにそうだ。源三郎様は、此馬《これ》にめされて、遠乗りに出られたはず」
「今この馬が、こうして空鞍《からくら》でもどったところを見ると――」
「若殿のお身に、何か異変が……」
「これ! 不吉なことをいうでない」
とどろく胸をおさえて、二人は、互いに眼の奥をみつめあった。すると、馬はここで、ひとつのふしぎなことをしたのだった。
馬は動物のなかで一番|利口《りこう》だといわれている。この馬は、源三郎の愛馬で、故郷伊賀からの途中も、駕籠でなければこの馬にまたがり、しじゅう親しんできたものだった。
あの、司馬十方斎先生の葬儀《そうぎ》の日に、不知火銭の中のただ一つの萩乃さまのお墨つきをつかんで、源三郎が首尾よく邸内へ押しこんだ時も、かれのさわやかな勇姿を支えていたのは、このたくましい栗毛の馬背《ばはい》であった。
今この馬のつかれきったようすで見ると、司馬寮の焼ける時、厩《うまや》につながれていたのが、火をくぐってぬけだし、主人のすがたを求めてひかれるように江戸へ立ちかえったものの、本郷への道を思い出せずにあちこちさまよい歩いたあげく、やっと今たどりついたものらしい。
馬がふしぎをあらわしたというのは、この時いきなり、何を思ったものか、鉄十郎の寝巻の袂《たもと》をくわえて、力をこめて庭へひきおろしたのだった。
三
五十嵐鉄十郎の寝間着の袂をくわえて、馬は、ぐんぐん庭へひっぱりおろす。
「ウム、これはいよいよ若殿のお身に……」
そのまも馬は、早く乗ってくれというように、からだを鉄十郎のほうへすりよせるのだった。
「これはこうしてはおられぬ。刀をとってくれ」
渡された刀を帯するより早く、鉄十郎はヒラリと馬にまたがった。
もうその時は、一同は起きいでて、上を下への騒ぎになっていた。
「何ッ、源三郎様のお馬が、帰ってきたと?」
「畜生のかなしさ、口をきけぬながらも……」
「何か一大事を知らせにきたものに相違ない」
「かわいいものだなア」
「殿は、あの馬をかわいがっておられたからな」
「そんなのんきなことを言っておる場合ではない。サ、したく、したく」
言われるまでもなく、皆もう用意をすまして、パラパラッと庭へ飛びおりると、
「鉄十郎殿はどうした」
「馬はどこにおる」
「鉄十郎を乗せて、ドンドン駈けていってしもうた」
「ソレ行け。見失うな」
ほのぼのと朝の色の動く司馬道場の通用門から、一隊の伊賀侍が、雪崩《なだれ》をうって押しだした。
見ると。
庭の柴折戸《しおりど》をやぶって飛びだした源三郎の愛馬、五十嵐鉄十郎を乗せたまま、砂煙をあげて妻恋坂を駈けおりていく。
一同はこけつまろびつつづいたが、先が馬ではすぐはぐれてしまう。気のきいたのが、自分たちも司馬家の馬小屋から、四、五頭ひきだしてきて、馬で後を追った。徒歩《かち》の者は、道みち駕籠を拾ってつづく。
騎馬の一人が連絡係となって時どき引っ返してきては、駕籠に方向を知らせておいて、また先頭に追いつく。
戞々《かつかつ》たる馬蹄の音が、寝おきの町を驚かせつつ、先駆の五十嵐鉄十郎の馬は、いっさん走りに向島を駈けぬけて、やがて葛飾へはいり、客人大権現の森かげなる司馬寮の焼け跡へついた。
馬というものは、おぼえのいいもので、帰りはむだ道一つせず、主人を思う一心から、ちゃんと火事跡へ駈けつけたのだ。
来てみると、鉄十郎は二度びっくりしなければならなかった。
一面に焼け木の横たわる惨澹《さんたん》たる屋敷跡に、今し激しい斬りあいが始まっているではないか。
こけ猿の探索に、かねて邪魔を入れている丹下左膳という隻眼片腕の浪人者が、左手に長剣を握って、焼け跡の真ン中にスックと立っている。
とりまく面々は、上屋敷にいる同藩の高大之進の一党。
「おのおの方、援軍到来!」
大声にさけびながら、鉄十郎は馬をおりた。
ほかの騎馬の侍もかけ着いて手早く刀の目釘を湿す。おくれて駕籠や徒歩《かち》の連中もみな到来した。伊賀勢は、ここに思わぬ大集団となったのである。
その後《ご》は御無沙汰《ごぶさた》
一
もう乱軍だった。
二重三重の剣輪が、ギッシリ左膳をとりまいている。こうなってはいかな左膳でも、空《そら》を翔《か》け、地にもぐる術のない以上、一本腕のつづくかぎり、斬って斬って斬りまくらねばならない……。
「ウフフ、枯れ木も山のにぎわいと申す。よくもこう木偶《でく》の坊がそろったもんだ」
刀痕の影深い片ほおに、静かな笑みをきざませて、左膳は野太い声でうめいた。
「この濡れ燕は、名代の気まぐれものだ。どこへ飛んでいくかわからねえから、そのつもりで応対しろよ」
女物の長襦袢《ながじゅばん》が、ヒラヒラ朝風になびく左膳の足もとに、すでに二、三の死骸がころがっているのは、そのくせの悪い濡れ燕に見舞われた、運の悪い伊賀者だ。
「皆あせってはならぬぞ。遠巻きにして、つかれるのを待つのじゃ」
