を言いかけます以上は、その罪万死にあたることはよく承知しております。しかし――しかし、萩乃さま、人間命を投げだせば、何もこわいものはござりませぬ。ハハハハハハハ」
通せんぼうのように両手をひろげて、その笑いは、もうまるで怪鳥の啼き声のよう……あわれ脇本門之丞、痴欲《ちよく》に心狂ったかと見えます。
一歩一歩、萩乃は、夜具蒲団の裾のほうへと、さがりながら、
「大声をたてて、人がまいっては、あなた様のお身の上も、ただではすみますまい。どうぞ、早々《そうそう》にお引取りを」
「人が来る前に、割腹して相果てます」
「まあ、ほほほ、お冗談ばかり。仮りにも武士たる者に、さようなお安い命はござりませぬはず」
「一人では死なぬ。一刀のもとにあなたを斬り捨てて、腹|掻《か》ッさばくのだ」
「ほほ、ほほほほ、それではまるで下司下人《げすげにん》の相対死《あいたいし》に……いいえ、無理情死とやらではござりませぬか。両刀を手挟《たばさ》むものが、まあ、なんという見ぐるしいお心根――」
「イイヤ、イヤ! 下司下人《げすげにん》はおろか、畜生といわれてもよい! 犬でもよい! 犬だ。そうだ、門之丞は犬になりましたぞ萩乃様」
ハッハッと火のようにあえぎつつ。
「いかにも、われながら犬だと思う。だが、浮き世の約束、身分の高下を、すっかりとりのぞいてしまえば、男はみんな犬のようになって、女をほしがる。うわはははは、それでいいのだ。して、この門之丞というあたら侍を犬にしたのは、誰だ? みんな萩乃さま、あなたではないか! あなたのその星のような眼、その林檎《りんご》のようなほおが、この門之丞を情痴の犬にしてしまったのだッ!」
そのころ、林檎があったかどうか知りませんが、とにかく門之丞、美文をつらねだした。
はじめは、言論をぬきにし、直接行動におそいかかろうともくろんだのだが、美しいがうえにも毅然《きぜん》たる萩乃の威に気おされて、こんどは門之丞、あわれみを乞うがごとくに、トンと膝をついてうなだれた。
「萩乃様、錦につつまれた不自由よりも、あの青空の下には、あなたの今おっしゃった下司下人《げすげにん》の、ほがらかな巷《ちまた》の生活があります。どう送っても一生です。萩乃さまッ! 今宵ただいま、この門之丞といっしょに逃げてはくださらぬかっ」
「サ、今にも源三郎さまが、お帰りになりましょう。あなたのおためです。早く此室《ここ》をお出になってください」
「フン! 知らぬが仏だ。その源三郎は今ごろ、一寸試し五分だめし、さぞ小さく刻まれていることでござろうよ」
「エエッ?」
仰天した萩乃の胴から、その時、なんのはずみか、サラサラと帯が空解《そらど》けて――。
この面《つら》が看板《かんばん》だ
一
手も加えずに、立ったまま帯が解《と》けるとは、なんの辻占《つじうら》?
空《そら》解けの帯は、待ち人……源さまきたるの先知らせか。
それなら、吉《きち》。
吉も吉、門之丞にせまられるこの場にとっては、大々吉《だいだいきち》。
だが――。
もしかすると、源三郎様のお身の上に、ひょんなことでもあって、その虫のしらせでは?
吉か、凶か。
と、萩乃の胸は、百潮千潮《ももじおちしお》の寄せては返す渚《なぎさ》のよう……安き心もあら浪に、さわぎたつのだった。
解《と》け落ちた帯は、はなやかな蛇のように、サラリとうねって足もとの畳に這っている。
帯とき前《まえ》のしだらない己《おの》が姿。ひらいた襟のあたりの白い膚にくいいるがごとき門之丞の視線を知った萩乃は、手早く拾った帯のはしを巻《ま》きなおし、挟みこんで、ソソクサと胸かきあわせながら、
「言うに事をかいて、源さまのお身に変事などとは! 源様も、そちのような家臣《けらい》をもたれて、さぞおよろこびなされることでしょう。ひろい日本中に、源三郎さまに刃の立つ者が、一人でもいますか。お前が何を言っても、わたしは信じません。そんなことより、ここにこうしていては、後日の誤解の種です。わたしの迷惑は第二としても、伊賀の源三郎――いいえ! この司馬道場の主の臣を、こんなおろかしいことで傷つけたくはありません。もう、一番|鶏《どり》のなくころでしょう。鶏がなく前に出ていかなければ、ほんとうに大声をたてて人を呼びますよ」
若い娘の萩乃様の口から、こんなしっかりした言葉を聞こうとは門之丞、思わなかった。違算です。備わる貫祿に圧迫されて、彼は手も足も出ない。
手をかえた門之丞、声をひそめて、
「源三郎は、今ごろはもはや亡き者……だが、この儀については、多くを言いますまい。夜が明けたら、客人大権現《まろうどだいごんげん》の寮の、お蓮様と丹波のもとからしらせがあって、何ごとも分明いたすはず。それよりも萩乃さま、拙者はあなたに、ある一つの壺を献上いたそうと存ずるが、御嘉納《ごかのう》くださるでしょうな?」
萩乃は、いぶかしげに、小首をかしげて、
「壺とはえ?」
「は。源三郎殿が、伊賀より持ちきたったる――」
「あらっ! いま皆が大さわぎをしている、こけ猿とやらいう……」
「サ! そのこけ猿です!」
門之丞眼を光らして、
「丹波が、かの橋下の掘立小屋より、破れ鍋をかわりに置いて盗みださせたのを、拙者がまた、それと寸分違わぬ箱やら風呂敷を、ひそかにととのえて、この道場にある間にそっとすりかえたのです。それとも知らず丹波の一味は、あの、私の作った偽物の箱包みを、後生大事に持っていって、いま寮に、虎の子のようにしまいこんであるでしょうが、はッはッは――ただいま、お眼にかけます」
言いながら門之丞は、はいって来た障子のほうへあとずさりして、しずかにあけた。さっきここへはいる時、そとの縁に置いてきたものとみえる。
「すりかえてから、考えあぐんだあげく、故先生のあの大きな御仏壇の奥へ、押しこんでおいたのです。あそこなら、神聖視して誰も手をつけませんからナ。今、この部屋へ来る途中、ソッと取りだしてまいりました。ここにございます」
「まあ……!」
「へへ、へへ、これです。どんなもので」
と門之丞、言葉も手つきも、なんだか急に骨董屋《こっとうや》みたいになって、取扱い注意の態度《こなし》よろしく、萩乃の前へさげてきたのを見《み》ると!
なんと! 驚くじゃアありませんか。包んである布の味といい、木箱の古びかげんといい、これこそ正真正銘《しょうしんしょうめい》、ほんもののこけ猿の茶壺ではないか!
二
四つにむすんだ古布《ふるぎれ》のあいだから時代のついた木箱の肌を見せて、ズシリと畳にすわっている箱包みは……。
人でも、物でも、長く甲羅《こうら》をへたものは、一種の妖気《ようき》といったようなものが備わって、惻々《そくそく》人にせまる力がある。
今このこけ猿の茶壺を、萩乃がジッとみつめていると、名器から発散する言うべからざる圧力にうたれて、彼女は、声も出ません。
門之丞も、呼吸《いき》がせまって、無言です。
だまって、萩乃を見上げた。萩乃は立ったまま、眼をまんまるにして、壺の箱を見おろしている。
一瞬二瞬、空気は固化して、ふたりとも石像になったよう――身うごきもしません。イヤ、できません。巨大な財産をのむ名壺《めいこ》の魅縛《みばく》……これをこそ、呪縛《じゅばく》というのでしょうか。
このふるびた包み布をほどけば、年月によごれた桐の木箱。そこまでは、外からも見える。今その、十文字にかけた真田《さなだ》をといて、サッと箱のふたをとったとしましょうか。中にはもう一枚、金襴《きんらん》の古ぎれで壺が包んであるに相違ない。その色|褪《あ》せたきんらんを除くと、すがり[#「すがり」に傍点]といって、紅い絹紐であんだ網をスッポリと壺にかぶせてあることだろう。
さア、そこで、そのすがり[#「すがり」に傍点]を取るとします。そうすると、ここにはじめて、朝鮮渡《ちょうせんわた》りの問題の名品、耳こけ猿の茶壺が、完全に裸身をもって眼前に浮かびでるでしょう。薬の流れぐあいから、その焼きといい、においといい、まことに天下をさわがす大名物《だいめいぶつ》、きっと頭のさがるような品格の高い、美しい味のものにきまっている。で、その壺のふたをとると、なかに、莫大な柳生家財産の埋蔵個所をしめした一片の地図が、幾百年の秘密を宿し、この大騒動を知らぬ顔に、ヒラリと横たわっているのだ……。
萩乃は、一枚一枚着物を脱《ぬ》がすように、こうしてこの壺の包装を、一つずつとり去るところを心にえがいて、もうその壺のふたをとったように、胸がどきどきしました。
「あけてみましょうか」
といって、箱のわきにしゃがんだ。
「御随意に――」
かたわらで、門之丞は、にやにや笑っている。
「では……」
と、萩乃の手が、ふろ敷《しき》の結びめにかかった時だった。剣道修業で節くれだった門之丞の黒い手が、むずと、萩乃の白い手をおさえたのです。
「萩乃さま。源三郎どのが死なれた以上、この婿引出のこけ猿は、当然あなたのものですから、お返しはいたしますけれど、そのかわりに、なにとぞ拙者の胸中をお察しあって――萩乃様っ!」
その手を払った萩乃、
「またしても、源三郎様がおなくなりになったなどと、さような嘘を! 女ひとりとあなどると、そのぶんには捨ておきませぬぞっ」
立ちかける萩乃に、門之丞はすがりついて、
「イヤ、うそなら嘘で、もうまもなくわかること。それよりも、男の一心だ。よいではござらぬか、萩乃さま」
モウ武士の威信《いしん》もうちわすれて、武者振りつく拍子に、その手が着ものの裾にかかれば、逃げまどう萩乃は、われとわが力で着物を引いて、あられもない姿になりながら、
「司馬十方斎の娘、手は見せませぬぞっ!」
白い脛《はぎ》を乱して、懐剣のしのばせてある手文庫《てぶんこ》のほうへ、走り寄ったとたん、
「ウハハハハ、おもしろい芝居だが、ここらで面《つら》をだしたほうがよかろうテ」
意外、声とともに、部屋の一方の押入れの襖が、内部《なか》からサラリとあいて、
「おいっ! この面が看板だ!」
三
いつから、どうしてこの部屋の押入れになぞ、人がひそんでいたのだろう?
「わはは、驚いてやがら」
おもしろそうに笑いながら、あぐらをかいていた押入れの下段から、ノソリと立ち現われた人物を見ると!
門之丞も、萩乃も、一眼でゾッとしてしまった。
家の檐《のき》も三寸さがるといって、夜は、魑魅魍魎《ちみもうりょう》の世界だという。
その真夜中の鬼気が、ここに凝《こ》ったとでもいうのでしょうか。
魔のごとき一個の浪人姿――。
油っ気のない、赤っぽい大たぶさが、死人のような蒼い額部《ひたい》へ、バラリたれさがって、枯れ木のような痩せさらばえた長身だ。
その右眼は、牡蠣《かき》のようにおちくぼんでいるのが、たださえ、言いようもなく気味がわるいところへ、眉から右の口尻へかけて、えぐったような一本の刀痕は、しじゅう苦笑いしているような、かと思えば泣いているような、一種異様なすごみを、この浪人の表情《かお》に添えている。
右の袖は、肩さきからブランとたれさがって、白衣に大きく染めぬいたのは、黒地に白で、髑髏《しゃれこうべ》の紋……まことに、この世のものとも思えない立姿。
人間よりも、縷々《るる》として昇る一線の不吉な煙……。
パクパクと、乱杭歯《らんぐいば》の口をあけた。声は、しゃがれて、鑢《やすり》で骨を挽《ひ》くような、ふしぎなひびき。
「姐《ねえ》さんも、お侍《さむれ》えも、ヤに眼ばかりパチクリさせてるじゃアねえか」
と、申しました。
「おらア言い飽きた科白《せりふ》だが、お前《めえ》ッちにゃア初耳だろう。姓は丹下、名は左膳……ウフフフフ、コウさむれえ、えらいところをじゃましてすまなかったが、おらア因果と、この壺てエものを見るてえと、やたらに欲しくなる性分でナ。この壺せえもらやア、用はねえのだ」
たちすくむ門之丞を、
前へ
次へ
全55ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング