って然るべしと存ずる」
 ふところ手のまま立って、じっとお蓮さまを見おろしながら、退《の》けっ! という意《こころ》……懐中で肘《ひじ》を振れば、片袖がユサユサとゆれる。
 お蓮様は笑って、
「そうですとも。この壺は、あなたのですとも。ですから、お返ししないとは申しませんよ」
「うむ、では穏便にお返しくださるか」
「はい。お渡ししましょう。でも、それには条件がございます、たった一つ」
「条件? ただ一つの、とはまた、どういう――?」
「はい」
 とお蓮さまは恥も見得もうちわすれた、真剣な顔で、
「女子《おなご》の口から言いだしたこと。わたしも、ひっこみがつきませぬ。源様、そうお堅《かた》いことをおっしゃらずとも、よろしいではございませんか」
 眼をもやして、すがりついてくる。源三郎は一歩さがって、ひややかな笑いに口をゆがめ、
「いや、これは伊賀の源三郎、あまりに野暮《やぼ》でござった。必ずともにあなたの女をお立て申すにつき、ササ、壺をこちらへ……」
「では、あの、わたしの言うことを――」
「うむ。きっと女を立てて進ぜるによって、早く壺を……」
 恋は莫連者《ばくれんもの》をも少女にする。頬に紅葉をちらしたお蓮様が、
「おだましになると、ききませんよ」
 キュッと媚《こ》びをふくめて、源三郎を見上げながら、地袋の戸をあけて壺をとりだした瞬間! 腰をひねって抜きおとした源三郎の長剣、手に白い光が流れて、バサッ! 異様な音とともに畳を打ったのは、お蓮様の首……ではない。つややかな切り髪であった。
「これで女が立ち申した。あなたが女を立てるには、故先生の手前、この一途あるのみ、ハッハッハ」
 源三郎の哄笑と同時に、壺の箱は、もはやかれの小わきに抱えられていた。

       五

「もはや何刻《なんどき》であろうの?」
 大刀を抱いて、草のなかにしゃがんだ安積玄心斎は、そういって、かたわらの谷大八をかえりみた。
「さア、月のかたむきぐあいで見ると――」
 と、大八の首も、月のようにかたむいて、考えにおちた。
 客人大権現《まろうどだいごんげん》の森蔭。
 お蓮さまの寮とは、反対側のこの小|藪《やぶ》のなかです。前は、ちょっとした草原になっていて、多人数の斬りあいには、絶好の場処。
 玄心斎、大八、門之丞の三人は、誰が言いだしたともなく、さっきコッソリ寮を抜け出て、この灌木《かんぼく》のかげに身をひそめ、眼前の草原に人影のあらわれるのを、いまか今かと待っているのだ。
 それというのが。
 とめてもきかずに、若君源三郎が門之丞を案内にたて、駒《こま》をいそがせてあのお蓮さまの寮へ行き着いたのは、まだ宵の口であった。
 まもなく……。
 源三郎には馳走の膳がすえられ同時に、三人の供の者は、不安のこころを残しつつ、別室へさがって、これも夕餉の箸をとることになったが――。
 その時、三人のいる控えの間の襖のそとに、峰丹波をはじめ二、三人の声で、容易ならぬひそひそ話。
「では、なにか事をかまえて、この向うの野原まで源三郎どのをおびきだし……」
「そうじゃ、多数をもって一人をかこみ、じゃまを入れずに斬り伏せるには、あの草原こそ究竟《くっきょう》、足場はよし、味方は地理を心得ておるしのう――」
「雨後の月見にでもことよせて、お蓮の方にひきだしてもらうのじゃナ」
「なにしろ相手は、名にしおう伊賀の暴れン坊じゃで、おのおの方、手抜かりなく――」
 と、コソコソ耳こすりする声が、唐紙を通して三人の神経へ、ピンとひびいた。
 門之丞のほか、これが策略だと知る者は、一人もありません。
 こうして、聞こえよがしに知らしておけば、玄心斎、大八らは、先をこす気で寮を出て、その付近に忍んで待つに相違ない。腕っ節の強い供の者を出してやったあとで、源三郎を討ちとろうという計画だったのだ。
 敵に内通している門之丞は、はじめから委細承知で、もっとも顔に動いているので。
 この内密話を聞いた玄心斎と大八は、食事もそこそこ、門之丞を加えて三人、すぐさまソッと寮をあとにして、さっきからこの藪《やぶ》かげに、夜露にうたれ、月に濡れて、かくは乱闘の開始を待っているのだけれど……。
 いつまでたっても、人っ子ひとり出てこない。
 手ごわい玄心斎、大八らは、計略をもって遠ざけた。ここまでは、丹波の一味にとって、すべて順調にはこんだのだが――。
 さてこそ。
 さっき室内の乱刃で、源三郎がいくら呼ばわっても、玄心斎も大八も、ウンともスンとも言わなかったわけ。こんな遠いところにがんばっているんだもの。
「どうしたというのであろう、もうやって来そうなものだが」
 ふたたび、師範代玄心斎の言葉に、
「なにか手違いでもあったのでは……」
 と、あたりを見まわした大八、大声に、
「ヤヤッ! おらん! 門之丞がおらんぞ、門之丞が!」

