左眼でじろりとにらむ。つかつかとこけ猿のほうへ寄る。動くと、魔のような風がさっさっと起こる。この浪人の影には、死神が笑っているに相違ない。
「待てっ!」
 やっと発音機能をとり返したように、必死にさけぶ門之丞の声に、丹下左膳はぶらりと立ちどまった。
 ギュッと顎をねじって、皮肉に笑っている左眼を、門之丞へ向ける。
「ナニ、待てとは――おれがこの壺をもらっていくのが、不承知か」
「いや、不承知というわけではないが……」
 と門之丞、変に気をのまれちまって、しりごむばかりだ。
「あなた様は、どうしてここへ――?」
 横あいから、一歩進み出た萩乃の問いに、左膳はヌラリとそのほうへむきなおって、
「や、これはお嬢様、そうきかれると丹下左膳、こそ泥のごとき真似をいたして、恥じいる次第だが……」
 鍋とかわったほんもののこけ猿は、この道場にあるに相違ないとにらんで、尺取り横町のお藤の家にチョビ安を残し、ひとり出てきた左膳、昼間のうちからこの屋敷へまぎれこみ、灯などをはこぶ宵のくちのどさくさに、早くから、この部屋の押入れにしのんでいたのだ。
「こいつが来たので、出場《でば》を失ったのだ」
 と左膳、一つきりの眼に、みるみる殺気が光って、
「手前《てめえ》、なんだな、今聞いていれば主をはかったな?」
 もの言うたびに、腰の大刀がゆれて、笑うごとくカタカタと鳴ります。

   白い虹《にじ》


       一

「汝《うぬ》ア、まさか助かろうたア思うめえな」
 左膳は、ぐっと顎を突きだして、門之丞を見た。
 その左膳の全身から、眼に見えぬ飛沫《ひまつ》のような剣気が、ほとばしり出て……萩乃は、何かしら危《あぶ》ない感じで、そっと雪洞《ぼんぼり》を、壁ぎわへ置きかえた。
 しばられたように、手足がすくんで、動こうとしても動けぬ門之丞。
 ジッと上眼づかいに、左膳のようすをうかがうと――!
 一つきりない左膳のひだり手の指が、まるで小蛇の這うよう……そろそろ、ソロソロと、右腰にさした豪刀の鯉口へ、かかってゆくではないか。
 萩乃は?
 ピタリと襖に背をはりつけて、手の甲を口に、眼を裂けそうに見ひらいて、立っている。
 殺気は室内に満ちみちて、柱も、畳も、机も、物すべてが、はッはッと荒い呼吸をしているようだ。
 脈動にうつる、ほんの一瞬前の静止。
 来る気だな!――と門之丞が思った時。
 グッと首をまげて突きだした左膳、あいている左の眼で、ニヤリと笑った。
 左膳にこの笑いがくると、危険だ。
 と、同時に。
 左の膝をすこし折ったかと思うと、眼にもとまらぬ疾《はや》さでくりだした一刀の柄、それを、鍔《つば》元を握って顔の前に立てるが早いか、舌の先で、目釘をなめ湿《しめ》している。
 門之丞から見ると……柄のかげに、左膳の顔が、低くおじぎをしているようで。
 だが。
 額《ひたい》ごしの左眼は、不動金縛りの力で、強く門之丞を牽制《けんせい》しながら、左膳、口をひらいた。
 木枯《こが》らしのような、がらがらした声。
「おれの[#「おれの」は底本では「おのれ」]きれえなことばっかりしておきながら、それで、斬られるのがいやだというんなら、そりゃアお前《めえ》、無理ってもんだぜ」
 変にねっとりした口調です。
 顔半分は、依然として笑っている。
「俺《おれ》アなア、第一に、人をだしぬくってことが大きれえなんだ。女のことになりゃア、主も家来もねえというんなら、それもよかろう。だが、お前《めえ》は、源三郎をだしぬいて、この女を口説《くど》きにかかったじゃアねえか。おらアそれが気にくわねんだっ!」
 こんなことを言っているあいだに、いつサッと斬りこんでくるか知れないと、門之丞、一刀の柄に手をかけて、ゆだんなく身構えながら、
「乞食浪人の説法、聞きたくもないっ! 早々《そうそう》に立ち去れっ!」
「だまって聞けエ。第二に、おれのきれえなことは、女を追いまわすことだ。それに、なんぞ、さっきからこの押入れン中で聞いていれば嚇《おど》かしたり、ペロペロしたり……みっともねえ野郎だっ! 言うこときかなけりゃア、チッ、面倒くせえや、なぜ斬ってしまわねえんだっ! おれアその、女にいちゃいちゃするのが、むしずの走るほど大《でえ》きれえでなあ。第三に、お前の面《つら》がどうも気にいらねえ――ウフフ、これだけそろっていりゃアおらアお前をバッサリやってもいいだろう。なあ、おとなしく斬らせてくれよ」
「こやつは狂人じゃ」
 門之丞がふっとつぶやいた刹那、たっ! と柄鳴りして、左膳、口に鞘《さや》をくわえると見えたとたん……一線の白い虹が、スーッと門之丞の胴を横切って走りました。

       二

 足を開き、身を八の字なりに低めた左膳。
 右から左へ薙《な》いだ左腕の剣を、そのまま空《くう》に預《あず》けて、その八の字を平たく押しつぶしたような恰好のまま――。
 夢にはいったよう、じっとしている。
 一道に悟入した姿の、なんという美しさ!
 伸びきった左手の長剣、濡れ燕、斬っ尖《さき》から肩まで一直線をえがいて微動だもせず、畳のうえ三尺ばかりのところに、とどまっています。
 この時の左膳の顔は、一芸の至妙境に達した者の、こうごうしさに輝いてみえました。
 落ちくぼんだ、蒼く澄んだほお……歯に刀の提《さ》げ緒《お》をくわえて、胸のあたりに、長い鞘が、ななめにぶら下がっている。
 かすかにあけた口から、ホッ、ホッと、刻むがごとく呼吸を整えて――そして、左膳、たった一つの眼もつぶって、まるで眠っているようです。
 と、こういうと、非常に長く経過したようですが、ほんの五秒、六秒もありましたでしょうか。
 門之丞は――?
 と見ると、さっきのとおり、右手《めて》を柄頭にかけて、立ったまんまだ。
 ただ――。
 眼をうつろに、あらぬかたへ走らせて、機械仕掛のように上顎と下顎をがくがくさせ、両ほおに、紫の色ののぼりそめたのは、どうしたというのでしょう。おや! 胴のまわりの着衣に、糸のような細い血の輪がにじみだして……。
 すると、です。
 左膳がガタガタと首をゆすって口にくわえていた提げ緒を、振り落とした。割れたところを真田紐で千段巻きにした鞘が、トンと畳を打つ。とともに、左膳はホーッと太い息、力をぬいて身を起こした瞬間!
 なんといいましょうか。呪いがとけたように、支柱《ささえ》がとれたように……立っている門之丞のからだが、大きく前後左右にゆらいで、たちまち、朽ち木をたおすごとく、斜め右にバッタリ倒れました。同時に、胴がパックリ二つに割れころがって、一時にふきだす血、血……。
 なアンだ、門之丞、とっくの昔に胴体を輪切りにされて、今まで、死んだまんま、ノッソリ立っていたんです。
 すえ物斬りの妙致が、うまくはま[#「はま」に傍点]ると、はずみで、こういうこともあるかも知れない。
 なんとかいう侍は、ひどく剣術《やっとう》のできる友達と喧嘩をして、スパッと首の斬られたのを知らずに、おでんやなんかで帰りに一ぱいやって、ウーイ、ああいい気持だと、家へ帰ってきた。そして、ただいま、と頭をさげる拍子に、首がコロコロところがり落ちて、はじめて斬られていたことを知って、おれはモウ死んだのかと急にあわてだしたというんですが、こいつはどうかと思いますね。
 もっとも、現代でも、よく似た話があるもので――ある方が、会社で上役と喧嘩をして、帰りにカフェーで気焔をあげて自宅《うち》へ帰ったら、速達がきていた。あすより出社におよばず……ここにおいてはじめて、ネックになったのかと、そぞろに御自分の首をなでてみたというんですが、ウー、ブルル! 縁起でもない話で、恐れ入ります。
「部屋をけがして、申し訳ない。あとしまつは、よしなに頼む」
 片隅にいすくむ萩乃へ、ジロッと一眼を投げて、左膳、廊下へ出た。
 その腋《わき》の下には、こけ猿の茶壺が、ガッシとかかえこまれて。
 お蓮様の寮で、源三郎も、まごうかたなきこけ猿を手に入れたはず。
 ハテふしぎ!……こけ猿の壺は二個あるのか?

   文殊《もんじゅ》の智恵《ちえ》


       一

「おい、おめえ見たか。おらア先生が、肌脱ぎになって水をくみこむところを見たが、肩なんかお前《めえ》、松の根っこみてえだぞ」
「何言ってやがんでえ。いつも横町のおかめ湯で、先生の背中を流すのは、このおれ様だってことを知らねえのか。先生の背中は、四畳半もあらア」
 それじゃアまるで鯨だ。
「余の者《もん》がこすったんじゃア、蠅《はえ》がすべってるほどにも感じねえというんで、こちとら真っ赤になってフウフウいって流すんだが、イヤまったく巌《いわ》みてえなからだだよ」
「へええ、頭《かしら》の力でも、そうですかねえ。なんだそうでげすナ。小さな長屋の柱のまがったのなんざあ、あの泰軒先生が一つ腰を入れて、グンと押すと、しゃっきり立てなおるってえじゃアげえせんか。いや、なんにしても、えらい御仁《ごじん》があったものだ」
「この長屋の王様だあね。いやもう、とんがり長屋の名物どころじゃアねえ。とんがり長屋の泰軒さまといえア、江戸の名物だ。モウ、とんがり長屋てえのを、泰軒長屋とかえてもいいや」
「泰軒長屋か。ほんとだ。何か事がありゃア、あの先生を押し出しゃあ即座にピタと鎮《しず》まろうてもんだから、豪気《ごうき》なもんよなあ」
「いっそ心強えや。オウ、みんな、泰軒様を大事にしなくっちアいけねえぜ」
 うす陽の街上《まち》に、小さな旋風《つむじかぜ》が起こって、かわいた馬糞の粉が、キリキリと縒《よ》り糸のようにまっすぐに、家の庇《ひさし》ほども高く舞い立っています。
 ここは、あさくさ竜泉寺町《りゅうせんじまち》、とんがり長屋の路地口。
 灰屋《はいや》、夜《よ》かご、祭文語《さいもんがた》り、屑拾い、傘張り、夜鳴きうどんなど、もっとも貧しい人達がこのトンネル長屋にあつまって、いつもその狭い路地には、溝泥《どぶどろ》の臭気と、物のすえたしめっぽいにおいとともに、四六時中尖った空気が充満して、長屋の住民はどれもこれも、みんな貧《ひん》ゆえのけわしい顔――。
 亭主は亭主同士のいがみあい、山の神は井戸端会議の決裂、餓鬼は餓鬼で戦争のようななぐりあい、なんだかんだと夜昼喧嘩口論のたえまはなく、長屋中いつ行ってみても、眼をとがらし、口をとがらし、声とがらしているところから、誰いうとなく、人呼んでとんがり長屋。
 この、名所図会にない浅草名所とんがり長屋に。
 さきごろから、変わり種が一つふえた……というのは。
 あの羅宇直しの作爺さんの家に、蒲生泰軒《がもうたいけん》というたいへんものが、ころげこんでいるんです。
 いつか――。
 チョビ安の預けていった壺の箱をねらって、峰丹波一派の者が、この作爺さんの家へ押しこんだことがあった。そこで、箱のふたをあけてみると、内容《なかみ》は、左膳の計略で壺にはあらで、隅田川《すみだがわ》の水に洗われたまるい河原の石……いずれをいずれと白真弓《しらまゆみ》と、左膳がその石のおもてに一筆ふるってあったのは剣怪ちかごろの大出来だったが、憤慨したのは司馬道場の弟子どもで、かわりに、作爺さんの孫、お美夜ちゃんをさらっていこうとひしめいているところへ、どこからともなくブラリとあらわれて、侍たちを追っ払ってくれたのが、この泰軒居士であった。
 いつだって、どこからともなくフラッと現われるのが、泰軒先生の便利なところなんだ。
 今も今で、こうして長屋の連中が角に立って、ワイワイ先生のうわさをしていると……。
「向うの辻のお地蔵さん、よだれくり進上、おまんじゅ進上――ハッハッハ、どうじゃ、なかなか堂に入ったものじゃろう」
 変な唄歌《うた》が、通りのほうから……。

       二

 たいしたもんですね、泰軒先生の人気たるや。
 そう、遠くのほうから、チョビ安作、親なし千鳥の唄をうたってくる先生の声が、聞こえると、路地にガヤガヤしていた長屋の一同、兵隊さんがさわいでるところへ
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