一同がポカンとしている時、
「ヤヤ! じゃ、かんじんの源三郎は? どこに?」
 と気がついたのは、お蓮さまだ。見まわすまでもなく、広くもない座敷、片隅へ行ったお蓮様の口から、たちまち、調子《ちょうし》ッぱずれのおどろきの叫びが逃げた。
 伊賀の源三郎、どこへも行きはしない。
 ちゃんと床の間へあがりこんで、山水《さんすい》の軸《じく》の前にユッタリ腰を下ろし、高見の見物とばかり、膝ッ小僧をだいているではないか!
 ニヤニヤッと笑ったものだ。
「もう出てもよいかナ」

   思案《しあん》のほか


       一

 チャリン! 揚《あ》げ幕《まく》をはねて花道から、しばらく……しばらくと現われる、伊達姿女暫《だてすがたおんなしばらく》。
 この留め女の役を買って、この場へ飛びだしたお蓮様の気持たるや、さっぱりわかりません。
 いや、お蓮さまにかぎらず、だいたい女というものは、そう簡単に割りきれる代物《しろもの》ではないんで。
 女性は男性にとって、永遠の謎でございます。その謎のところがまた、男をひくのかも知れない。
 道場《どうじょう》横領《おうりょう》の邪魔もの、源三郎を亡きものにしようと、ああして策謀の末、やっとのことで今しとめようというどたんばへ、こうして止めにはいったお蓮さまの心理。
 恋している男を、いざとなってみると、とても殺せなかったのかも知れません。
 また。
 自分に素気《すげ》ない源三郎に、この恩を売っておいて、うんと言わせようのこんたんかもしれない。
 どっちにしろ、源三郎としては今の場合、一難去ったわけですから、その細長い、蒼白い顔をニヤッと笑わせて、のこのこ床の間からおりてきた。
 刀の真綿はすでにとりさって、ピタリ鞘におさめ、なにごともなかったような落とし差し……大きくふところ手をして、ユッタリとした態度《ものごし》です。伊賀の暴れン坊、女にさわがれるのも無理はない。じつに、見せたいような男っ振りでした。
 丹波の一味はあっけにとられ、刀をさげて、遠巻きに立って眺めるのみ――もう源三郎に斬りつける勇気とてもございません。
 血みどろの死骸を見おろした伊賀の若様、ちょっと歩をとめて、
「身がわりか」
 と言った。ふところの手を襟元からのぞかせて、顎《あご》をなでながら、いささか憮然《ぶぜん》たる面《おも》もち。
 と、血のとんでいる畳に、白足袋《しろたび》[#「白足袋《しろたび》」は底本では「白《しろ》足|袋《たび》」]の爪立ち、さっと部屋を出ていった。
「源様、どうぞこちらへ。ちょっとお話し申しあげたいことが……」
 お蓮さまは、あわてて後を追う。前髪立ちの少年が、手燭をかかげて急いでつづけば、あおりをくらった灯はゆらゆらとゆらいで、壁の人影が大きくもつれる。
 バタバタと三人の跫音が、廊下を遠ざかって行きます。
 あとに残された一同、あんまりいい気もちはいたしません。
「なんだ、馬鹿にしておるではござらぬか。殺すはずのやつを助けて、アノ源さま、どうぞこちらへ――か。畜生ッ!」
「おのおの方はお気がつかれたかどうかしらぬが、お蓮の方は眼をトロンとさせて、彼奴《きゃつ》を眺めておられたぞ。チエッ、わしゃつらいテ」
 なんかとガヤガヤやっている時、お蓮さまは、悠然たる源三郎の手を持ち添えぬばかりに、やがて案内してきたのは、細い渡廊《わたり》をへだてた奥庭の離庵《はなれ》です。
 雲のどこかに月があるのか、この茶庭の敷き松葉を、一本一本照らしだしている。
「あの、もうよいから、灯りはそこへ置いて、お前はあっちへ行っていや」
 とお蓮様、にらむようにして小姓を去らせた。
 源三郎は突ったったまま、
「安積玄心斎、谷大八、門之丞の三人は、いかがいたしましたろう」
 ぽつりと、きいた。

       二

 お蓮様は、その問いを無視して、白いきゃしゃな手をあげて、自分の前の畳をぽんとたたき、
「ま、おすわりになったらいかが? 源さま」
 源三郎は、依然としてふところ手。
 いま、雨と降る白刃の下をくぐった人とも思えぬ静かさで、
「供の三人は、どこにおりますか、それを伺いたい」
 言いながら、しょうことなしに、そこに片膝ついた。
 まったく、不思議。
 玄心斎、大八、門之丞の三人は、どこへつれさられたのやら、この広くもなさそうな寮のうちは森《しん》として、たとえいくら間《ま》をへだてていても、今の斬合いが、三人の耳へはいらないはずはないのだけれど。
 真夜中の空気は、凝《こ》って、そよ[#「そよ」に傍点]との風もございません。垣根のそとは、客人大権現《まろうどだいごんげん》の杉林。陰々《いんいん》たる幹をぬって、夜眼にもほのかに見えるのは、月を浮かべた遠い稲田の水あかりです。
 その、田のなかの細道を、提灯《ちょうちん》が一つ揺れていくのは、どこへいそぐ夜駕籠か。やがてそれも、森かげへのまれた。
 フと、くッくッと咽喉《のど》のつまる声がして、源三郎はギョッとして[#「ギョッとして」は底本では「ギヨッとして」]お蓮様を見かえりました。
 顔をおおって、お蓮さまは泣いている。小むすめのように、両の袂《たもと》で顔をかくし、身も世もなく肩をきざませているお蓮様――。
 と、その声がだんだん高くなって、お蓮さまはホホホホホと笑いだした。
 泣いているんじゃアない。はじめっから笑っていたんだ。
「ほほほほほ、まあ! 源三郎さんのまじめな顔!」
 チラと膝先をみだして、擦りよるお蓮様のからだから、においこぼれる年増女の香が、むっとばかり源三郎の鼻をくすぐります。
「ねえ、源さま。なるほど、お亡くなりになった先生は、萩乃の父ですけれど、それなら、いくら後添えでも、このわたしは彼娘《あれ》の母でございますよ」
 いかにもそれに相違ないから、源三郎はだまっていると、お蓮さまはそれにいきおいを得て、
「それなら、いくら父だけが一人で、あなたを萩乃のお婿さまにきめて死んでいったところで、この母のわたしが不承知なら、このお話は成りたたないじゃアありませんか」
 この辺から、お蓮様の論理は、そろそろあやしくなって、
「いつまでたったって、萩乃はあなたのお嫁じゃございませんし、道場もあなたのものではないのですよ、源様」
 ほっそりした指が、小蛇のように、熱っぽく源三郎の手へからみついてくる。
「あなただって、何も、萩乃が好きのどうのというのではござんすまい。いつまで意地っぱりをおつづけ遊ばすおつもり? ほほほ、いいかげんにするものですよ、源様。そんなにあなたが、司馬の道場の主《あるじ》になりたいのだったら、あらためて、このわたしのところへお婿入りして……ネ、わかったでしょう?」
 道ならぬ恋の情火に、源三郎は思わず、一、二尺あとずさりした。
「母上!」
 と相手の言葉が、この場をそのまま、身をかばう武器です。

       三

 刀で殺さずに、色で殺そうというのでしょう。
 剣にはどんなに強い男でも、媚びには弱いものです。
 イヤ、男を相手にして強い男に限って、女には手もなくもろいのがつねだ。
 千軍万馬のお蓮様、そこらの呼吸《こきゅう》をよっく心得ている。
 だが、なんぼなんでも娘となっている萩乃の婿、いくらまだ名ばかりの婿でも、その源三郎にこうして言いよるとは、これはお蓮さまも、決して術の策のというのではございません。
 真実《しんじつ》、事実《じじつ》、実際《じっさい》、まったく、断然《だんぜん》、俄然《がぜん》……ナニ、そんなに力に入れなくてもよろしい、このお蓮様、ほんとに伊賀の暴れン坊にまいっているんだ。
 男がよくて、腕がたって、気性《きしょう》が単純で、むかっ腹がつよくて、かなり不良で、やせぎすで、背が高くて、しじゅう蒼み走った顔をしていて、すこし吃《ども》りで、女なんど洟《はな》もひっかけないで、すぐ人をブッタ斬る青年……こういう男には、女は片っ端から恋したものです。
 むかしのことだ。今はどうか知らない。
 が、今も昔も変わらぬ真理は、恋は思案のほか――お蓮さまは、モウモウ源三郎に夢中《むちゅう》なんです。
 立とうとする源三郎へ、背をもたせかけて、うしろざまに突いた手で、男の裾をおさえました。
「ほんに気の強いお人とは、源さま、おまはんのことざます」
 そんな下品なことは言いませんが、ぐっと恨みをこめて見上げるまなざしには、まさに千|鈞《きん》の重みが加わって、大象《だいぞう》をさえつなぐといわれる女髪《にょはつ》一筋、伊賀の若様、起《た》つに起てない。
 剣難は去ったが、この女難はにがてです。
 もっとも、女にかけては、剣術以上に名うての源様のことだから、たいがいの女におどろくんじゃあありませんが、このお蓮さまだけは、どう考えたって、そんな義理あいのものじゃアない。
 第二の危機……。
「母上としたことが、チチ、近ごろもってむたいな仰せ。げ、源三郎、迷惑しごくに存ずる」
 角ばった口上――しかも、この場合母上という呼びかけは、熱湯に水を注ぐよう、まことにお座のさめた言葉ですが、お蓮様は動じるけしきもなく、
「わたしの言うことをきけば、いいことばかりですよ、源さま」
「ハテ、いいことばかりとは?」
「あなたは何か、命にかけて、探しているものがおありでしょう」
「う、うん」
 源三郎は、顔色を騒がして、
「ソ、それは、母上もかの丹波めも、同じ命にかけてさがしておるものでござろう」
「さ、そのこけ猿の茶壺……」
「ウン、そのこけ猿の茶壺は――?」
 二人はいつのまにか、息を凝《こ》らしてみつめあっている。
「ほほほほほ、そのこけ猿ですが……当方ではもう探しておりません」
「ナナ、何? では、探索をうちきられたか」
「こっちの手にはいりましたから、もうさがす要はございませんもの」
「何イッ! こ、こけ猿を入手したっ!」
「はい。今この寮にございます。いいえ、この部屋にあります」
 と、つと立ちあがったお蓮様の手が、床わきの違《ちが》い棚《だな》の地袋を、さっと開くと!
 夢にもわすれないこけ猿[#「こけ猿」に傍点]が、チャンとおさまって――源三郎、眼をこすりました。

       四

 思いきや、われ人ともに狂気のようにねらっているこけ猿の茶壺が、いつのまにかこの一味の手にはいって、今この部屋の、この戸棚のなかにしまってあろうとは!
 源三郎は、眼をしばたたきました。と見こう見するまでもなく、古びた桐の木箱を鬱金《うこん》の風呂敷につつんであるのは、まぎれもないこけ猿だ。
「ド、ド、どうしてこの壺がここに――?」
 おめいた源三郎、走りよろうとした。
 と、いちはやくお蓮さまの白い手が灯にひらめいて、この地ぶくろの戸をしめていた。
 そして、はばむがごとく、うしろざまに手をひろげて、ピタリその前にすわったお蓮様。
「ほほほほほ、今になってそんなにびっくりなさるなんて、源さまもよっぽど暢気《のんき》ですよ。なんとかいう一ぽん腕の浪人が、橋の下の乞食小屋に、後生大事に守っていたのを、丹波が人をやって、こっそり摸《す》りかえさせたんです」
 寸分違わない風呂敷と木箱をつくり、その箱の中には、破《わ》れ鍋《なべ》一個と「ありがたく頂戴《ちょうだい》」と書いたあの一枚の紙片……左膳の小屋からほんものを盗みだし、かわりにこれを置いたのは、さては、峰丹波の仕業であったのか。
 それとも知らず左膳は、あの高大之進の一党が斬《き》り込んだ時、命を賭して破れ鍋をかかえて、走ったとは、左膳一代の不覚――お藤の家でチョビ安をおさえられて、それと交換に、おとなしく大之進方へ渡した箱の中から、衆人|環視《かんし》のなかに出てきたのは、この鍋と、ありがたく頂戴の紙きれであった。
 源三郎は、そんないきさつは知らないけれど、ほんもののこけ猿は、とうの昔にここにあったのかと、顔いろを変えてお蓮様につめより、
「さ、渡されい。その壺は、品川の泊りにおいて拙者が紛失いたしたるもの。正当の所有者は、いうまでもなく余である。おわたしあ
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