       六

 最初、源三郎の一行が、江戸入りをして品川へ着いた夜、命を奉じて一人駈け抜けて、妻恋坂の道場へ到着の挨拶に走ったのが、この門之丞でした。あの時、彼は、司馬家の重役が来て相当の応対をするどころか、伊賀の柳生源三郎など、そんな者は知らぬと、玄関番が剣もほろろに追いかえしたと火のように激昂して品川の本陣へ立ち帰り、復命したものだったが……。
 その後も。
 何かにつけ門之丞は、源三郎の身辺近く仕えて、あの、不知火銭をつかんで源三郎が、故先生の御焼香の席へ、押し通ったときも、かれ門之丞、大きな一役をつとめたし、じっさい玄心斎老人、谷大八とともに、源三郎側近の三羽烏だったのに――。
 イヤ、人の心ほど、当てにならないものはありません。
 恋が思案のほかなら、人のこころも思案のほかです。コロコロコロロと、しょっちゅうころがっているから、それでこころというのだなんて、昔の心学の先生などが、横山町《よこやまちょう》の質屋の路地奥なんかに居《きょ》をかまえて、オホン! とばかり、熊さん八《はっつ》あんや、道楽者の若旦那相手に説いたものですが、まったくそうかもしれません。きょうの味方もあすの敵となる。きょうの敵も、あしたは味方……その人心機微の間に処してゆくところにこそ、人の世に生きていく無限のおもしろみがあるのでございましょう。
 しかし、むろん、しじゅう転がっているこころなんてものは、大丈夫の鉄石心、磐石心ではない。
 いやどうも、話がわきみちへそれて恐れ入ります。
 ところで、この門之丞の心が、それこそチョイト門からころがりでて、とほうもない方向へ走りだし、いまこの丹波の一党に加担するようになったのは、あの十方斎先生のお葬式の日からでした。
 と言うのは。
 かれ門之丞、あの時主君源三郎にくっついて、棺を安置した奥の間へ踏みこんだのでしたが、とたんに彼は、白の葬衣をまとって上座にさしうつむく萩乃の姿を眼にして、生まれてはじめて、ハッと、電気にうたれたように感じたのだ。
 雨にうたれる秋海棠《しゅうかいどう》……なんてのは古い。
 激情の暴風雨《あらし》にもまれて、かすかに息づくアマリリス――こいつは、にきびの作文みたいで、いやですネ。
 とにかく、なんともいえないんです、萩乃さまの美しさ、いじらしさといったら。
 ふたたび、恋は思案のほか……。
 脇本門之丞、当年とって二十と六歳。萩乃様を一眼見て、背骨がゾクッと総毛走った拍子に、スーッと恋風をひきこんじまった。
「アア、世の中には、こんな女もいたのか――」
 と、それからというものは門之丞、フワアッとしちまって、はたの者がなにをいっても、てんで用が足りない……夢遊状態《むゆうじょうたい》。
 この門之丞という青年は、源三郎をすこしみっともなく、色を黒くしたようながらで、剣は相当たって、まんざらでもない男なんです。
 朝夕道場に起き伏ししているうちに、チラチラと萩乃を遠見する機会もおおい。層一層、想いはつのる一方で、ついには、
「すまぬことながら、わが君源三郎様さえ亡き者にすれば――」
 とんでもない野郎で、ひそかに、こんなことまで思うようになった。いわゆる、魔がさしたというんでしょうなア。
 で……源三郎を遠乗りにつれだしたのも、この門之丞。あのお蓮様の寮へ案内したのも、門之丞。あのお蓮様の寮へ案内したのも、丹波らとはかって、あの隣室のひそひそ話を玄心斎、大八に聞かせたのもこの門之丞。
 いま、その門之丞は――。

   帯《おび》は空解《そらど》け


       一

「オイッ、駕籠屋ッ!」
 すこしおそいが、大引《おおび》け過ぎのこぼれを拾いに、吉原《なか》へでもかせぎに行こうと、今し本所《ほんじょ》のほうから、吾妻橋の袂へさしかかっていた一|梃《ちょう》の辻駕籠。
 こう、闇に声を聞いて、ピタリとまりました。
 今なら、コンクリートの遊歩道路に、向島《むこうじま》へいそぐ深夜の自動車がびゅんびゅんうなって、すぐ前はモダンな公園……というところですが、昔あの辺は、殺し場の書割《かきわり》めいた、ちょっとものすごいところで、むこう側《がわ》は、花川戸《はながわと》から山之宿《やまのしゅく》へかけての家々の洩れ灯が、金砂子《きんすなご》のように、チカチカまたたいている。
 こっちは、橋のすぐとっつきが、中《なか》の郷《ごう》瓦町《かわらまち》、その前が細川能登守《ほそかわのとのかみ》、松平越前様《まつだいらえちぜんさま》の門、どっちもこれがお下屋敷でございまして、右手、源兵衛橋《げんべえばし》を渡った向うに、黒々と押し黙る木々は、水戸様《みとさま》の同じくお下屋敷。夜眼にも白い海鼠塀《なまこべい》が、何町というほどズウッとつづいているのが、道のはずれに遠く見える。
 中をつないで、七十六|間《けん》のあづま橋。
 真夜中の江戸は、うそのようにヒッソリ閑《かん》としています。折りから満潮《みちしお》とみえまして、ザブーリ、ザブリ、橋|杭《ぐい》を洗う水音のみ、寒々とさえわたって、杭の根に、真白い水の花がくだけ散っている。
 ギイと駕籠の底を軋《きし》ませて、地面におろした先棒が、息杖によりかかって、
「ヘイ。駕籠の御用で――」
 かたわらの暗黒の奥を、すかし見た。
 ノソリと現われたのは、野狩りのかえりででもあろうか、たっつけ袴《ばかま》をはいた若い侍で、
「本郷までやれ」
 顎をしゃくったときに、雲間を流れる月かげに、照らしだされたその顔を見ると、息せききって走ってきたふうで、大たぶさの根がゆるみ、面色|蒼褪《あおざ》めているのは、あながち月の隈取《くまど》りばかりではないらしい。
 新刀《あらみ》試しの辻斬り? よくあるやつです。
 そうではないにしても、あまり気味のよいお客様じゃアないから、先棒《さきぼう》と後棒《あとぼう》は、ちらと眼で、用心の合図をかわしつつ、
「本郷はどちらまでで?」
「妻恋坂《つまこいざか》だ。あそこの司馬道場、存じておるであろう。急いでやれ」
「ナアおい、相棒、妻恋坂だとよ。へっ、いいかげん長丁場《ながちょうば》だなア」
「ねえ、旦那。あっしらア戻り駕籠で、これから巣へけえって、一ぺえやって寝ちまおうと思ってたところなんだ。けえりが半《はん》ちくになりやすから、思い入れはずんでおくんなせえ」
「もう電車はないんですから、つけめですよ。だいぶガソリンもくいますから、七十銭やってください」
 そんなことは言わない。
「賃銀はいくらでもとらせる。酒代《さかて》も存分につかわそうほどに、めちゃくちゃにいそいでくれっ!」
「オーケー、さァ。お乗んなせえ」
 かご屋が駕籠の中へ手を入れて縞の丹波木綿《たんばもめん》の小座蒲団を、ちょいと裏返しする。いい客と見て、これがまァお愛想。特別サービス。
 ギシギシ揺れて、最大急行でスッとんでゆく駕籠のなかで、眼をつぶり、腕をこまぬいた脇本門之丞、心中に考えている。
「あの森かげの小|藪《やぶ》に、玄心斎のおやじと大八めを、スッポかしてすりぬけて来たのだが、今ごろはこのおれを探して、さぞ立い騒いでいるだろうなア」
 たちまちその心の
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