御立腹になったところの風情がまた、なんとも――」
「萩乃さん、萩乃さんはそこかえ」
 声を先立てて、継母のお蓮さまが、はいってきた。例によって、大男の峰丹波をしたがえて。
「源三郎様は、まだお越しがないねえ……オヤ、この者は、なんです。これ、お前は植木屋ではないか。まあどうしてこんなところへはいりこんで、なんてずうずうしい!――丹波っ、追っぱらっておしまい!」

       二

 司馬の道場をここまで持ってきたのは、むろん、老先生の剣と人物によることながら、ひとつには、この膂力《りょりょく》と才智のすぐれた峰丹波というものがあったからで。
 妻恋坂の大黒柱、峰丹波、先生の恩を仇でかえそうというのか、このごろ、しきりにお蓮さまをけしかけて、源三郎排斥の急先鋒、黒幕となっているのだ。
 まさか変なことはあるまいが、それも、相手が強《したた》か者のお蓮様だから、ふたりの仲は、案外すすんでいるのかも知れない……などと、屋敷うちでは、眼ひき袖引きする者もあるくらい。とにかく、お蓮さまの行くところには、かならず丹波がノッソリくっついて、いつも二人でコソコソやっている。
 醜態である。
 萩乃は、この、ふだんからこころよく思っていないふたりが、はいってきたので、ツンとすまして横を向いていると――身長六尺に近く、でっぷりとふとって、松の木のようにたくましい丹波だ。縁側を踏み鳴らしてくだんの植木屋に近づくなり、
「無礼者っ!」
 と一喝。植木屋、へたばって、そこの土庇《どびさし》に手をついてしまうかと思いのほか、
「あっはっは、大飯食らいの大声だ」
 ブラリ起ちあがって、立ち去ろうとする横顔を、丹波のほうがあっけにとられて、しばしジッと見守っていたが、
「何イ?」
 おめくより早く、短気丹波といわれた男、腰なる刀の小柄を抜く手も見せず、しずかに庭を行く植木屋めがけて、投げつけました。
 躍るような形で、縁に上体をひらいた丹波、男の背中に小柄が刺さって、血がピュッと虹のように飛ぶところを、瞬間、心にえがいたのでしたが……どうしてどうして、そうは問屋でおろさない。
 ふしぎなことが起こったのだ。
 あるき出していた植木屋が、パッと正面を向きなおったかと思うと、ひょいと肘《ひじ》をあげて、小柄を撥《は》ねたのだ。
 飛んでくる刃物を、直角に受けちゃアたまらない。平行に肘を持っていって、スイと横にそらしてしまうんです。
 柳生流の奥ゆるしにある有名な銀杏返《いちょうがえ》しの一手。
 銀杏返しといっても、意気筋なんじゃあない。ひどく不《ぶ》意気な剣術のほうで、秋、銀杏の大樹の下に立って、パラパラと落ちてくる金扇《きんせん》の葉を、肘ひとつでことごとく横に払って、一つも身に受けないという……。

   尺取《しゃくと》り横町《よこちょう》


       一

 なんでも芸はそうで、ちょいと頭をだすまでには、なみたいていのことではございません。人の知らない苦労がある。それがわかるには、同じ段階と申しますか、そこまで来てみなければ、こればっかりは金輪際《こんりんざい》わかりっこないものだそうで、そうして、その苦労がわかってくると、なんだかんだと人のことをいえなくなってしまう。なんでも芸事は、そうしたものだと聞いております。
 いま、仮りに。
 この峰丹波が、あんまり剣術のほうの心得のない人だったら、オヤ! 植木屋のやつ、はずみで巧く避けやがったナ、ぐらいのことで、格別驚かなかったかも知れない。
 が、なにしろ、峰丹波ともあろう人。
 剣のことなら、他流《たりゅう》にまですべて通じているから、今その小柄がツーイと流れて、石燈籠の胴《どう》ッ腹《ぱら》へぶつかって撥《は》ねかえったのを見ると、丹波、まっ青になった。
「ウーム!」
 と呻《うめ》いて、縁に棒立ちです。
 植木屋は?
 と見ると、その蒼白い顔を、相変わらずニコニコさせて、萩乃とお蓮さまへ目礼、スタスタ行っちまおうとするから、丹波、こんどはあわてて、
「お待ちを……ちょっとお待ちを願います」
 ことばづかいまで一変、ピタリ縁にすわって、
「まさか、あなた様は――?」
 恐怖と混迷で、丹波の顔は汗だ。
 お蓮さまと萩乃は、おんなのことで、剣術なんかわからないから、小柄が横にそれただけのことで、この傲岸《ごうがん》な丹波が、どうしてこう急に恐れ入ったのだろう……何かこの植木屋、おまじないでもしたのかしら、と、ふしぎに思って見ている。
「柳生流をあれだけお使いなさるお方は……」
 と、丹波小首を捻《ひね》って、
「ほかにあろうとは思われませぬ。違いましたら、ごめんこうむるといたしまして、もしかあなたさまは、あの――イヤ、しかし、さようなことがあろうはずはござらぬ。御尊名を……ぜひ御尊名を伺わせていただきたい」
「オウ、おさむれえさん。おめえ、何か感ちがいしていやアしませんかい」
 植木屋は、ペコペコあたまを掻いて、
「御尊名と来た! おどろき桃の木――あっしあ、根岸の植留の若えもンで、金公《きんこう》てえ半チク野郎で、へえ」
「なんと仰せられます。ただいまのは、柳生流秘伝銀杏返し……お化けなすっても、チラと尻尾が見えましてござります、しっぽが!」
「へ?」
 と金公、キョトンとした顔。

       二

 うたたねの夢からさめた櫛《くし》まきお藤《ふじ》は、まア! とおどろいた。
 じぶんの昼寝のからだに、いつの間にか、意気な市松《いちまつ》のひとえが、フワリとかけてあるのである。
「まあ! あんなやつにも、こんな親切気があるのかねえ」
 と、口の中で言って、とろんとした眼、自暴《やけ》に髪の根を掻いている。
 ここは、浅草駒形《あさくさこまがた》、高麗屋敷《こうらいやしき》の櫛まきお藤のかくれ家です。縁起棚の下に、さっき弾きあきたらしい三味線が一|梃《ちょう》、投げだしてあるきり、まことに夏向きの、ガランとした家で、花がるたを散らしに貼った地ぶくろも、いかさまお藤|姐御《あねご》の住まいらしい。
 どんよりした初夏の午《ひる》さがり……ジッとしていると、たまらなく睡《ねむ》くなる陽気だ。
 お藤、真っ昼間から一ぱいやって、いまとろとろしたところらしく、吐く息が、ちと臭い。
 今のことばを、口のなかでいったつもりだったのが、声になって外へ出たとみえて、
「姐御、おめざめですかい。あんなやつはねえでしょう。相変わらず口がわるいね」
 といって、二|間《ま》ッきりの奥の間から、出てきたのは、しばらくここに厄介になって身をひそめている、鼓の与吉である。
 妻恋坂のお蓮様に頼まれ、東海道の三島まで出張って、あの柳生源三郎の一行に、荷かつぎ人足としてまぎれこみ、ああして品川の泊りで、うまく大名物こけ猿の茶壺を盗み出したこの与吉。いままでこのお藤姐御の家に鳴りをひそめて、ほとぼりをさましていたので。
 ゆうき木綿《もめん》の単衣《ひとえ》に、そろばん絞りの三尺を、腰の下に横ちょに結んで、こいつ、ちょいとした兄哥《あにい》振りなんです。
 見ると、どっかへ出かける気らしく、藍玉《あいだま》の手ぬぐいを泥棒かむりにして、手に、大事そうに抱えているのは、これが、あの、伊賀の暴れン坊の婿引出、柳生流伝来の茶壺こけ猿であろう。鬱金《うこん》のふろしきに包んだ、高さ一尺五、六寸の四角い箱だ。
「おや、いよいよきょうは一件を持って、お出ましかえ」
 と笑うお藤の眼を受けて、
「あい。あんまり長くなるから、ひとつ思い切って峰丹波さまへこいつをお届けしようと思いやしてネ」
「だけど、伊賀の連中は、眼の色変えて毎日毎晩、品川から押し出して、江戸じゅう、そいつを探してるというじゃないか。もう、大丈夫かえ?」
「なあに――」
 与吉の足は、もう土間へおりていました。

       三

 櫛は野代《のしろ》の本ひのき……素顔自慢のお藤姐御は、髪も、あぶら気をいとって乱したまんま、名のとおり、グルグルっと櫛巻にして、まア、言ってみれば、持病が起こりましてネ、化粧《みじまい》もこの半月ほど、ちっともかまいませんのさ、ようようゆうべひさしぶりで、ちょいと銭湯へはいったところで――なんかと、さしずめ春告鳥《はるつげどり》にでも出てきそうな、なかなかうるさい風俗。
 ここんところ、ちょっと、お勝手もと不都合とみえて、この暑いのに縞縮緬《しまちりめん》の大縞《おおしま》の継《つぎ》つぎ一まいを着て、それでも平気の平左です。白い二の腕を見せて、手まくらのまま、
「さわるまいぞえ、手を出しゃ痛い――柳生の太刀風をバッサリ受けても、知らないよ」
 土間の与吉は、やっこらさとこけ猿の茶壺をかかえて、
「何しろ、大将が大暴れン坊で、小あばれん坊がウントコサ揃っていやすからネ。そいつが、江戸中を手分けして、この与吉様とこの茶壺をさがしてるんだ。ちいとばかり、おっかなくねえことアねえが、峰の殿様も、いそいでいらっしゃる。きっと、与の公のやつ、どうしたかと……」
「じゃ、いそいで行って来な」
「へえ、此壺《こいつ》を妻恋坂へ届けせえすれア、とんでけえってめえります。また当分かくまっておもらい申してえんで」
「あいさ、これは承知だよ」
「こういう危ねえ仕事には、けえって夜より、真っ昼間のほうがいいんです」
「お前がそうしてそれを持ったところは、骨壺を持ってお葬式《とむらい》に出るようだよ。似合うよ」
「ヤ、姐御、そいつあ縁起でもねえなあ」
 与吉が閉口して、出て行きますと、あとは急にヒッソリして、おもて通りの駒形を流して行く物売りの声が、のどかに――。
 しばらく、天井の雨洩りのあとを見ていたお藤は、やおらムックリ起きあがって、手を伸ばして三味線をとりあげました。
 すぐ弾きだすかと思うと、さにあらず、押入れをあけて、とり出したのは、中を朱に、ふちを黒に塗った状箱です。紐をほどく。ふたを除く――。
 そして、お藤、まるで人間に言うように、
「さア、みんな、しっかり踊るんだよ」
 と! です。おどろくじゃアありませんか。その状箱からぞろぞろ這い出したのは、五、六匹の尺とり虫ではないか――。
 同時に、お藤、爪びきで唄いだした。
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「尺取り虫、虫
  尺とれ、寸取れ」
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       四

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「尺取り虫、虫
尺とれ、寸とれ
寸を取ったら
背たけ取れ!
尺とり虫、虫
尺取れ、背とれ
足の先からあたままで
尺を取ったら
命《いのち》取れ!」
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 こういう唄なんだ。命とれとは、物騒。
 こいつを、お藤、チリチリツンテンシャン! と三味《しゃみ》に合わせて歌っているんでございます。
 畳のうえには、五匹ほどの尺とり虫が、ゾロゾロ這っている。まことに妖異なけしき……。
 トロンと空気のよどんだ、江戸の夏の真昼。隣近所のびっしり立てこんだこの高麗やしきのまん中で、ひとりのあやしいまでに美しい大年増が、水色ちりめんの湯まきをチラリこぼして、横ずわり――爪弾きの音も忍びがちに、あろうことか、尺取り虫に三味を聞かせているんで。
 お藤はじっと眼を据えて、這いまわる尺取り虫を見つめながら、ツンツルルン、チチチン、チン……。
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「尺とれ、背取れ
足のさきから頭まで
尺をとったら
命《いのち》取れ――」
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 一生けんめいに呼吸をつめて、唄っているお藤の額は、汗だ、あぶら汗だ。この汗は、閉め切った部屋の暑さのせいばかりではない。人間のもつ精神力のすべてを、三味と唄とに集中して櫛まきお藤は、いま、一心不乱の顔つきです。
 上気した頬のいろが、見る間にスーッと引いて、たちまち蒼白《そうはく》に澄んだお藤は、無我の境に入ってゆくようです。
 背を高く丸く持ちあげては、長く伸びて、伸びたり縮んだりしながら、思い思いの方角に這ってゆく尺取り虫……。
 西洋の言葉に、「牡蠣《かき》のように音楽を解しない」というのがあります。また蓄音機のマークに
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