ぐその顔が築地塀《ついじべい》の上に現われた。
「この時木曾殿はただ一騎、粟津《あわづ》の松原へ駈けたもう。喚《おめ》き叫ぶ声、射ちかう鏑《かぶら》の音、山をうがち谷をひびかし、征《ゆ》く馬の脚にまかせつつ……時は正月二十一日、入相《いりあい》ばかりのことなるに、薄氷《うすごおり》は張ったりけり――」
のんきなお爺さんで、軍談もどきに平家物語の一節。
三
三方子川の川べりへ、糸をたれようと、釣竿をかついでやってきた若い男。
これも、この乱闘に胆をつぶして、竿をかついだまま塀の中へ飛びこみ、人を押しのけて顔を出そうとすると、
「オイオイ、あとから来て、このいい場をとろうてエ手はねえだろう。ここは特等席だ」
なんて言うやつもある。
一同は、すっかり芝居でも見物する気で、ワイワイ声をかけるやら、大声に批評するやら、たいへんな騒ぎ。
それでも、左膳の濡れ燕が、また一人ズンと斬りさげたりすると、いっせいに顔をひっこめて……桑原、桑原!――南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》――こわいもの見たさで、いつまでも立ち去らない。
「また一人!」
チョビ安が大声にさけんで、土蔵の白壁に焼けぼっくいでしるす記録の線が、一ぽんふえていく。
「ヤアまた一人……これで十三人だ! 父上、しっかり頼むぜ」
レコード係と応援団を、チョビ安、ひとりでひきうけている。
見物はことごとく喜んじまって、
「小僧ッ、そらまた一人だぞ!」
「十三人じゃアねえ、十四人じゃあねえか」
「オウイ、あそこにころがってるのを数えたかよウ?」
四|戒《かい》ということを言う。
恐れ、驚き、疑い、迷う……これが剣道の四戒。
技《わざ》と理合《りあい》とは、車の両輪、鳥の両翼。その一方を欠けば、その効《こう》は断絶される。技《わざ》は面《おもて》に表れる形《ぎょう》であり、理合《りあい》は内に存する心である。技《わざ》と理合《りあい》がともにある境地に達すれば、心に思ったことがただちに技《わざ》となって表現するのだ。
が、これはまだ未熟のうち。
左膳のごとき達人になれば、技《わざ》と理合《りあい》も、内も、外も、いっさい無差別。すべては融然と溶けあって、ただ五月雨《さみだれ》を縫って飛ぶ濡れ燕の、光ったつばさあるのみ。
何も考えなしに行っている業《わざ》こそは、自然と理合《りあい》に適《あ》ってくるのである。
考えて行うのではない。
また行って考えるのでもない。
天地の理法に、行と心の区別はないので。
剣心不異というのは、まことにここのことである。
だから、そこへ、今の四戒の一つが兆《きざ》しでもしたら、もうそれだけでも浮き足だつにきまっている。
いかにすれば勝てるか……などということを考えない丹下左膳、濡れ燕のとぶがまま、思いの赴《おもむ》くにまかせて、斬ってきって斬りまくった彼は、相手方が一人ふたりずつ数の減ってゆくのを、意識するだけだった。
けれど。
大将株の高大之進を討たねば、なんにもならぬ――そう気がつくと同時に。
左膳、とっさに一眼をきらめかして、大之進の姿をさがしもとめた。
と、乃公《だいこう》のでる幕は、まだまだと言わぬばかり……大之進も相当の人物で、乱陣の場《にわ》をすこしはなれた路傍の切り株に腰をおろし、大刀を杖にだいて、ジッと左膳のようすに眼をこらしている。
「オイ、お前《めえ》の番だぜ」
左膳のネットリした声。
「父《とう》ちゃん! 一騎討ちだ」
チョビ安が叫んだ。
四
「では、未熟ながら、お相手いたそうかな」
高大之進《こうだいのしん》はそう言って、焼け跡のわきの切り株にかけていた腰を、あげた。
「助太刀《すけだち》はゆるさぬぞ」
と彼は、不安気に見まもる伊賀の勢へ、チラと眼をやった。
「かんじんのこけ猿は、いまだに行方不明。日光御着手の日は、目睫《もくしょう》の間《かん》にせまっておる。申し訳にこの大之進、腹を切らねばならぬところだ。一人で切腹するよりは、この化け物に一太刀でもあびせて……」
ひとりごとのようにうめきつつ、静かに雪駄《せった》をぬいで、足袋跣足《たびはだし》になった大之進は、トントンと二、三度足踏みをして、歩固めをしながら、
「だが、どうせおれの生命はないものだ。高大之進は、いまこの隻眼隻腕の浪人に討たれるのだ。骨を拾ってくれよ」
言ったかと思うと彼は、スラリ一刀をひきぬいて、左膳のほうへ歩みだした。
捨て身になるとおそろしいもの。
刀をまじえようとするよりも、まるで、このままスパリと斬ってくれとでもいうように、左膳の前へ進んで行く大之進。
何か相談事があって、話に出かけていくような態度だ。
これをむかえた左膳は、いささかかってがちがって、濡れ燕の斬っ尖ごしに、きっと大之進をみつめて無言。
大之進の一刀と、濡れ燕と、ふたつ斬っ尖のあいだがみるみるせばまって、チチチと二本の刃物のふれあうひびき……と! サッと二人は前後にわかれた。
相正眼――。
塀の上の見物人も、もう駄弁をろうするどころではない。
シーンと静まり返ったなかに、すぐそばを流れる三方子川の水音が淙々《そうそう》、また淙々《そうそう》……。
胴を打つ技《わざ》は、姿勢がくずれやすい。
むずかしい業《わざ》だ、胴《どう》は。
下腹の力をぬいてはならぬ。撃つ時には、十二分の力を剣にこめねばならぬ。背と腰を、竹のごとくまっすぐに伸ばしてうたねばならぬ。撃ったあとは、左の拳が腹の前方にあって、右腕と左腕とが交叉するように、手を返さねばならぬ。左手をひくこと、右面をうつ場合のごとし――。
高大之進、一気に左膳の胴をねらって、剣を大きく振りかぶり、ソロリ、ソロリと、右足から踏みだした。
左足が、きざむようにこれにともない、双《そう》の爪先で呼吸をはかりながら、にじりよる。
この瞬間。
逆胴《さかどう》!……左膳はそこにすきを見た。反対に、左足から踏みきった左膳、斜め右側へまわるがごとき気勢をしめしたが、ツと、
「行くぞっ!」
笑いをふくんだ気合いとともに、濡れ燕はまるで独立の生き物のように、長い銀鱗を陽にひらめかして、見事に大之進の左脇腹へ……!
が、大之進もさるもの。
のけぞって空《くう》を払わせた大之進、うしろ飛びのまま三方子川《さんぼうしがわ》[#ルビの「さんぼうしがわ」は底本では「さんぽうしがわ」]の川べりをさして、トットと数間、逃げのびたのだった。
「口ほどでもねえやつ!」
いらだった左膳が、相模大進坊《さがみだいしんぼう》を下段にかまえたまま、一足とびに追いにかかった時だった。ちょうどそこは焼け跡のはずれで、黒くもえのこった羽目板が五、六枚、地面に横たえてあるのだが、左膳の足がその板を踏むと同時に、メリメリッとすごい音がして板が割れるが早いか丹下左膳、濡れ燕をいだいたまま、深い竪穴《たてあな》の中へ、棒っきれのように落ちこんだのだった――おとし穴。
五
チョビ安をはじめ、当の相手の高大之進、尚兵館の伊賀侍、五十嵐鉄十郎ら司馬道場の伊賀勢、そのほか塀の上に顔を並べている弥次馬連中……白昼、これだけの人間の見ている前で、丹下左膳のからだがフッと消えたのだ。
さながら、地殻が割れてそこへのまれ去ったかのように……。
じっさい、そのとおりなのだ。
今にも追いうちに、濡れつばめが飛んでくるかと覚悟をきめていた高大之進は、ウンともスンとも言わずに左膳が、穴の中へおちこんでしまったのだから、ホッとすると同時に、あっけない感じ。
ヤヤッ! と、駈けよって穴のふちをのぞく。
伊賀の同勢も、ふしぎな思いでいっぱいだ。
「こんなところに穴が……」
「穴の上に、この焼け板が渡してあったのだナ」
「これは初めから罠《わな》としてたくらんだものでござろう」
口ぐちにわめきながら、穴のふちへ走りよって下をうかがうと。
ちょうど人ひとりはいれるくらいの穴が、まっすぐに地底へのびていて、何やらうすら寒い風が、スーッと吹きあげてくる。
一同は狐につままれたようである。
顔を見あわせるばかりで、言葉もなかった。
チョビ安は夢中だった。伊賀ざむらいをおしのけて、穴の縁《ふち》へ立ち現われたチョビ安、
「父上! 父上! かような卑怯なめにおあいなされて……」
穴のふちは、土がやわらかい。勢いこんだチョビ安の足に、土がくずれて、ド、ドウとこもった音とともに、土塊《つちくれ》が穴のなかへ落ちこんでいく。
それとともに、チョビ安のからだも穴の底へめいりそうになるのを、五十嵐鉄十郎がグッとひきあげて、
「おい小僧ッ、あぶないっ! あっちへ行っておれ」
「何いってやんで! ヤイ! 父《ちゃん》をこんなめにあわせたのは、手前ッチだろう。剣術じゃアかなわねえもんだから――父《ちゃん》をけえせ! おいらの父《ちゃん》をけえせっ!」
チョビ安、泣きながら、小さな拳をふるって、鉄十郎をはじめそばの伊賀者へ、トントンうちかかる。
「これはちかごろ迷惑な!」
鉄十郎は苦笑、
「かかる場処にこんなおとし穴がしつらえてあろうとは、われらもすこしも知らなんだ。これ、小僧、おちつけ。これは峰丹波一味のしわざで……」
塀の上の見物も、承知しない。
「手前《てめえ》ら四、五十人もいて、腕は百本もあるだろう。それが一本腕にかなわねえで、穴へおとしこむたアなんでえ」
ガヤガヤののしりあう人声……それを左膳は、竪坑の底でかすかに聞いていた。
はじめ、足をかけた焼《や》け板《いた》が下へしの[#「しの」に傍点]ったとき、左膳はギョッとしたのだったが、もうおそかった。板が割れると同時に、左膳のからだは直立の姿勢のまま、一直線に地の底へ落ちたのである。からだの両脇に土を摺《す》って、風が、下からふいた。四、五|丈《じょう》も落ちたであろうか。猛烈な勢いで、全身横ざまに地底をうち、ハッと気がつくと、そこは、土を四角にきりひらいた四畳半ほどの小部屋である。
落ちながら刀をはなさなかったので、濡れ燕を杖に、いたむ身をささえてやっと起きあがろうとすると、闇黒《やみ》の中に声がした。
「おお! ササ、左膳じゃアねえか。丹下左膳、ひさしぶりだなア。あはははは、その後は御無沙汰……」
水《みず》滴々《てきてき》
一
左膳は、ただ一直線におちたような気がしたが。
穴は垂直ではなかった。
直径三尺ほどの幅に、急な勾配をもってずっとこの地底のあなぐらへ通じているのである。
察するところ、その地下室は、地上の穴から斜めに入りこんで、ちょうどあの、路傍を流れる三方子川《さんぼうしがわ》の真下にあたっているらしい。
左手に濡れ燕を突いて起きあがった左膳、したたか腰をうったらしく、抜けるようにいたい。
「イヤ、不覚……」
苦笑しながら、掘りたての土軟《やわら》かな床へ、刀を突きさし、ひだり手で腰のあたりをさすろうとした時……今あの、タ、丹下左膳ではないか、ひさしぶりだナ、その後は御無沙汰、という声がしたのだ。
「誰だっ?」
左膳、濡れ燕をかまえるが早いか壁に飛びのいて、眼をこらした。
地の底……。
幾丈とも知れない地下で、地上からの穴は急勾配《きゅうこうばい》なのだから、闇のなかに、どこやらかすかに外光《がいこう》がただよっているにすぎない。
が、声をかけた人は、この暗黒になれているらしく、
「キ、貴殿も足を踏みはずしたのか。ハハハハハ、やられたな」
という声は、伊賀の暴れん坊、柳生源三郎である。
左膳もそれと気づいて、
「源三じゃアねえか。お前《めえ》はこの司馬寮の火事で、焼け死んだと聞いたが、さては、ここは冥府《よみじ》とみえる。してみると、おれもあの世へきたのかな」
うすく笑って、左膳、声のするほうをすかして見ると、柳生源三郎のほのぼのとした白い顔が、その、四畳半ほどの真ん中にキチンと静座しているのが、彼の一眼にもうっすらと見えてきた。
「イ
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