、犬が主人の声に聞き惚れているのがある。マーク・トウェインか誰かの作品にも、海老《えび》が音楽に乗ってうごき出すのがあったように記憶しております。
とにかく、動物は音楽を解するかどうか――こいつはちょっとわからないし、また、尺取り虫に音楽の理解力があろうとは思われないが……いま見ていると、この虫ども、一心不乱のお藤姐御の三味に合わせて、緩慢な踊りをおどっているように見えるので。
じつに、世にも奇態なことをするお藤――。
お釈迦様《しゃかさま》でも
一
この、なんの変哲もない古びた茶壺ひとつを、ああして大名の乗り物におさめて、行列のまん中へ入れて、おおぜいで護ってくるなんて、その好奇《ものずき》さ加減も、気が知れねえ……と、打てばひびくというところから、鼓《つづみ》の名ある駒形の兄《あに》い与吉、ひとり物思いにふけりながら、ブラリ、ブラリやってくる。
その御大層《ごたいそう》もない茶壺を、あの品川へ着いた夜の酒宴《さかもり》に、三島から狙ってきたこのおいらに、見ごとに盗みだされるたア、強いだけで能《のう》のねえ田舎ざむれえ、よくもああ木偶《でく》の坊が揃ったもんだと、与吉は、大得意だ。今ごろは、吠え面《づら》かいて探してるだろうが、ざまア見やがれ――。
いい若い者が、何か四角い包みを抱えて、ニヤニヤ思い出し笑いをしながら行くから変じァないかと、道行く人がみんな気味わるそうに、よけて行く。
しかし、こんな騒ぎをして、わざわざこんなものを盗みださせる妻恋坂のお蓮さんも、峰丹波様も、すこし酔狂がすぎやアしねえか――。
「萩乃どのの婿として乗りこんでくる源三郎様には、すこしも用がない」
と、この命令を授ける時、峰の殿様がおっしゃったっけ……。
「彼奴《きゃつ》は、あくまでも阻止せねばならぬ。が、その婿引出に持ってまいるこけ猿の茶壺には、当方において大いに用があるのだ」
そして、丹波、抜からず茶壺を持ち出せと、すごい顔つきで厳命をくだしたものだが、してみると――。
してみると……この茶壺の中は、空《から》じゃアないかも知れない。
そう思うと、なんだかただの茶壺にしては、重いような気がして来た。
与吉は、矢も楯もなく、今ここで箱をあけて、壺のなかを吟味したくてたまらなくなりました。
好奇心は、猫を殺す――必ずともに壺のふたを取るでないぞ! 中をあらためてはならぬぞ! こういう峰丹波の固い命令《いいつけ》だったので、それで与吉、今まであの高麗屋敷の櫛まきお藤の家で、この茶壺と寝起きしていた何日かのあいだも、見たいこころをジッとおさえて、我慢してきたのだが……。
これから妻恋坂の道場へ納めてしまえば、もう二度と見る機会はなくなる。
見るなと言われると、妙に見たいのが人情で、
「ナアニ、ちょっとぐれえ見る分にゃア、さしつけえあるめえ。第一、おいらが持ち出した物じゃアねえか」
与の公、妙な理屈をつけて、あたりを見まわした。
二
浅草の駒形を出まして、あれから下谷を突っ切って本郷へまいる途中、ちょうど三味線堀《さみせんぼり》へさしかかっていました。
松平|下総守様《しもうさのかみさま》のお下屋敷を左に見て、韓軫橋《かんしんばし》をわたると、右手が佐竹右京太夫《さたけうきょうだゆう》のお上屋敷……鬱蒼《うっそう》たる植えこみをのぞかせた海鼠塀《なまこべい》がずうっとつづいていて、片側は、御徒組《おかちぐみ》の長屋の影が、墨をひいたように黒く道路に落ちている。
夏のことですから、その佐竹さまの塀の下に、ところ天の荷がおりていて、みがきぬいた真鍮《しんちゅう》のたがをはめた小桶をそばに、九つか十ばかりの小僧がひとり、ぼんやりしゃがんで、
「ところてんや、てんやア……」
と、睡そうな声で呼んでいる。大きな椎の木が枝をはり出していて、ちょっと涼しい樹蔭をつくっている。
近処のおやしきの折助がふたり、その路ばたにしゃがみこんで、ツルツルッとところ天を流しこんで立ち去るのを見すますと、与吉のやつ、よしゃアいいのに、
