今。
庭つづきのこの尚兵館へ現われて、ああ呶号《どごう》したのだったが、誰一人起きる気配もないので。
主水正は、また一段と声を高め、
「おのおの方ッ、こけ猿の所在《ありか》がわかり申したぞっ!」
武士は轡《くつわ》の音で眼をさますというが、伊賀侍は、こけ猿というひとことで、みないっせいにガバッと起きあがった。
「こけ猿が? どこに? どこに?――」
「われわれがこんなに血眼で捜索しても、とんと行方の知れぬこけ猿が、ど、どうしてこの真夜中――?」
はるか向うの一段高いところに、静かに床をはねてすわりなおしたのはこの一団の長、高大之進です。柳生一刀流の使い手では、一に藩主対馬守、二に伊賀の暴れん坊こと源三郎、三、安積玄心斎、四に高大之進といわれた、その人であります。
「身支度せい」
と、ことばすくなに部下へ言っておいて、主水正へ、
「シテ、壺はいずこに?――」
薬がききすぎたので、主水正はあわてて、
「いや、その所在がわかったわけではないが、いよいよ一刻も早く、わからんと困ることにあいなったのじゃ。諸君も御承知のとおり、日光造営の日は、時の刻みとともに近づく一方……のみならず、このこけ猿の件は、諸藩のあいだに知らぬ者もなきほど……」
二
「諸藩の間に、誰知らぬ者もなきほど有名になっている。で、先般来、造営奉行の下役なるお畳奉行と、お作事目付にありつきたいと言って――」
田丸主水正、道場のはしに立って、寝間着の一群へ向かって演説をはじめた。
皆ゴソゴソ起きあがって、ねぼけた顔をならべている。
「ヘン、日光組下にありつきたいんじゃアなく、なんとでもしてのがれたいの一心でござろう」
誰かが弥次を飛ばした。
「ウム、言ってみれば、マア、そのとおり……で、各大名の使いが数日来、当屋敷につめかけたことは、諸君も知ってであろう。そいつらが、異口同音にこけ[#「こけ」に傍点]猿のことをきくので、拙者もつらくなってな。そこで一策を案じ、こけ[#「こけ」に傍点]猿によく似た駄壺をさがしだして、耳を一つ欠き、にせ猿の茶壺ということにして飾っておいたのじゃ。この計略は図にあたり、みなもうこけ[#「こけ」に傍点]猿は、当藩の手にもどったものと思って、喜びをのべて行ったが、わしの心苦しさはます一方じゃ。もはやいかなる手段をつくしても、まことのこけ[#「こけ」に傍点]猿を手に入れねばならぬ」
「いや、その儀なれば、御家老のお言葉を待つまでもなく……」
喜田川頼母《きたがわたのも》が、腕をボリボリかきながら言いだすのを、主水正は叱咤《しった》して、
「おのおの方は、いったい何しに江戸表へこられたのじゃっ! 大宝を埋めある場処をしめした秘密の地図、その地図を封じこめたこけ[#「こけ」に傍点]猿の茶壺、その壺を奪還せんがためではござらぬかっ。しかるに、毎日、三々五々、隊を組んで市中見物を――」
「あいや! いかに御家老でも、その一|言《ごん》は聞きすてになりませぬ」
起ちあがったのは、憤慨家の井上近江《いのうえおうみ》だ。
「われわれ一統の苦心も買われずに、何を言われるかっ!」
轟々《ごうごう》たる声が、四方から起こって、
「相手の正体がはっきりわかってこそ、吾人の強味が発揮される。古びた壺一個、この八百八町に消えてしまったものを、いかにして探しだせばよいか、拙者らはその方策に困《こう》じはてておる始末」
「のみならず、寸分たがわぬ壺が、あちこちにいくつとなく現われておるし……」
「これと思って手に入れてみれば、みな偽物」
「御家老も、そのにせ猿を一つ作られたというではないか、ハッハッハ」
「田丸様、こんな厄介なこととは、夢にも思いませんでした」
「毎日毎日あてどもなく、江戸の風にふかれて歩くだけで、どこをどう手繰《たぐ》っていけばよいやら……」
ワイワイというのを、高大之進は、
「弱音をはくなっ!」
と、一言に制して、
「とは言いますものの、田丸先生、拙者も、一同とともに泣きごとを並べたいくらいじゃ。かようなややこしい仕事は、またとなかろうと存ずる」
主水正は声をはげまし、
「さようなことを申しておっては、はてしがない。君公のおためじゃ。藩のためじゃ。日限をきり申そう。むこう一ト月の間に、是が非でも、こけ猿を入手していただきたい」
「ナニ、むこう一ト月のあいだに?」
そう、大之進がききかえしたとたん、主水正をおしのけるようにして、道場の入口から駈けこんできた二人の人影……安積玄心斎《あさかげんしんさい》と谷大八《たにだいはち》が、あわてふためいた声をあわせて、
「若君源三郎様は、コ、こちらにまいっておいでではないか」
三
玄心斎の茶筅《ちゃせん》髪はくずれ、たっつけ袴は、水と煙によごれたところは、火事場からのがれてきた人と見える。
この二人は、本郷の司馬家に押しかけ婿として、がんばっているはずの伊賀の暴れん坊にくっついて、この不知火道場に根拠をさだめ、別手にこけ猿をさがしてきたのだが……。
その、師範代玄心斎と大八が、深夜このただならぬ姿で、どうしてここへ?
と、口ぐちにきく一同の問いに答えて、
源三郎が急に思いたって、向島《むこうじま》から葛飾《かつしか》のほうへと遠乗りにでかけ、門之丞の案内で、不安ながらもお蓮様の門をたたくと、思いがけなくお蓮さま、峰丹波の一党が、数日前からそこにきていた――。
殿にも膳部がはこばれ、自分達も別室で、夕食の馳走になっている時、となりの部屋からヒソヒソ声でもれてくる奸計のうちあわせに驚いて、この二人と門之丞が戸外《そと》の藪《やぶ》かげで乱闘の開始を待っているうちに、
月のみ冴えて、源三郎にたいする襲撃は、なかなかはじまらない。
ふと気がつくと、いっしょにいた門之丞の姿がないが、今にもここへ源三郎をおびきだして、峰丹波らが、討ちとろうとしていると信じこんでいる二人は、そんなことなどにかまってはいられない。
「早鳴る胸をしずめ、夜露にうたれて、ひと晩中その木《こ》かげにひそんでおったが……」
玄心斎の言葉を、谷大八がうけとって、
「何事もない。まるで、狐につままれたようなものじゃ。で、安積の御老人をうながして、いま一度寮へ立ち帰ろうとすると!」
その時、寮のどこかに起こった怪火は、折りから暁の風になぶられて、みるみるうちに、数奇《すき》をこらした建物をひとなめ……。
「われら二人ではいかに立ち働いたとて、火の消しようもなく……」
「シテ、峰丹波の一党は?」
「それがふしぎなことには、火事になっても、どこにもおらんのじゃ。まるで空家が燃えたようなもの」
「それで、源三郎様は?」
この問いに、二人はぐっと声がつまり、うちうなだれて、
「火がしずまってから、御寝《ぎょしん》なされたお茶室と思われるあたりに、壺をいだいた一つの黒焦げの死体が、現われましたが」
「ナ、何! 若殿が御焼死?」
一同はワラワラと起ちあがって寝るまもぬがぬ稽古着の上から、手早く黒木綿の着物羽織に、袴をはき、それぞれ両刀をたばさんで、イヤモウ戦場のような騒ぎ。
「御師範代をはじめ、三人も手ききがそろっておられて、なんということを……」
「いや、その門之丞は、途中からふっといなくなったので――」
「ウム、門之丞があやしい。で、貴殿らお二人は、ここへくる途中、本郷の不知火道場へお立ちよりになりましたか」
「いや、その黒焦げの死骸が、源三郎様でなければよいがと、いろいろ調べたり、また丹波らの行動がいかにも不審なので、そこここ近処をたずねたりいたし、心ならずも夜まで時をすごして、とにかく、当上屋敷へ真一文字に飛んでまいったわけ……」
伊賀侍の一団は、みなまで聞かずに、おっ取り刀で屋敷をとびだした。眠る江戸の町々に、心も空《そら》、足も空《そら》、一散走りに、お蓮様の寮の火事跡をさして……。
焼《や》け野《の》の鬼《おに》
一
人の話を聞いても、さっぱりわからないんです。
なんでも、明け方、この寮の四方八方から、一時に火が起こって、あっと言うまにあっけなく燃えちまったという。
それだけのこと。
誰も人の住んでいるようすはなかった。さながら、がらんどうの家から火が出て、そのまま焼け落ちたようなものだが、ただ、老人と若いのと、見なれない侍が二人、何か主人の安否でも気づかうふうで、近くの村々の火消しとともに、あれよあれよと走りまわって、消防に手をつくしていたが。
そして。
焼け跡から、まっくろになった死骸が一つ、何やら壺のような物をしっかり抱きしめたまま、発見された……というのが、駒形のお藤の家から駈けつけた丹下左膳が、まだ余燼《よじん》のくすぶる火事場をとりまいている人々から、やっとききだし得た情報の全部でした。
「その死骸《しげえ》は、どうしたのだ?」
きかれた人々は、異様な左膳の風態におどおどして、
「へえ、火消しどもが、その死骸をかつぎだして、わいわい言っているところへ、なんでも、火元改めのえらいお役人衆の一行がお見えになって、その死人をごらんになり、ウン、これはたしかに、綽名《あだな》を伊賀の暴れん坊という、あの柳生源三郎様だと、そう鑑別をしておいででした」
左膳はギックリ、
「ナニ、役人がその死骸を見て、柳生源三郎だと言ったと?」
相手の町人は、揉《も》み手をしながら、
「ヘエ、伊賀の暴れん坊ともあろう者が、焼け死ぬなどとはなんたる不覚……そうもおっしゃいました。はい、あっしはシカとこの耳で聞いたんで……」
「そうすると、やっぱり、伊賀の暴れん坊は死んじゃったんですねえ」
そばからチョビ安が、口を出す。
蝶々とんぼの頭に、ほおかぶりをし、あらい双子縞《ふたこじま》の裾をはしょって、パッチの脚をのぞかせたところは、年こそ八つか九つだが、装《なり》と口だけは、例によっていっぱしの兄《あに》イだ。
左膳はそれには答えずに、
「ふうむ。寮の者ははじめから、一人も火事場にいなかったというんだな?」
「ヘエ、なんでもそういうことで」
その源三郎の死体らしいのが、壺をしっかり抱いていたというのが、左膳は、気になってならなかった。
壺……といえば、こけ猿の壺のことが頭に浮かぶ。こけ猿はいま自分が、お藤に預けて出てきたのだから、こんなところにあるはずはないけれど――。
なおもくわしくきいてみようとして振り返ると、もうその町人は、向うへ歩いていっていた。
寮は見事に焼けてしまって、周囲の立ち樹も、かなりにそばづえをくい、やっと一方の竹林で火がとまっているだけ。暗澹《あんたん》たる焼け跡に立って、ここが源三郎の落命のあとかと思うと、左膳は、立ち去るに忍びなかった……なんとかして、その源三郎の死骸てエのを、一眼見てえものだが。
「フン、くせえぞ」
この火事そのものに、機械《からくり》があるような気がしてならない。左膳は、左手で顎をなで、頭をかしげて考えこむ。チョビ安も、左手で顎をなで、頭をかしげて考えこむ。なんでもチョビ安、父左膳のまねをするんです。
二
好敵手……いつかは雌雄を決しようと思っていた柳生源三郎。
かれの一刀流、よく剣魔左膳の息の根をとめるか。
または。
相模大進坊《さがみだいしんぼう》濡れ燕、伊賀の暴れん坊にとどめをさすか――?
たのしみにしていたその相手が、むざむざ卑怯な罠《わな》にかかって、焼け死んだと知った左膳の落胆、その悲しみ……。
同時にそれは、自分から、ただ一つの生き甲斐をうばった峰丹波一味への、焔のような怒りとなって、左膳の全身をつつんだのだった。
「畜生ッ!――星の流れる夜に、いま一度逢おうと刀を引いて、別れたきりだったが……」
と左膳、焼け跡に立って、悵然《ちょうぜん》と腰なる大刀の柄をたたいた。
「やい、大進坊《だいしんぼう》、お前《めえ》もさぞ力をおとしたろうなア」
「アイ、おいらもこんなに力をおとしたことはねえ」
まるで刀が口をきいたように、そば
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