せん。
すっかりくさった左膳、髪の中へ指をつっこんで、ガリガリ掻くと、雲脂《ふけ》がとぶ。
竹になりたや紫竹《しちく》だけ、元は尺八、中は笛、末はそもじの筆の軸……思いまいらせ候《そろ》かしく。
といいたいところだが、これじゃア義理にも、そんな艶《つや》っぽい場面とは言えない。
ましてや。
筆とりて、心のたけを杜若《かきつばた》、色よい返事を待乳山《まつちやま》、あやめも知れめ水茎《みずぐき》の、あとに残せし濃《こ》むらさき。
なんて※[#小書き片仮名エ、1−5−7]のは、望むほうが無理で、色よい返事を待乳山《まつちやま》――どころじゃアない。そのまつち山から、まず夜が明けそうです。
じっさい。
室内《へや》のどこやらに、白っぽい気がただよいそめて、今にも牛乳屋の車がガラガラ通りそう、お江戸は今、享保《きょうほう》何年かの三月十五日の朝を迎えようとしている。
巻紙をにらむ左膳の眼ったら、まさに非常時そのものです。
とうとう、書いた。
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「萩乃殿――唐突《とうとつ》ながら、わすれねばこそ思いいださず候《そろ》」
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こいつはどこかでみたような文句だ。ちょいと借用したんです。
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「かわいいかわいいと啼く明《あ》け烏《がらす》に候《そろ》」
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これは自分ながら上出来だと、左膳、ニヤニヤしたものだ。
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「鳴く虫よりも、もの言わぬ螢がズンと身をこがし候《そろ》。さて、小生こと明日《みょうにち》出発。埋蔵金を掘りにまいる所存、帰府のうえ、その財産をそっくり持参金として、おん身のもとへ押しかけるべく候《そろ》。たのしみにしてお待ちあれ。頓首《とんしゅ》頓首」
[#ここで字下げ終わり]
これだけの文句です。アッサリしたもの。しかしどうもあきれたものだ。支離滅裂……右の腕も右の眼もなく、傷だらけのところは争われないもので、はなはだ筆の主左膳に似ていると申さなければなりません。
左膳らしい恋文。ブッキラ棒で、ひとり飲みこみで、何がなんだかわからない。
唐突ながら――と冒頭《はな》に自分でもことわってるとおり、いかにも唐突。
これを受けとった萩乃さんは、どんなにおどろくことでしょう。二度よみかえして、ふきだしてしまわなければいいが。
たのしみにしてお待ちあれ……ナンテ、冗談じゃない。誰が楽しみにするもんか。
だがその左膳は大得意、
「うむ、われながら会心の出来だテ」
と、声にだして言いました。
そして、この手紙を見て、萩乃が胸をとどろかすであろう場面を想像して、左膳の胸もときめき、また、思わずあかくなった。ほんとに、かわいいところのある左膳、一生けんめいに書いたんですもの。
しかし、これで見ると左膳は、その柳生の埋宝を掘りだしたうえで、そいつをそのままかかえて司馬道場へ、入り婿に乗りこむ気とみえる。ますますもって容易ならぬ考えを起こしたものだ。
けれども。
そうなると、あの伊賀の暴れン坊、柳生源三郎との正面衝突は、まず、まぬかれぬところ……さっき萩乃の部屋の押入れの中で、ソッと聞けば、源三郎はもはやなきものだといったが――事実か?
左膳、源三郎を思いだして、その生死を案じわずらい、急にあわてだした。
「死んだ男《やつ》から、女をとるなんてエのは嫌だなア。おい! 源三! おれがブッタ斬るまで、頼むから生きててくれよ」
と、胸のなかで大声に……。
七
苦笑をつづけた左膳、なおも心中ひとりごとをくりかえして、
「お前《めえ》が死んで、そのおかげで萩乃をもらうなんてのは、どう考えてもおらア虫がすかねえ。なあおい、伊賀のあばれん坊ッ! おれの手にかかって生きのいい血をふくまで、後生だから生きていてくれよ。お前《めえ》の命は、この濡れ燕があずかってるんだぜ。それまでア大事《でえじ》なからだだ。粗末にするなよ」
剣につながる、一種の殺伐な友情ともいうべきか、敵味方を超越したふしぎな感懐が、こんこんとして泉のごとく、左膳の心に……。
「あの源三郎を殺《や》っつけることのできるやつあ、このおいらのほかにゃアねえはずだ」
しばらく考えたのち、やっと安心した体《てい》で、
「あの源三が死んだなどと、ちゃらっぽこにきまってらあナ」
あたまの中で、大声にどなった左膳。
とにかく手紙はりっぱに――あんまりりっぱでもないが……書けたんですから、明るくなるのを待って角のポストへ入れに行こうと――イヤ、ポストじゃない、チョビ安をたたき起こして、妻恋坂へ持たしてやろうと、左膳はありあけ行燈の灯かげに、ニッとほくそえんだ。
そして。
天井までとどけと、ニュッと両手を突きあげて、大きな欠伸《あくび》をしました。オット、ひだり手だけです。左膳に両手があっちゃア話はめちゃめちゃだ。
それにしても。
人が両手を突っぱってあくびするところを、片手でやるんですから、なんだか信号のようで、変な欠伸《あくび》の恰好《かっこう》だ。
そんなことはどうでもいい。
さて――。
これからソロソロこけ猿の茶壺をあけにかかろう……と、左膳は舌なめずりをして、横に置いてある壺のほうへ、膝をむけなおしました。
いよいよ壺の秘密があかるみへ――!
数百年をへた地図には、はたしてどこに財宝《ざいほう》が埋《うず》めてあると書いてあるだろう?
中国《ちゅうごく》か、山陰《さんいん》か、甲州路《こうしゅうじ》か。それとも北海道? 満洲《まんしゅう》? ナニそんなところのはずはないが、江戸でないことだけはたしかです。
どことあっても左膳は、これからすぐ旅ごしらえ、濡れつばめを供に、かわいいチョビ安の手を引いて、発足する気でいるんだ。
左手《さしゅ》が、一番上の風呂敷にかかった。ばらり、むすびめがほどける。
いつの世、いずくの世界でも、人をして真剣ならしむる我利物欲……そのとほうもない莫大な財産が、人に知られずどこかの地中に眠っている。おまけに、今それには、柳生一藩の生死浮沈がかかり、この江戸だけでも、何十人という人間が、眼の色かえてこの壺を、いや、壺の中の秘図を必死にねらっているのだ。
古今をつらぬく黄金の力――剣魔左膳の一眼に、異様な光が点じられた。
柳生の先祖の封じこめた埋宝箇処は、いまその左膳の左眼に読みとられようと、壺の中で、早く早くと、声なくあせっているように感じられる。
夜の引き明け前には。
一度、深夜よりも森沈《しんちん》と、暗くものすごく、夜気の凝《こ》る一刻があるという。
今がそれだ。
気をつめ、呼吸をはずませて、箱から壺を取り出す左膳の横顔に、魔のごとき鬼気がよどんで、黒くゆがんで見えるのは、眉から口へかけての刻んだような一本の刀傷。
壺には、チャンと紅《あか》い絹紐のすがり[#「すがり」に傍点]がかかっています。その、網の目をとおしてのぞいている、壺の肌のゆかしさ! 美しさ!
さすがに伝来の名器だけのことはあると、左膳がその品格にうたれた時です。
暁の風に乗って、遠く近く、あれ! 半鐘の音が……。
八
「あら、お前さん、火事だよ」
とお藤が言った。夜具から首を伸ばして左膳を見た。
「うん、どうやら火事らしいナ」
左膳は生返事だ。
それどころではないのである。
すがりの網を片手でぬがせて、しずかに壺をとりだしている。
朝鮮古渡りの逸品《いっぴん》だけに、焼きのぐあいがしっとりとおちつき、上薬《うわぐすり》の流れは、水ぬるむ春の小川……芹《せり》の根を洗《あら》うそのせせらぎが聞こえるようだと申しましょうか、それとも、雲とさかいのつかない霞の中から、ひばりの声がふってきて、足もとの土くれが陽炎《かげろう》を吐いている――そののどかなけしきのなかへ身も心もとけこむような気がする……。
とでもいいましょうか。
とにかく。
今このこけ猿の壺を眼の前にして、じっと見つめていると、その作ゆきといい、柄《がら》といい、いかさま天下にまたとあるまじき名品。
夢のごとき気を発散して、みる者をして恍惚《こうこつ》とさせずにはおかないのです。
左膳のような、人斬り商売の武骨者にも、そのよさはわかるとみえまして、彼は、
「ウーム、こうごうしいものだなあ。これだけ人騒がせをしておきながら、イヤに平気におちついていやアがる。フン、なんとも癪《しゃく》な代物《しろもの》だが、ちょっと怖《おっか》なくて手が出せねえような気がするぜ」
例《いつ》になく左眼をショボショボさせて、口の中でつぶやきましたが、これはこの時の左膳の正直な感想でしたろう。
半鐘の音は、大きく、小さく、明け方の江戸の空気をゆすぶって、静かな池へ投げた小石の波紋のように、ひたひたと伝わってまいります。
「なんだか近いようじゃないか。ちょいと横町へ出て見て来ておくれよ」
ごそごそ起き出たお藤。寝巻に細帯をまきつけながら、じれったそうな舌《した》打ち。
「なんだね、いつまでそのうすぎたない壺と、にらめっくらをしてるんですよ。ジャンと鳴りゃ駈け出すのが、江戸の男だわさ」
左膳はそれも耳にはいらぬようすで、
「イヤ、あらたかなもんだ。外から拝《おが》んでいたんじゃアきりがねえ。どれ、そろそろ中身を拝見するとしようか」
ひとりごちつつ、壺のふたに手をかけた。
なるほど。
耳こけ猿という銘のとおりに、壺の肩《かた》に三つある小さな耳のひとつが、欠けている。この中に、日光御修営を数限りなくひきうけてもビクともしない大財産と……イヤ、今は一藩の生命とが納《おさ》められているかと思うと、この大名物がひとしお重々しく、ありがたく見えるのもふしぎはない。
その、左膳の手が壺の口にかかったのと。
かんしゃくを起こしたお藤姐御が、
「お前さん! 火事ですってのに、あの半鐘が聞こえないのかえ。男の役に、火の手がどこだぐらい見てきておくれよ」
と叫んだのと、同時だった。
おまけに。
「おい、ありゃアお前《めえ》、本所の三つ半《はん》じゃアねえか。近そうだぞ」
「辰《たつ》のやつア走りながら刺子《さしこ》を着て、もう行っちめえやがった。早《はえ》え野郎だ」
「いま時分また、なんの粗相で……」
「ワッショイワッショイ、火事と喧嘩ア江戸の花でえ」
「アリャアリャアリャ!」
まるでお捕物《とりもの》みたような騒ぎ、
「他人《ひと》の家が焼けるんだ。こんなおもしれえ見ものアねえや」
なかにはけしからんことを言うやつもある。尺取り横町の連中が、一団になってもみあいヘシ合い、溝板《どぶいた》を踏みならして行く。
左膳は、壺へ掛けた手をそのままに、きっと戸外《そと》へ耳をやった。
九
チョビ安が眼をさまして、床《とこ》の中から、
「父上! 火事ですね」
と、イヤにのんびりとして言った。
いったいこのチョビ安という子供は。
ふだん何ごともない時には、いつも駈けたり跳ねたり、つまずいたり、たんか[#「たんか」に傍点]をきったり、とても騒々《そうぞう》しいあわてん坊で、一人で町内をさわがしているんだが。
今のように。
いざ地震、雷、火事、おやじ……もっとも、このチョビ安の父親《おやじ》は行方《ゆくえ》知れずで、それで左膳を仮りの父と呼んでいるわけだが――一朝、こういうあわてるべき場合に直面すると、逆に、変にのどかになっちまうのが常で。
皮肉な小僧だ。
「火には水という敵《てき》があります。もえてえだけもえりゃア消えやしょう。下拙《げせつ》はいま一ねむり……」
そんな洒落《しゃら》くさいことを言ってまた向うむきに夜着をひっかぶってしまった。
自分のことを下拙《げせつ》などと、これが七、八つの子供の言い草《ぐさ》ですからイヤどうも顔負けです。
壺のふたを持ちあげかけた左膳の手は、そのまましばらくとまっていたが、
「おい、安公! 餓鬼ア雀《すずめ》ッ子といっしょに起きるものだ。や
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