手で、その白羽の矢を押しいただいた。

       五

「ありがたきしあわせ……」
 主水正、平伏したきり、しばし頭をあげる気力もない。
「柳生か」
 はるかに、御簾《みす》の中から、八代公のお声、
「しからば、明年の日光造営奉行、伊賀藩に申しつけたぞ。名誉に心得ろ」
「ハハッ!」
 もう決まってしまったから、ほかの大名連中、一時に気が強くなって、
「いや、光栄あるお役にお当たりになるとは、おうらやましい限りじゃテ」
「拙者も、ちとあやかりたいもので」
「それがしなどは、先祖から今まで、一度も金魚が死に申さぬ。無念でござる。心中、お察しくだされい」
「わたくしの藩も、なんとかして日光さまのお役に立ちたいと念じながら、遺憾ながら、どうも金魚に嫌われどおしで――」
 うまいことを言っている。
 吉宗公、さっき一同が、あかるみの中で愚楽老人に突っかえされて、皆もぞもぞうしろに隠している菓子箱へ、ジロリ鋭い一瞥をくれて、
「失望するでない。またの折りもあることじゃ」
 一座は、ヒヤリと、肩をすぼめる。
「それにしても、だいぶ御馳走が出ておるのう」
 みんな妙な顔をして、だれもなんともいわない。
「山吹色の砂糖菓子か。なるほど、それだけの菓子があったら、日光御用は、誰にでもつとまるじゃろうからの、余も安堵《あんど》いたした」
「へへッ」
 皮肉をのこして、そのままスッとお立ちです。諸侯連、控えの間へさがると現金なもので、
「伊達侯、首がすっと伸びたではないか」
「わっはっはっは、それはそうと柳生の御家老、御愁傷なことで」
 みんな悔《くや》みをいいにくる。
「しかし、おかげでわれわれは助かった。柳生様々じゃ」
 いろんな声にとりまかれながら、色蒼ざめて千代田城を退出した田丸主水正、駕籠の揺れも重くやがてたちかえったのは、そのころ、麻布本村町《あざぶほんむらちょう》、林念寺前《りんねんじまえ》にあった柳生の上屋敷。
「お帰り――イ」
 という若党|儀作《ぎさく》の声も、うつろに聞いて、ふかい思案に沈んでいた主水正、あわてふためいて用人部屋へ駈けあがるが早いか、
「おい、おいっ! だれかおらぬか。飛脚じゃ! お国おもてへ、急飛脚じゃ!」
 折《お》れよとばかり手をたたいて、破《わ》れ鐘《がね》のような声で叫んだ。

   恋《こい》不知火《しらぬい》


       一

 病間にあてた書院である。やがてそこが、司馬先生の臨終の室となろうとしているのだった。
 病人が光をいとうので、こうして真昼も雨戸をしめ切って、ほのかな灯りが、ちろちろと壁に這っているきりである。中央に、あつい褥《しとね》をしいて、長の大病にやつれた十|方不知火流《ぽうしらぬいりゅう》の剣祖、司馬先生が、わずかに虫の息を通わせて仰臥しているのだった。落ちくぼんだ眼のまわりに、青黒く隈《くま》どりが浮かんでいるのは、これが死相というのであろう。
 本郷妻恋坂に、広い土地をとって、御殿といってもよい壮麗な屋敷であった。剣ひとつで今日の地位を築き、大名旗下を多く弟子にとって、この大きな富を積み、江戸の不知火流として全国にきこえているのが、この司馬先生なのだった。その権力、その富は、大名にも匹敵して、ひろく妻恋坂の付近は、一般の商家などすべて、この道場ひとつで衣食しているありさまであった。だから、妻恋坂の剣術大名という異名があるくらいだった。
 故郷の筑紫にちなんで不知火流と唱え、孤剣をもって斯界《しかい》を征服した司馬先生も、老いの身の病《やまい》には勝てなかった。暗い影のなかに、いまはただ、最後の呼吸を待つばかりであった。
 まくらもとに控えている、茶筅《ちゃせん》あたまに十徳の老人は、医師であろう。詰めかけている人々も、ひっそりとして、一語も発する者もない。
 空気は、こもっている、香と、熱のにおいで、重いのだった。
「お蓮《れん》――」
 と、死に瀕《ひん》した老先生の口が、かすかにうごいた。
 医者が、隣にすわっているお蓮さまに、ちょっと合図した。
「はい――」
 泣きながら袂で眼をおさえて、お蓮さまは、病夫の口もとへ耳を持っていった。
 このお蓮さまは、司馬老先生のお気に入りの腰元だったのが、二、三年前、後妻になおったのである。それにしても、先生のむすめといってもいい若さで、それに、なんという美しい女性であろう!
 明りを受けたお蓮さまの顔は、真珠をあたためたようにかがやいて、眉の剃りあとの青いのも、絵筆で引いたように初々《ういうい》しいのだった。
「もう長いことはない」老先生は、喘《あえ》ぐように、
「まだ来んか。伊賀の――源三郎は、まだ江戸へ着かんか」
「はい。まだでございます。ほんとに、気が気でございません。どう遊ばしたのでございましょう」
 お蓮さまは、あせりぬいている顔つきだった。

       二

「神奈川、程《ほど》ヶ|谷《や》のほうまで、迎いの者を出してありますから、源三郎様のお行列が見えましたら、すぐ飛びかえって注進することになっております。どうぞ御安心遊ばして、お待ちなさいませ」
 まことしやかなお蓮さまの言葉に、老先生は、満足げにうち笑《え》んで、
「源三郎に会うて、萩乃《はぎの》の将来《ゆくすえ》を頼み、この道場をまかせぬうちは、行くところへも行けぬ。もはや品川あたりに、さしかかっておるような気がしてならぬが、テモ遅いことじゃのう」
 と司馬先生は、絶え入るばかりに、はげしく咳《せ》く。
 いまこの室内に詰めているのは、医師をはじめ、侍女、高弟たち、すべてお蓮さま一派の者のみである。老先生と柳生対馬守とのあいだにできたこの婚約を、じゃまして、これだけの財産と道場を若い後妻お蓮様の手に入れ、うまい汁を吸おうという陰謀なのだ。
 剣をとっては十方不知火、独特の刀法に天下を睥睨《へいげい》した司馬先生も、うつくしい婦人のそらなみだには眼が曇って、このお蓮さまの正体を見やぶることができなかった。
 十方不知火の正流は、ここに乗っ奪《と》られようという危機である。
 多勢が四方から、咳《せ》き入る先生をなでるやら、擦《さす》るやら、半暗《はんあん》のひと間《ま》のうちが、ざわざわ騒ぎたったすきに乗《じょう》じて、お蓮さまはするりと脱け出て、廊下に立ちいでた。
 嬋妍《せんけん》たる両鬢《りょうびん》は、秋の蝉《せみ》のつばさである。暗い室内から、ぱっとあかるい午後の光線のなかへ出てきたお蓮様のあでやかさに、出あい頭《がしら》に、まぶしそうに眼をほそめて、そこに立っているのは、代稽古主席《だいげいこしゅせき》、この剣術大名の家老職といわれる峰丹波《みねたんば》だった。
「いかがです、まだ――」
 六尺近い、大兵《だいひょう》の峰丹波である。そう太い声で言って、にっと微笑《わら》った。
 まだ老先生は息を引きとらぬか――という意味だが、さすがに口に出し兼ねて、語尾を消した。
「早くかたづくといいのにねえ」
 とお蓮さまは、うつくしい顔をしかめて、かんざしで髪の根を掻きながら、
「品川から、なんとかいって来た?」
「いや、一行はいまだに本陣に頑張って、威張っておるそうですが――」
「あの、手紙をくわえた首は、だれも見なかったろうね?」
「あれには驚きましたナ。イヤどうも腐りが早いので、首は、甕《かめ》へ入れて庭へ埋めました。手紙はここに持っておりますが、私の身体まで、死のにおいがするようで――」

       三

 京ちりめんに、浅黄《あさぎ》に白で麻の葉を絞りあわせた振り袖のひとえもの……萩乃《はぎの》は、その肩をおとして、ホッとちいさな溜息を洩らした。
 父の病室からすこし離れた、じぶんの居間で、彼女は、ひとりじっともの思いに沈んでいるのだった。
 うちに火のような情熱を宿して、まだ恋を知らぬ十九の萩乃である。庭前の植えこみに、長い初夏の陽あしが刻々うつってゆくのを、ぼんやり見ながら、きびしい剣家のむすめだけに、きちんとすわって、さっきから、身うごきひとつしない。
 病父《ちち》の恢復は、祈るだけ祈ったけれど、いまはもうその甲斐もなく、追っつけ、こんどは、冥福を祈らなければならないようになるであろう……。
 萩乃は、いま、まだ見ぬ伊賀の源三郎のうえに、想いを馳《は》せているのだ。
 先方の兄と、司馬の父とのあいだに、去年ごろから話があったが、父のやまいがあらたまると同時に、急にすすんで、源三郎さまはきょうあすにも、江戸入りするはずになっているのだ――が、まだお着きにならない。どうなされたのであろう……。
 といって、彼女は決して、源三郎を待っているわけではない。父がかってにきめた縁談で、一度も会ったことのない男を、どうして親しい気もちで待ちわびることができよう。
 伊賀のあばれン坊としてのすばらしい剣腕は、伝え聞いている――きっと見るからに赤鬼のようなあの、うちの峰丹波のような大男で、馬が紋つきを着たような醜男《ぶおとこ》にきまっていると、萩乃は思った。
 気性が荒々しいうえに、素行のうえでも、いろいろよからぬ評判を耳にしているので、萩乃は、源三郎がじぶんの夫として乗りこんでくることを思うと、ゾッとするのだった。
 山猿が一匹、伊賀からやってくると思えばいい。自分はそのいけにえになるのか……と、萩乃が身ぶるいをしたとたん。
「おひとりで、辛気《しんき》くそうござんしょう、お嬢さま」
 と、庭さきに声がした。
 見ると、紺《え》の香のにおう法被《はっぴ》の腰に、棕梠縄《しゅろなわ》を帯にむすんで、それへ鋏《はさみ》をさした若いいなせ[#「いなせ」に傍点]な植木屋である。
 父が死ねば、この広い庭に門弟全部があつまって、遺骸に別れを告げることになっているので、もはや助からないと見越して、庭の手入れに四、五日前から、一団の植木屋がはいっている。そのうちの一人なのだが、この若い男は、妙に萩乃に注意を払って、なにかと用をこしらえては、しじゅうこの部屋のまえを通りかかるので――。

   秘伝《ひでん》銀杏返《いちょうがえ》し


       一

 どうしてこんな奥庭まで、まぎれこんできたのだろう……と、萩乃が、見向きもせずに、眉をひそめているうちに。
 その若い植木屋は、かぶっていた手ぬぐいをとって、半纏《はんてん》の裾をはらいながら、かってに、その萩乃の部屋の縁側に腰かけて、
「エエ、お嬢さま。たばこの火を拝借いたしたいもので、へえ」
 と、スポンと、煙草入れの筒をぬいた。
 水あぶらの撥《ばち》さきが、ぱらっと散って、蒼味の走った面長な顔、職人にしては険《けん》のある、切れ長な眼――人もなげな微笑をふくんだ、美《い》いおとこである。
 なんという面憎《つらにく》い……!
 萩乃は、品位をととのえて振りむきざま、
「火うちなら、勝手へおまわり」
「イヤ、これはどうも、仰せのとおりで」
 と、男は、ニヤリと笑いつつ煙管《きせる》をおさめて、
「じゃ、たばこはあきらめましょう。だがネ、お嬢さん、どうしてもあきらめられないものがあるとしたら、どうでございますね、かなえてくださいますかね」
 と、その鋭い眼じりに、吸いよせるような笑みをふくんで、ジロッと見据えられたときに、萩乃は、われにもなく、ふと胸がどきどきするのを覚えた。
 不知火流大御所のお嬢様と、植木屋の下職……としてでなく、ただの、男とおんなとして。
 なんてきれいなひとだろう、情《じょう》の深そうな――源三郎さまも、こんなお方ならいいけれど。
 などと、心に思った萩乃、じぶんと自分で、不覚にも、ポッと桜いろに染まった。
 でも、源三郎様は、この植木屋とは月とすっぽん、雪と墨《すみ》、くらべものにならない武骨な方に相違ない……。
 オオ、いやなこった! と萩乃は、想像の源三郎の面《おも》ざしと、この男の顔と、どっちも見まいとするように眼をつぶって、
「無礼な無駄口をたたくと、容赦しませぬぞ。ここは、お前たちのくるところではありませぬ。おさがり!」
「へへへへへ、なんかと、その
前へ 次へ
全55ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング