いっ、用がある。起きろっ!」
「あい、なんだい。父《ちゃん》。起きたよ」
「起きてやしねえじゃねえか」
「耳は縦になっていても横になっていても聞こえるよ」
「アレだ。ちょっと本郷の妻恋坂へ走って、司馬道場のお嬢さんへこの手紙を渡してこい」
「なアンだ、何かくれるのかと思ったら、ちえっ、おもしろくないネ。三銭切手の代用か」
チョビ安がしぶしぶ床を出た時。
恨みをこめて、ジロリと左膳を流し見た彼女の眼には、いっぱいの涙があふれて今にも落ちそうでした。
ちょっとしらじらとした空気が、室内に流れた。
チョビ安は寝ぼけまなこをこすりながら、裏手の井戸端へ顔を洗いに、ガタピシ腰高障子《こしだか》をあけて出ていった。
半鐘の音はいつしかやんだようです。夜はもうすっかり明けはなれている。
あの手紙を萩乃へとどけておいて、自分はモウすぐにも埋宝個処へ旅に出ねばならぬ。
オオそうだ、こうしてはいられぬ、壺中の秘図をとりだすのが第一だった、と。
心づいた左膳が、ふたたび、こけ[#「こけ」に傍点]猿のふたに左手をのせて、その、奉書を貼りかためたふたを持ちあげようとした時だ。
「エエ町内のお方々《かたがた》、おさわがせ申してあいすいません。火事は遠うごぜえます。葛西領は渋江《しぶえ》むら、渋江村……剣術大名司馬様の御寮――」
番太郎が拍子木《ひょうしぎ》を打って、この尺取り横町へはいってくる。
「チェッ! 火事は渋江村《しぶえむら》、ときやがら。こちとら小石川《こいしかわ》麻布《あざぶ》は江戸じゃアねえと思っているんだ。しぶえ村とはおどろいたネ。おどろき桃の木|山椒《さんしょう》の木……」
さっき火事を見に出た隣近処《となりきんじょ》の連中がガヤガヤいって帰ってくる。
じっと左膳の顔を見つめていたお藤、低声《こごえ》に、
「太郎冠者《たろうかじゃ》、あるか。おん前《まえ》に……」
洒落《しゃれ》たやつで、仇名のとおりに、櫛まきにとりあげた髪を、合わせ鏡にうつして見ながら、立て膝のまま口のなかでうたいだしたのは、長唄|末広《すえひろ》がりの一節――。
「太郎冠者《たろうかじゃ》あるか。おん前に。念《ねん》のう早かった。頼うだ人はきょうもまた、恋の奴《やっこ》のお使いか、返事待つ恋、忍ぶ恋……」
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恋の奴《やっこ》のお使いか。
返事待つ恋。
忍ぶ恋。
[#ここで字下げ終わり]
二度しんみりとくりかえしたお藤、
「馬鹿にしてるよ、ほんとに。アアア、いやだ、嫌だ」
十
「寝ぼけた半鐘じゃアねえか。畜生め、葛西領《かさいりょう》の火事に浅草の兄《あに》イが駈けだすなんざアいい図でおす」
なかにひとり物識《ものし》りぶったのが、
「一犬《いっけん》虚《きょ》に吠《ほ》えて万犬《ばんけん》実《じつ》を伝うといってナ、小梅《こうめ》あたりの半鐘が本所《ほんじょ》から川を越えてこの駒形へと、順にうつって来たものとみえやす」
「あっしゃア渋江《しぶえ》なんてえところがこのにっぽんにあることを、今朝はじめて知りやした。一つ学《がく》をしやした」
「オオ寒! なんにしても業腹《ごうはら》だ。ひとつそこらへ放火《つけび》をして、この埋めあわせをしようじゃアねえか」
ぶっそうなことを言ってゆくのは、この横町第一の火事きちがい、鍛冶屋《かじや》の松公《まつこう》だ。
「それッてんで威勢よく飛び出したまでアいいが、どっちを向いても煙のけ[#「け」に傍点]の字も見えやアしねえ。ワイワイいってるところへ、あの番太《ばんた》の野郎がヨ、まぬけた面《つら》アしやがって、エエ火事は渋江村《しぶえむら》ってふれてきやがった時にゃア、おらア彼奴《あいつ》の横っつらはりとばしたくなったぜ。なんでエ、なんだってもっと近えところをもやさねえんだ。あの番太なんざアなんのために町内で金出して飼《か》っとくんだかわかりゃしねえ」
言うことが乱暴です。
みんなブツクサいってぞろぞろ家の前をひきあげてくる。
左膳は。
さっき番太郎が、火事は渋江村《しぶえむら》、剣術大名司馬さまの御寮――といったのが、妙に耳についていてはなれない。
あけかけた壺を膝もとにひきつけたまま、
「ハテ、さようなところに司馬家の寮があったのか。してみると、源三郎はもはや亡きものと、かの門之丞とやらが萩乃に言った口裏でも、その寮とやらにでもヒョンなからくりがあったのかも知れぬ。その家が今また出火とは、はてナ合点のゆかぬ……」
胸に問い、胸に答えて。
ひとり不安な気もちに浪だつ。
ふたたび、壺のほうはお留守です。
と、そのやさき、
「オウッ、父上ッ! てえへんだ、てえへんだ!」
うらの井戸ばたで顔を洗っていたチョビ安が、濡れ手ぬぐいを振りまわして駈けこんできた。
「この裏の担《かつ》ぎ煙草《たばこ》の富さんネ、渋江のほうに親類があって、ゆうべそっちへとまったところが、今朝の火事なんですと。まろうど大権現《だいごんげん》の森ン中の、不知火流の寮だそうですよ。侍《さむれえ》が一人焼け死んだそうで、それがあの伊賀の暴れン坊柳生源三郎てえ人だとさ。イヤモウたいそうな評判だと、いま富さんが飛んでけえってきて話していましたよ、父上」
「ゲッ、何イ?」
左膳は腰を浮かして、
「伊賀の源三が焼け死んだと?」
「ウン。富さんはくすぶる煙の中から、その死骸をかつぎ出すところを見たんだとサ」
「ちえェッ、惜しいことをしたなア」
立ちあがった左膳、貝の口にむすんだ帯をグッと押しさげ、豪刀《ごうとう》濡れ燕を片手でブチこみながら、
「お藤ッ!」
「あいヨ」
われ関《かん》せず焉《えん》と水口の土間で、かまど[#「かまど」に傍点]の下を吹きつけていたお藤が、気のない声で答える。
プウッと火吹き竹をふいているお藤姐御、ほおをまるくしているのは、心中はなはだおもしろくないから、海豚提灯《ふぐぢょうちん》のようなふくれっつらにもなろうというもの。
「オヤ、火が消えてから火事場へお出ましかえ。火もとあらためのお役人衆みたようで、フン、乙《おつ》う構えたものさネ」
と、申しました。
十一
「おいっ!」
左膳は、お藤のつぶやきを無視して、チョビ安へ、
「本郷の道場へ手紙を持って行けといったが、取消しだっ」
「え? 文《ふみ》の使いはもういいのですかい、父上」
「うむ。源三郎が死んだとありゃア、おれアスッパリと萩乃を思いきる。源三が生きていてこそ鞘当てだ。死んだやつの後釜《あとがま》をねらうのは、俺にはできねえ」
なんのことだかわからないから、チョビ安もお藤も、ポカンとしている。
だが、チョビ安は、わからないくせに、もったいらしく小さな腕を組んで、
「ウム、死人のあとは、ねらえねえ……それでこそ父上だ。見上げたものだ」
と首をひねりながら、
「しかし父《ちゃん》、富さんがそういっただけで、ほんとに源三郎さんてえ人が焼け死んだものかどうか、そいつはまだわからねえ」
「それもそうだナ。伊賀のあばれン坊ともあろうものが、いくら火にまかれても、そうやすやすと焼き殺されようたア思われねえ」
「これからすぐ渋江村へ――」
「安、おめえも来るか」
「あい」
「向うへ行ってみたうえで、源三郎の死んだというのが間違いとわかったら、お前《めえ》その足でこの手紙を、本郷へとどけてくれナ」
「言うにゃおよぶ。源さんの生死をたしかめるのが第《でえ》一だ」
チョビ安、源さんなどと心やすいことを言いながら、はや先にたって土間へ……。
ひらかれようとして、まだひらかれない壺。
手もとにある以上、あけようと思えばいつでもあけられると思ったものだから、萩乃へ恋文を書いたりして夜を明かし、いざこれからふたをとろうという時に、この火事騒ぎ――気をゆるしたわけではありませんが、早くあけて見ればよかったものを。
今はそのひまもない。
左膳は手早く壺にすがり[#「すがり」に傍点]をかぶせ、古金襴《こきんらん》の布にくるみ、箱に入れて、風呂敷につつみました。
すっかりもとどおりにしまいこんで……チョビ安にでもさげさせて、いっしょに持って出ればよかったのに――。
「お藤、すぐけえってくる。それまでこの壺を、大事《でえじ》にあずかってもれえてえ。頼むぞ」
「嫌だねえホントに。どこまで水臭いんだろう。お前さんの大事なものなら、あたしにだって大切な品だろうじゃないか。なんの粗略にしてたまるものかね。安心して行っておいでよ」
「壺を押入れにでもかくして、おれがけえってくるまで家をあけねえでくれよ」
「あいサ。承知之助《しょうちのすけ》だよ」
萩乃へあてた手紙をふところへねじこんだ左膳、この声をうしろに聞いて、左手に濡れつばめの柄《つか》をおさえ、尺取り横町を走り出た。
チョビ安はもうドンドン先へ駈けてゆく。
その時。
駒形の大通りから、この高麗やしきの横町へきれこもうとしていた一人の屑屋。
「屑《くず》イ、屑イ! お払いものの御用は……」
縦縞の長ばんてんに継《つ》ぎはぎだらけの股引《ももひ》き。竹|籠《かご》をしょい、手に長い箸《はし》を持って、煮しめたような手拭を吉原《よしわら》かぶり。
「エエ屑屋でござい――」
横町の角で、いきなり飛びだしてきた誰かに、ドシンとぶつかった。
出あいがしら……よろめきながら、
「ヤイッ、気をつけろい!」
と、威張りました。
十二
「なんでエ、屑屋にぶつかるたア人間の屑だから、拾ってくれてえ洒落《しゃれ》かい」
駄弁《だべん》をろうして立ちなおりながら、とっさに相手を見ますと。
右眼がつぶれ、そのうえに深い刀痕の這っている蒼い顔。
右の袖をブラリとゆりうごかし左手に大刀の柄をおさえた異様な浪人者だから、今の雑言《ぞうごん》でテッキリ斬られると思った屑屋。
「うわあっ、かんべんしておくんなせえ。こ、このとおり、あやまりやす、あやまりやす」
飛びのいて、必死に掌《て》をあわせて拝《おが》みました。
ところが。
見向きもしないその片腕の浪人は、
「おれの粗相だ。許せよ」
と、ひとことはき捨てて、案に相違、トットと通りを向うへ駈けさってゆく。
ひどくいそいでいるようす。
さきへ走る子供に追いついて、二人で浅草のほうへ一散に……。
「なアんだ、あんな侍《さんぴん》でも、さすがにこのおれ様はこわいとみえる。あはははは、お尻《しり》に帆あげて逃げていきゃあがった。ざまア見やがれ」
いい気になって左膳のあとを見送ったのち、肩の籠を一揺りゆりあげて、
「エエ屑イ、屑イ……お払いものはございやせんか」
尺とり横町へはいっていきます。
「屑やでござい。屑イ、屑イ――」
「チョイト、屑屋さん!」
横町の中ほど、とある小意気な住居の千本格子があいて、色白な細面《ほそおもて》をのぞかせた年増があります。
何人もの男を、それでコロリコロリと殺してきたであろうと思われる切れの長い眼、髪は櫛巻き……。
それが、火吹き竹をチョット振ってよびとめ、
「壺だけれど、持っていっておくれかえ」
「ヘエヘエ、壺でも鉢でも、御不用の品はなんでもいただきやす、へえ」
「じゃ、ちょっとこっちへはいっておくれよ」
と、お藤は手の火吹き竹で土間へ招き入れた。
新世帯にうれしいものは、紅のついたる火吹き竹――なるほど、この火ふき竹にも、吹き口にはお藤姐御の寒紅《かんべに》がほんのりついていますけれど、うらむらくはこの左膳との生活に、それらしい新婚のよろこびは、すこしもございませんでした。
のみならず。
今は。
この壺と、壺にまつわる本郷司馬道場の誰やら、ほかの増す花に見返られて、あわれ自分はすてられようとしている――。
そう思うと、怨みと妬《ねた》みにわれをわすれたお藤、この壺さえなければと考えたので。
火吹き竹も、へっついの下をふいているうちは無事ですが、ここに思わぬ渦乱の炎を吹きおこすことになるのです。
火ふき紅竹《べにだけ》
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