「おう、兄《あん》ちゃん、おいらにも一ぺえくんな。酢をきかしてナ」
と、その桶《おけ》のそばへうずくまった。
「へえい! 江戸名物はチョビ安《やす》のところ天――盛りのいいのが身上だい」
ところ天やの小僧、ませた口をきくんで。
「こちとら、かけ酢の味を買ってもらうんだい。ところ天は、おまけだよ」
「おめえ、チョビ安ってのか。おもしれえあんちゃんだな。ま、なんでもいいや。早えとこ一ぺえ突き出してくんねえ」
言いながら、与の公、手のつつみを地面《した》へおろして、鬱金《うこん》のふろしきをといた。出てきたのは、時代がついて黒く光っている桐の箱だ。そのふたを取って、いよいよ壺を取り出す。
古色蒼然たる錦のふくろに包んである。それを取ると、すがり[#「すがり」に傍点]といって、赤い絹紐の網が壺にかかっております。
その網の口をゆるめ、奉書の紙を幾重にも貼り固めた茶壺のふたへ、与吉の手がかかったとき、その時までジッと見ていたところ天売りの子供、みずから名乗ってチョビ安が、
「小父《おじ》ちゃん、ところ天が冷《さ》めちゃうよ」
洒落《しゃれ》たことをいって、皿をつき出した。
「まア、待ちねえってことよ。それどころじゃアねえや」
与吉がそう言って、チラと眼を上げると、あ! いけない! 折りしも、佐竹様の塀について、この横町へはいってくる一団の武士のすがた! 安積玄心斎《あさかげんしんさい》の白髪をいただいた赭《あか》ら顔を先頭に……。
三
それと見るより、与吉、顔色を変えた。この連中にとっ掴まっちゃア、たまらない。たちまち、小意気な江戸ッ児のお刺身ができあがっちまう。
「うわあっ!」
と、とびあがったものです。
むこうでも、すぐ与吉に気がついた。気の荒いなかでも気のあらい脇本門之丞《わきもともんのじょう》、谷大八《たにだいはち》なんかという先生方が、
「オ! おった! あそこにおる!」
「やっ! 与吉め、おのれっ!」
「ソレっ! おのおの方ッ!」
「天道われに与《くみ》せしか――」
古風なことを言う人もある。ドッ! と一度に、砂ほこりをまきあげて、追いかけてきますから、与吉の野郎、泡をくらった。
もう、ところてんどころではありません。
「おウ、チョビ安といったな。此壺《こいつ》をちょっくら預かってくんねえ。あの侍《さんぴん》たちに見つからねえようにナ、おらア、ぐるッとそこらを一まわりして、すぐ受けとりに来るからな」
と、見えないように、箱ごと壺を、ところ天屋の小僧のうしろへ押しこむより早く、与の公、お尻に帆あげて、パッと駈け出した。
いったい、このつづみの与吉ってえ人物は、ほかに何も取得《とりえ》はないんですが、逃げ足にかけちゃア天下無敵、おっそろしく早いんです。
今にもうしろから、世に名だたる柳生の一刀が、ズンと肩口へ伸びて来やしないか。一太刀受けたら最後、あっというまに三まいにおろされちまう……と思うから、この時の与吉の駈けっぷりは、早かった。
まるで踵《かかと》に火がついたよう――背後《うしろ》からは、与吉待てえ、与吉待てえと、ガヤガヤ声をかけて追ってくるが、こいつばかりは、へえといって待つわけにはいかない。
ぐるっと角をまがって、佐竹様のおもて御門から、木戸をあけて飛びこんだ。御門番がおどろいて、
「おい、コラコラ、なんじゃ貴様は」
あっけにとられているうちに、
「へえ、ごらんのとおり人間で――人ひとり助けると思召《おぼしめ》して」
と与吉、たちさわぐ佐竹様の御家来に掌《て》を合わせて拝みながら、御番衆が妙なやつだナと思っているうちに、ぬけぬけとしたやつで、すたすた御邸内を通りぬけて、ヒョックリさっきの横町へ出てまいりました。
「ざまア見やがれ。ヘッ、うまく晦《ま》いてやったぞ」
ところが、与吉、二度びっくり――ところてんのチョビ安が、こけ猿の茶壺とともに、影もかたちもないんで。
四
ところ天の荷は、置きっ放しになっている。
あわてた与吉が、ふと向うを見ると、こけ猿の包みを抱えたチョビ安が、尻切れ草履の裏を背中に見せて、雲をかすみととんでゆくのだ。
安積玄心斎の一行は、与吉にあざむかれて、横町へ切れて行ったものらしく、あたりに見えない。
「小僧め! 洒落《しゃれ》た真似をしやがる」
きっとくちびるを噛んだ与吉、豆のように遠ざかって行くチョビ安のあとを追って、駈けだした。
柳沢弾正少弼《やなぎさわだんじょうしょうひつ》、小笠原頼母《おがさわらたのも》と、ずっと屋敷町がつづいていて、そう人通りはないから、逃げてゆく子供のすがたは、よく見える。
「どろぼうっ! 泥棒だっ! その小僧をつかまえてくれっ!」
と与吉は、大声にどなった。
早いようでも子供の足、与吉にはかなわない。ぐんぐん追いつかれて、今にも首へ手が届きそうになると、チョビ安が大声をはりあげて、
「泥棒だ! 助けてくれイ!」
と喚《わめ》いた。
「この小父《おじ》さんは泥棒だよ。あたいのこの箱を奪《と》ろうっていうんだよ」
と聞くと、そこらにいた町の人々、気の早い鳶《とび》人足や、お店者《たなもの》などが、ワイワイ与吉の前に立ちふさがって、
「こいつ、ふてえ野郎だ。おとなのくせに、こどもの物を狙うてえ法があるか」
おとなと子供では、どうしてもおとなのほうが割りがわるい。みんなチョビ安に同情して、与吉はすんでのことで袋だたきにあうところ……。
やっとそれを切り抜けると、その間にチョビ安は、もうずっと遠くへ逃げのびている。逃げるほうもよく逃げたが、追うほうもよく追った。あれからまっすぐにお蔵前へ出たチョビ安は、浅草のほうへいちもくさんに走って、まもなく行きついたのが吾妻橋《あづまばし》のたもと。
ふっとチョビ安の姿が、掻き消えた。ハテナ!――と与の公、橋の下をのぞくと、狭《せま》い河原《かわら》、橋|杭《くい》のあいだに筵《むしろ》を張って、お菰《こも》さんの住まいがある。
飛びこんだ与吉、いきなりそのむしろをはぐったまではいいが、あっ! と棒立ちになった。
中でむっくり起きあがったのは、なんと! 大たぶさがぱらり顔にかかって、見おぼえのある隻眼隻腕の、痩せさらばえた浪人姿……。
五
「これは、これは、丹下の殿様。お珍しいところで――その後は、とんとかけちがいまして」
とつづみの与吉、そうつづけさまにしゃべりながら、ペタンとそこへすわってしまった。
いい兄哥《あにい》が、橋の下の乞食小屋のまえにすわって、しきりにぺこぺこおじぎをしているから、橋の上から見おろした人が、世の中は下には下があると思って、驚いている。
筵張りのなかは、石ころを踏み固めて、土間になっている。そのまん中へ、古畳を一まい投げだして、かけ茶碗や土瓶といっしょに、ごろり横になっているのは……。
隻眼隻腕の剣怪、丹下左膳。
箒《ほうき》のような赭茶《あかちゃ》けた毛を、大髻《おおたぶさ》にとりあげ、右眼はうつろにくぼみ、残りの左の眼は、ほそく皮肉に笑っている。
その右の眉から口尻へかけて、溝のような一線の刀痕――まぎれもない丹下左膳だ。
黒襟かけた白の紋つき、その紋は、大きく髑髏《しゃれこうべ》を染めて……下には、相変わらず女ものの派手な長襦袢《ながじゅばん》が、痩せた脛《すね》にからまっている。
「おめえか」
と左膳、塩からい声で言った。
「ひさしぶりじゃアねえか。よく生きていたなア」
「へへへへへ、殿様こそよく御存命で、死んだと思った左膳さま、こうして生きていようたア、お釈迦さまでも――」
右腕のない左膳、右の袖をばたばたさせて、ムックリ起きあがった。
与吉はわざと眼をしょぼしょぼさせて、
「しかし、もとより御酔狂ではござんしょうが、このおん痛わしいごようす――」
「与吉といったナ」
と、刻むよう
前へ
次へ
全55ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング