」
「え? その壺のなかの紙片に――?」
「どこと書いてあるか知らねえが、その紙ッきれにしめしてある場処へ、おらア、ある物を掘りに行かなくっちゃアならねえのだよ」
くすりと、ゆがんだ笑いをもらしたお藤、そっぽを向いて、
「……とかなんとか、うまいことを言ってるヨ。だがね、ほんとにこのあたしが嫌になって、それで家を出て行くんでなければ、あたしがくっついて行ってもかまわないだろう? え? 虫のせいか知らないけど、あたしゃ因果と、お前さんが好きでたまらないのさ。どんなにじゃまにされたって、あたしゃどこまでだってお前さんにへばりついて行くから、ホホホ、大きな荷物をしょいこんだつもりでネ、その覚悟でいるがいいわサ」
「いや、お藤、これ、お藤どの」
左膳はいささか、持てあまし気味で、
「くしまきの姐御ともあろうものが、そんな小娘みてえなことを言うのア、うすみっともねえぜ。実もって今度の旅は、足弱をつれていっていいような、そんななまやさしいものじゃアねえんだ。まったく、伊賀か、大和か、それとも四国、九州のはてか、どこまで伸《の》さなくっちゃならねえか、この壺をあけてみねえうちは、誰にもわからねえのだからなア」
「フン、その壺はお前さん、前にあのつづみの与の公が、品川の柳生源三郎の泊りとかから、引っさらって来た壺じゃアないか。そんなきたない壺一つが、いったいどうしたというんですよ。もったいをつけないで、早くあけてみたらいいじゃアないか。何もそのうえの相談サ」
言いながらお藤、左膳が突然この家をはなれるときいて、嫉妬と悲しみにくるってヒステリカルになっている心中で、そんなら、この壺さえなかったら、恋しい左膳をいつまでも自分のもとにとどめておくことができるのだナ、と、ひそかに思いました。
蛇になった女もある。まことに、恋ほど恐ろしいものはございません。
三
「ウム……」
と左膳は、軽くうなずいて、
「壺中の小天地、大財を蔵《ぞう》す――あけてみるのが楽しみだな」
ヒタヒタと壺の箱をたたきながら、
「だが、あければすぐ、その埋蔵物を掘りに行くという、苦難の仕事が始まるのだ。日本のはて、どこの山奥までも、ただちにおもむく、……してまた、その財宝を手に入れるまでに、この濡れつばめは何度人血をなめねばならんことか。ウフフ、働いてくれよ」
いささか憮然《ぶぜん》たる面持ちで、左膳は、ひだりの膝がしらに引きつけた長刀《ちょうとう》、相模大進坊《さがみだいしんぼう》の柄を按《あん》じて、うすきみのわるい含み笑いをしました。
そして、何ごとか思いさだめたふうで、
「イヤ、壺をひらいてしまえばそれまでだ。ひらくまでが、たのしみなのだ。なかなかあけねえところに、そのたのしみは長くつづく」
お藤はあっけにとられた顔で、
「なにを酔狂《すいきょう》なことを言ってるんですよ。唐人《とうじん》の寝ごとみたいな……じゃ、あたしゃ先に寝ますよ」
なにげなさそうに言って、しどけなく帯をときながら、ユラリと起ちあがったが。
そのお藤の胸中には。
はや一つの思いきった考えが、ちゃくちゃく形をとりつつあったので。
男には、恋は全部ではないかも知れない。
だが、女には、恋こそはその全生命、全生活なのです。だから、恋のため……ことに、かなわぬ恋のためには、なんでもする。とくに、お藤のような性格の女は。
と、そのとたんだった。ちょうど彼女が、何をいってるんですよ、唐人《とうじん》の寝ごとみたいな――と言った時。
まるで、それにヒントを得たかのように、部屋の片隅にねむりこけるチョビ安が、ハッキリした声で、寝ごとをいいました。
「お美夜ちゃん、お美夜ちゃん!――お前はどうしている。おいら、こうしていても、おめえのことばっかし思ってるぜ。オイ、お美夜ちゃん……」
子供に、恋慕のこころはありますまい。ただの友情ではあろうが、はげしくお美夜ちゃんをおもう気もちが、いまこの寝ごととなって、チョビ安の口を出たのです。
たった一声。
あとは何やらムニャムニャと、眠りながら笑っているのは、夢は荒れ野を駈けめぐり……じゃない、夢はとんがり長屋へ帰って、お美夜ちゃんに会っているに相違ありません。
その、チョビ安の寝ごとを聞いたときに、お藤姐御の胸は、しめつけられた。
思わず、ホーッともれる長いためいき――。
「あああ、子供でさえも、思う人のことを、あんなに、夢にまで口に出すのに……ほんとににくらしい情《じょう》なしだ」
浴衣《ゆかた》をかさねた丹前の裾に、貝細工のような素足の爪をみせて、凝然《ぎょうぜん》とたちすくんでいる櫛巻お藤、艶《えん》なるうらみをまなじりに流して、ジロッと左膳の君を見やりますと。
左膳はそれも聞こえないのか。
知らぬ顔の半兵衛で、長火鉢の猫板に巻紙をとりだし、硯に鉄瓶のしたたりを落として、左手で墨をすりはじめている。
床へはいったお藤は、胸に一|物《もつ》ございますから、ねるどころではありません。すぐさま、わざとスヤスヤと小さないびきを聞かせて、薄眼をあけ、じょうずな狸寝入り。
見られているとも知らず、左膳、口に筆をかんで、いやに深刻な顔で巻紙をにらんでいる。どこへやる文やら、寒燈|孤燭《こしょく》のもと、その一眼は異様な情熱にもえて――。
四
おらァ、女にいちゃいちゃするのが、大嫌《でえきれ》えだ。これが一つ……と数えたてて、左膳、あの門之丞を斬ってすてたのですけれど。
また。
こんなに真実をつくす櫛巻の姐御を、いっしょに住んでいて見向きもせず、はたの見る眼もいじらしいほど、振って振りぬいていた左膳だが。
かれといえども、べつに木製石作りというわけじゃアない。
くしまきお藤のようなタイプの女は、左膳の性にあわない。好みじゃないというだけのことで――では、どんなのが左膳の理想のおんなかといえば。
なにも理想のどうのと、そうむずかしく言うにはあたらないが、あの司馬道場の萩乃、ああいうのこそ、女の中の女というのだろうなアと、左膳、さっき月にぬれて帰る途中から、ふっとものを思う身となってしまったのです。
萩乃様を?
この丹下左膳が?
恋してる?
イヤどうも妙なことになったもので、萩乃の迷惑が思いやられますけれど、しかし、まったくのところ、どうもそうらしいんですからやむをえません。
左膳だって、惚《ほ》れたの腫《は》れたのという軽い気もちではないのだ。
さっきあの寝間ではじめて会ったときは、そうも思わなかったのだが、壺を小腋《こわき》に道場を出て、ブラブラ帰るみちすがら、あの茫然《ぼうぜん》と見送っていた萩乃の立ち姿は、左膳のまぶたのうらから消えなかった。いや、消えないどころか、それは、彼が強い意思でもみつぶそうとするにもかかわらず、だんだんはっきりした形をとって、今はもう、拭《ぬぐ》うべくもなく胸の底にやけついているのです。押入れのすきまから、そっとのぞいているとも知らず、机の上に二つの博多人形をくっつけて置いていた萩乃……。
あの、門之丞があらわれた時、おどろきのうちにも毅然《きぜん》として、ああして理のたった言葉でたしなめた萩乃――あれほどの強い、正しい、美しい女性を見たことがないと、左膳はスッカリ感心してしまったのだ。
その感心を胸にだいて帰る途中、月にいろどられ、夜のいぶきにそだてられて、いつのまにか恋ごころに変わったのを、左膳、自分でもどうすることもできませんでした。
「壺を持って出てくるおれを、白い顔に大きな眼をみはって、ジッと見送っていたっけ……」
筆の穂尖に墨をふくませながら、左膳は今、口の中にうめいた。
夜風とともに、恋風をひきこんじまった丹下左膳。
恋の奴《やっこ》の、剣怪左膳――。
左膳の妖刃、濡れ燕も、糸《いと》し糸《いと》しと言う心……戀の一字のこころのもつれだけは、断ちきることができないでございましょう。
イヤどうもとんでもないことになっちゃった。たった一つの眼も、恋にくらむとは、えらいことになるもので。
