眼に浮かんでくるのは、あの、命も何もいらぬと思うほど恋しい、萩乃さまのおもかげ……。
 妻恋坂――妻恋坂、この名は、門之丞にとって、ゆかりのないものとは思われなかった。
 駕籠はそのつまこい坂をさして、一散に……。

       二

 いま、はるか彼方《かなた》の縁の雨戸に、コトリと、外から人でもさわるような物音がして、萩乃は、びくっと首をあげた。
 眉をよせて、遠くを聴く顔。
 その、艶にうつくしいほおに、遠山の霞《かすみ》をえがいた朱骨絹《しゅぼねきぬ》ぼんぼりの灯が、チロチロと、夢のように這っています。
 片側の襖は、これはちとこの部屋に似つかわしからぬ、荒磯に怒濤のくだける景で、これにはすこしわけがある。いくら女でも、剣家の娘だから、常住、雄渾豪快な気を養わねばならぬといって、亡き父十方斎[#「十方斎」は底本では「十万斎」]が、当時名ある画家に委嘱《いしょく》して、この会心の筆をふるってもらったもの。いわば、故先生の家庭情操教育の一つのあらわれ。
 その父、今やなし、ああ。
 でも、優しい一方とのみみえる萩乃の性質《ひととなり》に、どこか凜《りん》として冒すべからざるところの仄《ほの》見えるのは、この、生前先生ののぞまれたとおりに、勇烈|確乎《かっこ》たる大精神が、この荒磯の襖とともに、その心栄《こころば》えに宿っているのでありましょうか。いや、萩乃ばかりでなく、ふだんはそうは見えなくても、日本婦人はみんな、底の底のほうに、こういった何かを持っているのです。日本の女はすべて、このむかしの武家の女性の、やさしい中にも強いものをなくしちゃアいけない。武士道は決して男の占有物ではないのです。
 ここは、司馬家の奥まった一棟、令嬢萩乃の寝間だ。
 文字どおりの深窓――しかも夜中だから、めったに人のうかがい知ることのできない場所だが、そこは講談の役得で、便利なもの。どこへでもノコノコはいりこんでいく。
 室《へや》の中央に、秋の七草を染《そ》め出した友禅《ゆうぜん》ちりめんの夜のものが、こんもりと高く敷いてあるが、萩乃は床へはいってはいない。
 派手な寝まきの肩もほっそりと隅の経机《きょうづくえ》によって、しきりに何か物思いに沈んでいるようす。
 この真夜中を寝もやらず、かわいい胸になんの屈託か。机上の白い手が、無意識にもてあそぶのは、父の故郷に近い博多《はかた》みやげの、風雅な、ちいさな、一対の内裏雛《だいりびな》。
 灯にはえるその顔が、みるみる蒼白くゆがんで、やがて得《え》耐《た》えず、鈴《すず》をはったような双の眼から、ハラハラと涙のあふり落ちたのは、きっと亡き父のうえをしのんだのでしょう。と、たちまち、きっと引きしまった口もとに、言いようのない冷笑の影が走って、
「まあ、ほんとうに、お母《かあ》さまとしたことが――」
 おもわず洩れるひとりごとは、やくざな継母《ままはは》、あのお蓮様のうえを、ひそかにあざけりもし、またあわれみもしているとみえます。
 すると、つぎに、その萩乃の表情《かお》に、急激な変化がきた。眼はうるみをおびて輝き、豊頬《ほうきょう》に紅《くれない》を呈《てい》して、ホーッ! と、肩をすぼめて長い溜息。
 思いは、またしても、婿ならぬ婿、夫《つま》とは名のみの源三郎のうえへ――。
「源さま、源三郎様……」
 熱病のようにあえぎながら、萩乃は、夢中で手にしていた二つの博多人形《はかたにんぎょう》、その男と女の小さな人形を、机のうえにぴったりくっつけて、置きました。
 そして、じっと見入る眼には、消えも入らんず恥じらいの笑《え》みが――。
 その時、障子のそとの廊下に、人の体重をうけたらしくミシと鳴る板の音。萩乃はそれも、耳にはいらなかった。

       三

 恋すちょう、身は浮き舟のやるせなき、波のまにまに不知火《しらぬい》の、燃ゆる思い火くるしさに、消ゆる命と察しゃんせ。世を宇治川《うじがわ》の網代木《あじろぎ》や、水に任《まか》せているわいな……といった風情。
 艶《えん》なるものですナ。
 早く産みの母をうしない、素性の知れない義理の母、お蓮様には、つらいめばかり見せられて、泣きのなみだのうちに乙女《おとめ》となったこの青春の日に、また、たった一人の、頼りに思う父に死に別れたのみか、わが夫へときまった人をこんなにおもっているのに、それも、継母やあのいやらしい丹波から、じゃまの手がはいって、いまだに、祝言《しゅうげん》のさかずきごとさえあるじゃなし――。
 道場の一郭は、源三郎が引きつれてきた伊賀の若侍に占領されて、そこでは日夜、大江山の酒顛童子《しゅてんどうじ》がひっ越して来たような、割れるがごとき物騒がしい生活。
 早く文句をつけてくれ、そうしたら一喧嘩してやる……と言わぬばかり。亡き父が自慢にした絞りの床柱は、抜刀の斬り傷だらけ、違い棚にあった蒔絵《まきえ》の文箱《ふばこ》は、とうの昔に自炊の野菜入れになっているという侍女の注進である。そのワアワアいう物音が、遠く伝わってくるたびに、萩乃は、ゾッと恐怖におののくのだった。じっさい、どっちを向いてもすがりどころのない、萩乃の心中はどんなでしたでしょうか。おまけに。
 継母《はは》は、なんの力にもなってくれないどころか、丹波とぐるになって源三郎様を自分から遠ざけて、由緒《ゆいしょ》あるこの道場を横領しようとするさえあるに、あろうことか、あの源様にたいして妙なこころを動かし、色のたてひきに憂身《うきみ》にやつしているらしいとのこと。
 このあいだから丹波の一味をつれて、葛西領《かさいりょう》渋江《しぶえ》の、まろうど大権現《だいごんげん》の寮へ、出養生《でようじょう》を名に出むいているけれど、またなにかよからぬたくらみをしているに相違ない――。
「なんという、あさましい……」
 だが、萩乃がいちばん気になってならないのは、かんじんの源三郎が、じぶんをどう思っているかということです。
 彼女は、夜も昼も、この一間にとじこもったきり――胸の不知火に身をこがしている。
 今も今とて。
 この夜半。
 別棟に陣《じん》どっている柳生の若侍たちも、夜は人なみに眠るものとみえて[#「眠るものとみえて」は底本では「眼るものとみえて」]、広大な屋敷うちが、シインと深山《みやま》のよう……昼間のあばれくたびれか、白河夜船のさいちゅうらしく、なんのもの音も聞こえません。
 主君源三郎は、今朝馬を駆って出ていったきり、夜になっても帰らないけれど、供頭《ともがしら》安積玄心斎、谷大八、脇本門之丞と、名だたる三人がいっしょだから、一同なんの心配もなく、かえって、鬼のいぬ間の洗濯と、宵から大酒盛をやったあげく、みんなその場へへたば[#「へたば」に傍点]ってしまって、イヤモウ、たたいても打《ぶ》っても眼をさますこっちゃアありません。
 と、駕籠を飛ばして道場へ帰り着くが早いか、まず、ソッとこのほうをうかがって、このようすならめったに起きる心配はない。大丈夫と見きわめをつけた門之丞。
 それからすぐ、萩乃のいる奥棟へしのびこんで、長い廊下を泥棒猫よろしく、かねてここぞと当たりをつけてある萩乃の寝部屋の前。
 この夜ふけに、室内《なか》にはボーッと灯りがにじんでいます。呼吸《いき》をこらして、障子のそとに立っていると、
「源さま、源三郎様……」
 耐え入るような、萩乃の声だ。わが主君《との》ながら、男|冥利《みょうり》につきた源三郎! と思うと、嫉妬《しっと》にわれを忘れた門之丞、ガラリ障子を引きあけ、
「いや、おどろかないでください、萩乃さま。私です、門之丞です――」
 ズイとはいりこみました。

       四

「あらっ!」
 萩乃は、突かれたようにのけ[#「のけ」に傍点]ぞって、闇黒《やみ》をせおってはいってきた男を、見あげた。
 門之丞などという名は、彼女は知らない。が、見れば、源三郎にくっついて伊賀から来ている青年剣士の一人。しかも、源三郎の右の腕のように、先にたって道場で乱暴を働いている男だから、これは萩乃、おどろくななんて言われたって、おどろかずにはいられない。
 驚愕のあまり、うしろざまに片手をついた拍子に、派手な寝間着の膝がわれて匂《にお》いこぼれる赤いもの。
 萩乃はいそいで、その裾前をつくろいつつ、
「お酔いになって、とまどいなすったのではございませんか。ここは、あなた様方のお部屋ではございません。女の夜の部屋……どうぞ、おひきとりくださいまし」
「いや、酔っているのでも、ねぼけているのでもありません」
 ズカリとそれへすわった門之丞、思いつめた面上には、ものすごい蒼さがはしり、もう、眼をすえている。
「萩乃さま、どうぞ、お静かに――思いきって、こうして夜中、お寝間と知って、推参いたしました門之丞、かなわぬまでも、この胸のうちだけはお聞きとりねがいたいと存じまして……」
「まあ、あなた様は、なんという無礼なことを! 女ひとりとあなどって――」
 萩乃は、すっくと起ちあがった。とたんに、怒りにもえる彼女の眼にうつったのは、机のうえに二つ仲よく並んでいる、小さな博多人形のお内裏様《だいりさま》。
 源三郎さまと、自分と……この男は、さっきから障子のそとで、じぶんがこの人形をくっつけておくところなど、そっと垣間《かいま》見ていたに相違ない。そう思うと萩乃は、このとっさの場合に、火のように赤くなりながら、あわてて、机の上の二つの人形をはなしました。
「私は、命を投げだして此室《ここ》へまいったのです。こんなにあなたさまを思っておりますものを、すこしでもあわれと思召《おぼしめ》すお心があったら、どうか、萩乃様、この念《おも》いを――」
 もう夢中の門之丞だ。内々考えてきた口説《くどき》の文句など、実際となると、なんの役にもたちません。相手がアア言ったらこう、コウ出たらアアなどと、順序や策が頭に浮かぶあいだは、人間万事、まだほんとうに真剣ではないのかもしれない。門之丞は、これが主君のいいなずけだということすら、すっかりどこかへケシとんで、ただ、われとわが身の情炎に、眼もくらめき、たましいもしびれ、女対男、男対女……としかうつらない。
 妙《たえ》なる香《こう》のたゆとう深夜の寝室。
 ねまき姿もしどけなく、恐怖と昏迷に白い顔をひきつらせて、キッと立っている妻恋小町《つまごいこまち》――知《し》らぬ火《い》小町《こまち》の半身に、かたわらの灯影が明るくゆらめき、半身は濃《こ》むらさきの闇に沈んでいる。
 あまりの美しさ! あまりにもあでやかな眺めに、門之丞はしばし、その血管内に荒れ狂う意馬心猿《いばしんえん》もうちわすれ、呆々然《ぼうぼうぜん》として見|惚《と》れたのでした。
 切れ長な眼に、かよわい女の身の、ありったけの険をふくませて、萩乃は真《ま》っこうから、門之丞をにらみつけながら、
「声をたてますよ! 声をたてますよ」
 門之丞は無言。ニヤリッと笑って、片膝立てた。まさに獲物をおそわんとする豹《ひょう》のごとく……。

       五

 いつもはつぎの間に、侍女のひとり二人が寝泊りするのだけれど、ひとり夜更けに起きて物思うようになってからは、それも何かとうるさいので、このごろは遠ざけて、近くに呼びたてる人もない。
 でも、萩乃は、それを見せては、弱身になってつけこまれると思ったから、さも隣室に人ありげに、
「浦路《うらじ》や、浦路! 桔梗《ききょう》! これ、桔梗はいないの? ちょっと起きておくれ」
 と、あわただしく、だが低声《こごえ》に呼びたてた。
 しかし、門之丞もさるものです。
 前もってそこらの部屋部屋をすっかりのぞいて、近くに誰もいないことをたしかめてある。
 しずかに立ちあがった。血走った眼で萩乃をみつめて、ソロリ、ソロリと近づいてくる。
「お嬢さま、萩乃様……」
 と、うわずった声です。
「この望みさえかなえば、わたしは、八つ裂きにされてもいといません。もとより、主君の奥方様ときまったお方に、かような、だいそれた無態
前へ 次へ
全55ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング