師団長が来かかったように、ピタリ鳴りをしずめて、
「お! お帰りだ! お帰りだ!」
「先生のおもどりだぞ」
「御帰館《ごきかん》だ――」
 なんかと、なかには、ブルジョア用語を心得てるのもある。
 この声々が、口から口、耳から耳とリレー式に、たちまちのうちに路地口からトンガリ長屋の奥まで、ズーッと伝わっていくところは、壮観です。
 角に待つ連中は、声をひそめて、
「あれで、泰軒先生は、腕っ節のつええばかりが能《のう》じゃアねえんだ。学問ならおめえ、孔子でも仔馬でも、ちゃアんとあの腹ん中にしまってるんだから、ヘッ、豪勢なもんヨなあ」
「いつかも、人間はなんとかてエ七輪《しちりん》が大事だと、先生がおっしゃったぞ」
「馬鹿野郎! 七輪じゃアねえ。五|徳《とく》だ。仁《じん》義《ぎ》礼《れい》智《ち》信《しん》、これを五徳といってナ」
「なにを言やアがる。五徳ばかりあったって、七輪がなくっちゃアしょうがねえや」
「なにをっ!」
 と双方、肌ぬぎになりかけて、喧嘩になりそうだ。やっぱりどうも、トンガリ長屋です。
 それでも……。
 泰軒先生が近づくと、襟をかきあわせたり、袖口をひっぱったり、ある者は手に唾《つば》をして、小鬢《こびん》をなでつけたり、手拭で裾をはたいたり……イヤ、忙しく身づくろいして並んでるところへ、
「ウム、つぎは――、
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ちょいときくから教えておくれ、
あたいの父《ちゃん》はどこへ行《い》た
あたいのおふくろ……
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 と、これでええのかな?」
 泰軒先生|濁《だ》み声をはりあげて、お美夜ちゃんに、チョビ安の唄《うた》を習いながら、ブラリ、ブラリ、大道《だいどう》せましとやって来る。
「ほほほほほ、そこんとこの節《ふし》まわしが、ちがうわ。あ、た、いのウであがって、父《ちゃん》はアってさがるのよ。小父《おじ》ちゃんのは、それじゃ逆だわ」
「いや、なかなかむずかしいもンじゃのう。
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あたいのお母《ふくろ》どこにいる
じれったいぞエお地蔵さま
石が口ききゃ木の葉が沈む――」
[#ここで字下げ終わり]
「あらっ、だめ! ちがうわよ、ちがうわよ。それじゃアまるででたらめの文句だわ。いやな泰軒|小父《おじ》ちゃん! ほほほほほ」
「イヤ、こりゃア失敗《しま》った。またしくじったかの」
 秩父の郷士《ごうし》の出で、豊臣の流れをくんでいるところから、徳川の世を白眼ににらんでいる巷の侠豪、蒲生泰軒居士《がもうたいけんこじ》。
 肩をなでる合総《がっそう》、顔を埋める鬚《ひげ》と胸毛を、風になぶらせて、相変わらず、ガッシリしたからだを包むのは、若布《わかめ》のようにぼろ[#「ぼろ」に傍点]のさがった素袷《すあわせ》に、縄の帯です。たいていの貧乏にはおどろかない、トンガリ長屋の住人ですが、この泰軒の風体にだけは、上には上があるとホトホト感心している。
 ひやめし草履《ぞうり》をひきずる先生の横に、ちょこちょこ走りのお美夜ちゃん……稚児輪《ちごわ》の似あうかわいい顔で両袖かさねて大事そうに、胸のところにだいているのは、泰軒小父《たいけんおじ》ちゃんの一升徳利で。
 この奇妙な取り合わせの二人づれが、トンガリ路地へかかると、待っていた一同、ていねいにおじぎをして、あとからゾロゾロ、うやうやしくついてはいる。いやモウ、たいへんな尊敬……。

       三

「先生、うちの娘《むすめ》っこに、このごろ悪い虫がつきやしてナ、どうも心配でならねえのですが――」
 泰軒先生のあとから、長屋の連中が行列のようについて、ワイワイいって作爺さんの家へ送りこむんです。
 その群《む》れから、こういって声をかけた者がある。長屋のずっと奥にすんでいる、どこかの見世物小屋の木戸番です。
 泰軒先生は振りむきもせず、せまい路地に悠々《ゆうゆう》と足音を鳴らしながら、
「ホホウ、娘に虫がついた。恋ごろも土用干しせぬ箱入りのむすめに虫のいつつきにけむ……やはり、蚤《のみ》、虱《しらみ》の類でもあるかな?」
「へえ、もっと性《しょう》の悪い虫なんで。二本足の虫でげす」
「二本足の虫? それはめずらしい。後学のため、わしも見たいものだな。一度うちへよこしなさい。しかし、あんたも、そうはじめから悪い虫ときめてしまわんで、よくその虫を見ることだな。案外、娘さんにとっていい虫かも知れんでな」
「へえ、ありがとうごぜえます。どうぞ、その野郎を――イヤ、ソノ虫をつかわしやすから、とっくりごらんなすってくだせえまし」
 これじゃアまるで昆虫学みたいだが、こうやって泰軒先生は、この長屋の人事相談いっさいを引き受けているかたちだ。
「先生ッ!」
 と叫んで、通りかかった家の中から、髪をふりみだした女房がかけでてきた。
「ア、くやしい! 先生、あたし、どうしたらいいんでしょう。うちの亭主野郎ったら、悪所通いばっかりして、もうこれで三|日《か》も家へよりつきません。ほんとにほんとに、帰ってきたらどうしてやろうか……」
 泰軒はニコニコして歩きながら、
「あははははは、お前さんはホンノリ化粧でもして、酒の一本もつけて、いつでもあったかい飯《めし》をたけるようにしたくして、亭主野郎の帰りを待つんだナ」
「まあ、馬鹿馬鹿しい! そんなことができますか。ほんとに嫌だよ。男はみんな男の肩をもってさ。先生も男なもんだから、そんなことをいうんですよ。男ってどうしてそうかってなんでしょう」
「いや、そうでない。そうしているうちに、宿六の浮気がとまる。うちへも一ぺんよこしなさい。酒でも飲みながら、ゆっくり話そう」
 ほかの一人が、泰軒のうしろに追いついて、
「先生、すみませんが、あとで手紙を一本書いてもらいてえんで」
「よろしい。あとで来なさい」
 先生が作爺《さくじい》さんの家へはいるまで、長屋の連中ははなしません。どぶ板のこわれたのから、猫の喧嘩まで一々先生のところへ持ちこんでくる。泰軒はまた、めんどうがらずに、かたっぱしからその始末をつけてやるんです。
 戸口のところで、長屋の人達と別れた泰軒は、しずかに作爺さんの家へあがった。壁は落ち、障子はやぶれて、見るかげもない部屋に、作爺さんこと作阿弥《さくあみ》は、垢じみた夜着をきて寝ている。
 病気なんです――もうずいぶん長い間。
「御気分はどうじゃな、作阿弥《さくあみ》どの」
 そういって泰軒は、まくらもとにすわった。そして、いま買ってきた何やら木の実のようなものを薬研《やげん》に入れて、ゴリゴリていねいにくだきはじめました。
 お美夜ちゃんはそのそばに、しょんぼりすわっています。