高大之進の下知に、とりまく剣陣はすすまず、しりぞかず、ジッと切尖《きっさき》をそろえて持久戦……。
人あってもしこの場を天上から眺めたならば――。
まるでシインと澄みきってまわっている独楽《こま》のように見えたことだろう。
中央の心棒に白衣の一点、それをとりまいて、何本もの黒い線。
めんどうと見た左膳、
「さわるまいぞえ手を出しゃ痛い……伊賀の源三さえいてくれたら、手前ッチも、もっと気が強かろうがなあ。にらみあいでは埓《らち》があかねえ。そっちからこなけりゃあ、こっちから行くぞっ!」
ニヤリと笑いながら、右へ片足。
その右手の伊賀の連中、タタタと二、三歩あとずさりする。
「静かなること林のごとし……なるほど柳生一刀流の妙致だ。いつまでたってもジッとしているところは、フン見あげたものだ」
と左膳、またふくみ笑いとともに、左へ一歩。
右手の伊賀侍が、そろりそろりと後ろへ退く。
剣神ともいうべき丹下左膳の腕前を見せられて、もうこの連中、すっかり怖気《おじけ》づいているのだ。
「めんどうだっ!」
叫んだ左膳、濡れ燕を大上段にひっかぶり、まるで棒をたおすように、正面の敵中へ斬りこんでいった。
縦横にひらめく濡れ燕。鉄《あらがね》と鉄《あらがね》のふれあうひびき。きしむ音、おめき声、立ち舞う焼《や》け跡《あと》の灰。
その灰けむりのおさまったあとには、ふたたび水のように、つめたく静まりかえった丹下左膳の蒼い顔と、青眼にとった妖刀《ようとう》濡れ燕と……。
そして。
またもやそこここに三人の伊賀侍が、一人は膝をわりつけられて、立ちもならず、
「あっ痛《つ》ゥ!」
と、這いながら焼《や》け灰《ばい》をつかむ。その、苦痛にゆがむ顔のものすごさ!
もう一人は、肩先をやられて、片手で傷口をおさえながら、のたうちまわっている。三人目は、どこをやられたのか、あおむけにたおれたまま、血の池の中でしずかに眼をつぶろうとしている。
「三人!」
チョビ安の大声がした。この乱闘の場をすこしはなれた焼け残りの土蔵の横に、チョビ安、焼けた棒で、土蔵の白壁へしるしをつけながら、
「父上ッ! 〆《し》めて九人……!」
二
早朝から、空の大半は真っさおに晴れて、焼け跡のすぐそばを流れる三方子川《さんぼうしがわ》の川づらを、しずかになでてくるさわやかな風。
だが。
人の膚《はだ》をつきさすような、ジリジリした日光には、もうどこやら初夏の色がまじって、川水一面、金の帯のように照りはえている。
寮の前の往来の片側に、長くつづいている客人大権現《まろうどだいごんげん》の土塀から枝をのばした樹々のしげみが、かげ涼しげにながめらるるのだった。
平和なのは、この自然の風景のみ。
真っ黒な焼け跡には、いまし全伊賀勢を相手に、丹下左膳の狂刃が、巴《ともえ》の舞いを演じているのである。
いま言った土塀の上に。
近処の者や、通りすがりの人の顔がズラリと並んで、
「オウ、由《よし》や、見ねえな、講釈のとおりじゃアねえか。足をジリジリ、ジリジリときざませて、両方から近よっていくところなんざア、すごい見物だぜ」
「あの片手の侍は、よっぽど腕がたつと見えるぜ。取り巻《め》えてる連中の、ハッハッハという息づかいが、ここまで聞こえてくるようだ」
「ソラ、一人うしろへまわったぞ」
「刀を下段にかまえて……ソレ、しのびよっていく、しのびよっていく」
「ああ、おれはもう見ちゃアいられねえ」
と気の弱いひとりが、たまらなくなって眼をふせる。
「ほんとだ。あいつもバッサリやられるにきまってらあ」
この言葉が終わるか終わらぬかに、塀の上に並ぶ見物人一同、ワアッと歓声をあげた。
見るがいい!
前へ斬りこむと見せて、そのままあとへはらった左腕の左刀、うしろざまに見事にきまって、背をねらってしたいよっていた伊賀侍、ガッと膝をわりつけられてのめってしまった。そがれた白い骨が、チラリと陽に光って露出する。一、二、三、四、五と、五つ数えるほどのまをおいて、はじめてドッと血がふきでるのだった。
塀の上に並ぶ顔は、いっせいに眼をふさいで、
「すげえもんだなア!」
「オウ、見ろ、見ろ! よほど苦しいとみえて、土をつかんでころがりまわっているぜ」
「侍は、どうでエ、ニヤニヤ笑って、血刀をさげたまま、右に左に歩きまわっている。あいつはおっそろしく度胸がすわっているのだなア」
「イヨウ、剣術の神様!」
「人斬り大明神!」
「待ってましたアッ!」
「大統領ッ!」
人間の顔が、首から上だけ塀の上にズラリと並んで、割れるような喝采《かっさい》だ。通りかかった人が、この斬りあいにみんな塀の中へ逃げこんで、首だけのぞかせてながめているのだ。
甘酒屋のお爺《じい》さんが、赤塗りの荷箱をおっぽりだして、塀のかげへ走りこんだかと思うと、す
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