萩乃さんの身にとっては、門之丞という一難去って、また一難。虎が躍《おど》りでて、狼をかみころしてくれたのはいいが、こんどはその虎が、爪をみがいて飛びかかろうとしているようなもの……。
ですけれど。
恋にかけては、とっても内気の左膳なんですネ。
「なんと書いたらいいものだろうなア」
くちびるに墨をぬりながら、またつぶやいた。
これでみると、左膳のやつ、さっそく萩乃のところへ、手紙《ふみ》をやろうとしているらしい。
かたわらで、こけ猿の茶壺が、早くあけてくれ、早くあけてくれと、声なき声を発するがごとく――。
五
左膳、萩乃に心をとられて、せっかく手に入れたかんじんかなめのこけ猿を、たとえ一瞬時でもわすれたわけではございません。
それじゃア普段の左膳が泣く。
濡れ燕が、承知せぬ。
決してそういうわけじゃないんです。
ただ……さんざん世話をやかせた壺だけれど、壺に足があるわけではない。現実に、ここにこうして存在してるんだから、べつに逃げだしはいたしません。あけようと思えば、今にもあけて見られるのだから、あえていそぐにはあたらない。
まず、萩乃に一筆したためてから、ユックリあけてみるとしよう。見るまでの楽しみは大きいんですから、できるだけそのたのしみを長くしようという考え。
なんのことはない。
好きなお菓子《かし》をいただいたこどもが、すぐかぶりつけばよさそうなのに、なかなか食べないのと同じような心理で。
それよりも。
この壺の秘める密図の指示するところにしたがって、東西南北いずれにせよ、どっちみち明朝《あした》早く江戸を発足するのだから、もう当分、萩乃に会えない。
それを思うと左膳、がらにもなくちょっと暗然としちまうんです。
で。
また会う日まで……なんていうと、讃美歌みたいですが、とにかく左膳、なんとかしてあの萩乃様へ、今この心のたけを書き送っておきてエものだと――。
剣を持たせれば変通自在、よく剣禅一致ということを申しますが、わが左膳においては、剣もなく禅もなく、いわんやわれもなく、まったく空気のような、色もにおいも味もないほどの、武道の至妙境に達した男でありますが。
文《ふみ》はまた別。おまけに恋文。
「チッ!書けねえもんだなあ」
と、煙突掃除みたいな大髻《おおたぶさ》のあたまをかかえて、長火鉢の猫板に左膳の肘を突き、筆といっしょに顎をささえて一つッきりの眼をしかめ、ウンウンうなってるところは、まことに珍妙な図。
まったく、どなたかに助けに飛びだして、書いていただきたいくらいのもので……しかし、丹下左膳のやつが、ラブレターを書く身になろうたア思わなかった。
わからないもンですネ。
「ウッ、汗をかくだけで、一字も書けねえや」
剣妖、われながらつまらない洒落《しゃれ》をいった。
とたんに。
「何をお前さんウンウンうなってるんだい。お腹《なか》でも痛むの?」
ねてると思ったお藤姐御が、ムックリ枕から頭をあげて、皮肉なひとこと。
これには左膳も、不意の斬込みをくった以上にあわてて、
「ウンニャ、い、一首浮かんだから、わすれねえうちに書きとめておこうと思ってナ」
「オヤ、火鉢のひきだしに、一|朱《しゅ》あったのかえ」
「ナ、何を言やアがる。寝ぼけてねえで、早くねむっちめえ、ねむっちめえ!」
「お前さんも早くおやすみよ。油がむだだわサ」
お藤はそのまま、くるりと暗いほうを向いたが――ドッコイ、ねむってなるものか。
おんしたわしき萩乃どの……左膳は一気に、ぬれ燕ならぬ濡れ筆を、巻紙へ走らせたが、すぐ、
「まずいなア」
と一本黒々と線をひいて、そいつを消してしまった。
「ちえっ、若旦那のつけ文じゃアあるめえし――」
左膳、ひとりでてれて、かわいそうに、真っ赤になっています。
六
いつまでたっても、少女を感動させるような名文は、できそうもありま
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