       四

 どこが悪《わる》いというのでもない。
 いわば、老病というのでしょうか。それとも、からだの節々《ふしぶし》がいたみ、だんだん四肢《てあし》のうごきに不自由を感ずるところを見ると、今でいうリウマチとでもいうのかもしれない。
 作爺さんはもうこれで二、三ヶ月も、枕から頭があがらないのです。
 羅宇直《らうなお》しの稼業《しょうばい》に出られないのは、むろんのこと……なによりすきな、というよりも、イヤ、それはもう第一の本能といっていいほど、閑《ひま》さえあれば手にせずにはいられない馬の彫刻にも、モウ長いこと鑿《のみ》をとりません。
 作爺さん、それがさびしいらしい。たまらなくつらいらしい……。
 馬を彫らせては当代随一の作阿弥《さくあみ》――そういえば、いつかこの部屋で、隅にころがる半出来の馬のほりものを一眼見て、この老人の素姓を看破したのは、この蒲生泰軒だった。
 これだけの名人|作阿弥《さくあみ》が、どういうわけで羅宇なおしの作爺さんになりきって、曰《いわ》くありげな孫むすめお美夜ちゃんと二人っきりで、今このとんがり長屋にかくれすんでいるのか、その仔細はまだわからない。
 あるいは、泰軒は知っているのかもしれないが――。
 御気分はどうじゃナ……といった泰軒先生の問いに、作爺さんは重い頭をあげて、
「イヤ、至極良好、快方に向かいつつある――と申しあげたいが、ざんねんながら、いっこうにはかばかしからぬ。もうこれきり、鑿《のみ》を手にすることもかなわぬかと思えば……」
 もう作阿弥《さくあみ》ということを知られていますから、言葉つきも、長屋の作爺さんを捨てて、本来のままです。
「うわはははは」
 と泰軒は、わざと大声に笑いとばして、
「なんの大名人《だいめいじん》ともあろう人が、それしきの病に、そんな気の弱いことを」
 薬研《やげん》を摺《す》る手に、力を入れて、
「この稀薬《きやく》を手に入れたからは、病魔め、おそれいって退散するに相違ないテ」
 はたしてそんなにきく稀薬かどうかは知りませんが、泰軒、さっきお美夜ちゃんの手を引いて出て、なけなしの銭をふるって買ってきたんです。なんだか変てこな、どす黒いかわいたものだ。それを船型の薬研《やげん》に入れて、ごろごろ丹念に摺りつぶしている。
 お爺さんが病気なので、お美夜ちゃんはいじらしいほどおとなしい。両手を膝に、眼をまんまるにして、ひげの伸びた祖父の顔をジッと見つめたまま、チョコナンと枕もとにすわっています。と、不意に、
「チョビ安お兄《にい》ちゃんは、どこへ行ったかわからないのねえ」
 と、こどもながらも何かしら、しんみりした口調で申しました。
 蒲団からのぞいている作爺さんの顔が、痩せた笑いにゆがんで、
「お美夜や、安はわしらを見捨てたのじゃ。モウ戻ってこんのだから、お前もそういつまでも、チョビ安のことを言うんじゃない」
 と、悲しそうです。泰軒はチョビ安のことは知らないから、だまってゴリゴリをつづけている。
 みすぼらしい部屋に、ちょっと、暗い沈黙が落ちました。
 と、ちょうどその時です。誰やらおもての戸を、ドンドンドンとたたく音。
 長屋の者が、また悶着《もんちゃく》でも持ちこんできたか?……と、泰軒先生が眉をあげたとたん。
 ヒラリ! そとの路地から家の中へ、生《せい》あるごとく舞いこんできた一枚の紙片《かみきれ》――投げこんだ人はそのまま立ち去るらしく、しのぶ跫音が、いそいで遠ざかってゆく。
 泰軒があけてみると、紙には、ただ一|行《ぎょう》……。
「即刻御来駕を待つ――」
 誰からの投げ入れ文?

       五

「いや、ただいま使いをやりましたから、ほどなくまいりましょう」
 忠相《ただすけ》は、こう言って、その下《しも》ぶくれの柔和な顔をほころばせて、客を見た。
 桜田門外《さくらだもんがい》の、江戸南町奉行|大岡越前守忠相《おおおかえちぜんのかみただすけ》のお役宅《やくたく》だ。
 その奥座敷――。
 前の庭は闇にとざされて、植えこみの影が黒く黙している。
 が、室内には……。
 燭台の灯が明るくみなぎって、磨きぬいた床柱と、刀架けの蝋鞘《ろうざや》と、大岡様《おおおかさま》のひたいとを、てらてらと照らしだす。
「壺の騒ぎは、以前お話のありましたとおり、それとなく看視はしておりますが――」
 と言いかけて、忠相《ただすけ》はまた、相手へ眼をやった。
 客は。
 七、八つの子供ような、小さなからだに、六十あまりの分別くさい顔――それが、いかにもグロテスクな大きく見える顔で、おまけに、これだけは一生の荷の瘤《こぶ》を、背中にしょっているのは、言わずと知れた亀背の愚楽老人である。
 千代田の三助……垢《あか》すり旗本《はたもと》。
 お庭番という、将軍家直属の隠密《おんみつ》の総帥《そうすい》。
 八代吉宗公のかげの最高顧問です。
 白髪を、根の太い茶筅《ちゃせん》にゆい、柿《かき》いろの十|徳《とく》を着て、厚い褥《しとね》のうえにチョコナンとすわったところは、さながら、猿芝居の御隠居のようだ。
 額部《ひたい》に幾本もの深い皺《しわ》をきざみ、白い長い眉毛の下から、じっと忠相を見つめて、
「上様《うえさま》にも、ひとかたならぬ御心痛でのう」
 と、言った。
 野太《のぶと》い、よくとおる声だ。もの言う
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