「くせのわるいこの濡れ燕の斬ッ尖、どこへとんでいくか知れねえから、汝《うぬ》らッ! そのつもりで来いよっ!」
おめきながら左膳は、こけ猿の箱包みをかかえ、チョビ安を従えて、この材木町《ざいもくちょう》の通りを駒形のほうへと、すがりつく黒影を白刃に払いつつ、行く。
せまい河原の乱闘はめんどうと、追いつ追われつここまで来たところ。今宵の襲撃者は、麻布《あざぶ》林念寺《りんねんじ》前の上屋敷からくりだしてきた、高大之進の一隊、ちょいと手ごわいんです。
子を取ろ子とろ……というんで、壺よりも、まずチョビ安をおさえてしまえ、という戦法。左膳が斬りむすんでいるまに、チョビ安が追われて逃げこんだのが、偶然にも、高麗屋敷《こうらいやしき》は尺取り横町の、あの櫛巻お藤の隠れ家だった。折りあしく、そこにとぐろをまいていた鼓の与吉に、大声に戸外《そと》へどなられて、チョビ安、押しこんで来た黒覆面の連中に、難なくつかまってしまった。ほどなく左膳もこの家に現われたが、見るとチョビ安は、畳におさえつけられて、咽喉に刀を擬せられている。
「一、二、三、四――」
十まで数えるうちに、左膳のかかえこんでいる壺を渡さなければ、ズブリ! 突き刺すというんだ。
「八、九――!」
かわいいチョビ安の命には、換えられぬ。
「待った! しかたがねえ」
左膳があきらめて引きわたした壺の木箱を、高大之進の一団、おっとりかこんで、その場であけてみると! 思いきや、ころがりでたのは、真《ま》っ黒々《くろぐろ》な破《わ》れ鍋《なべ》が一つ!
しかも、達者な筆で「ありがたく頂戴《ちょうだい》」と書いた紙きれがついて、
敵も味方も、これにはあいた口がふさがりません。壺はいつのまにか、河原の小屋から見事に盗み出されていたんだ。それとも知らず左膳は、いつからか、この掏《す》りかえられた鍋を、今まで後生大事にまもってきたとは!
上には上。何者の仕業? サア、こうなると、こけ猿はどこへいったか、皆目《かいもく》行方がわからない。
高大之進の一行は、骨折り損のくたびれ儲け。これじゃア喧嘩にもならない。ブツクサ言って引きあげて行く。だが、その夜からだ、左膳、お藤姐御、チョビ安の三人が、この長屋に奇態なトリオをつくって、おもむろに、こけ猿奪還の秘術をめぐらすことになったのは……。
日光|御修復《ごしゅうふく》の日は、いやでも近づく。茶壺やいずこ?
物語はこれより大潮に乗って、一路、怒濤重畳《どとうちょうじょう》の彼岸《ひがん》をさしてすすみます。
女暫《おんなしばらく》
一
源三郎、ギリッと歯を噛んだ。
刀身にまつわりつく濡れた真綿から――ポタリ、ポタリとしたたり落ちる水が、気味わるく手を伝わって、肘へ、二の腕へ……。
この一瞬間の、寂然《じゃくねん》たるあたりのたたずまいは、さながら久遠《くおん》へつづくものと思われました。
むろんこれには、独特の技術を要するのです。
長い真綿を水につけて、相手の刀へ投げかける。それはキリキリッと鎖のように捲きついて、いつかな離れればこそ――。
「おいそれとは取れぬもの……まず、そのお刀は、お捨て召され」
いま、隅のほうから峰丹波、こう冷笑を走らせたも、道理です。
十方不知火流《じっぽうしらぬいりゅう》の秘伝中の秘伝、奥の奥の奥の、そのまた奥の、ずっと奥の――どこまでいっても限《き》りがございません……奥の手。
たいへんやかましいんですなア、この刀絡め。
「ヒ、卑怯な!」
急にひっそりとしたなかに、火を噴かんず勢いの暴れン坊の呻きが、聞こえた。
しかし。
勢いばかりよくったって、綿に包まれた刀……蒲団を着た刀なんて、およそ役にたたない。
ふとん着て寝たる姿や東山。しごくノンビリとしちまって、この乱刃の場には、縁の遠い代物《しろもの》だ。
呆然と立ちつくした源三郎の耳に、この時、米が煮えるように、クックッと四方から漂《ただよ》ってきた音――それは、等々力《とどろき》十|内《ない》、岩淵達之助《いわぶちたつのすけ》ら、司馬道場のやつらの、呼吸をつめた笑い声でありました。
闇の部屋にあって、源三郎は、絵巻物をくりひろげるようにハッキリと、ここにたちいたった径路を見た。わが身にせまる危機を感じた。全身に、汗の湧くのをおぼえた。
本郷の、道場へおしかけて、がんばりあいをつづけていたのだが、婿とは名のみ、萩乃とはまだ他人の仲です。若さと力を持ち扱った今朝のことだ。急に思いついて、遠乗りに出たのだ。
それも。
江戸の地理は暗いといった自分に、墨堤《ぼくてい》へ――とすすめて、この方面へ馬の鼻を向けたのは、門之丞だった。
考えてみると、あの門之丞がくさい。
途中から雨になって、引っ返そうとしたのを、先に立って、無理にここへ案内して来たのも、門之丞……いよいよ、怪しいのは門之丞だ。
ここは、向島《むこうじま》を行きつくした、客人大権現《まろうどだいごんげん》の森蔭、お蓮さまの寮です。こんなところに、司馬家の別荘があろうとは、源三郎、知らなかった。ましてや今、お蓮様、丹波の一党、十五人ほどの腕達者が、ひそかにここへ来ていようとは! 近ごろ道場に姿の見えないことだけは、うすうす感づいていたけれども。
門之丞はいつのまにか敵と内通して、はじめから計画的に、若殿源三郎をこの窮地におとしいれたに相違ない。その門之丞は、さっき、しきりに源三郎に心を残す玄心斎、谷大八の二人とともに、どこか控えの間へ招《しょう》じ去られたきり、なんの音沙汰もない。寮の内は、森閑として、
とっさに、これだけのきょう一日の追憶が、源三郎の脳裡《あたま》を走ったのでした。
はかられたと知った源三、血走る声で、
「爺《じい》!、安積《あさか》の爺! ダ、大八ッ――!」
叫んだ刹那です。
「筑紫《つくし》の不知火《しらぬい》は、闇黒《やみ》にあって初めて光るのじゃっ!」
岩淵達之助の一刀が、右から躍って……。
二
岩淵の達ちゃん……なんて、心やすく言ってもらいますまい。
岩淵達之助、この人は、泣く子もだまるといわれた怖いオッサンで、本郷界隈では、だだッ児《こ》の虫封じに、しばしばその名を用いられた。これじゃアまるで、小児科の適薬みたようです。
冗談はサテおき。
司馬道場では峰丹波から数えて二番目の使い手。
いったい、物語に出てくる女といえば、こいつがそろいもそろって、みんな美人。剣術つかいは、出てくるのも出てくるのも、かたっぱしから剣豪だらけで、まことに恐れ入りますが、しかし、考えてみると、これでなくっちゃア話になりません。弱い剣士なんてエのは、場《ば》ちがいです。あつかわないんです。
剣豪のうえに大《だい》剣豪あり、そのまた上に大々《だいだい》剣豪があるから、物事がこんでくる。
で、今。
筑紫の不知火は闇に光る――なんかと、ひどく乙《おつ》なことを言って、畳を踏みきる跫音《あしおと》すごく、源三郎に斬りかかってきたのが、この岩淵達之助だ。
人の刀を使えなくしておいてから、切るたんか[#「たんか」に傍点]では、たかが知れている。
はたして。
ボンヤリ立っていた源三郎だったが、太刀風三寸にして剣気を察した彼、フイと身をそらしたから、はずみをくらった岩淵達之助は、刀を抱いたまま部屋の向うへスッ飛んで、どすん! 御丁寧に襖《ふすま》とでも接吻したらしい音。なるほど、不知火のような刀影が、見事|闇黒《やみ》に白線をえがいて走りました。
これだから、剣豪もあんまり当てにならない。
といって、この醜態で達之助をわらうことはできないのだ。なんと言っても、相手は伊賀の暴れン坊である。刀は絡《から》められても、腕は絡《から》められない。
真綿のへばりついた長剣を、依然として下々段にかまえ、壁を背に、スーッと静かに伸び立っている。
柳生流でいう、不破《ふわ》の関守《せきもり》……。
やっぱり、この構えだけは破れない――と見えたのは、ホンの二、三|秒《びょう》でありました。なにしろ、この恐ろしい敵の手にある刀は、もう刀じゃなく、ステッキのようになってるんだから、そう用心することはありません。不知火の連中、一時に気が強くなった。
もりあがる殺気に、四方のやみを裂いて数本の刃線が、一気に源三郎をおそった。呶《ど》号する峰丹波。同士討ちを注意する、あわただしい等々力十内の声……入りみだれる跫音と、胆にしみる気合いと。右から左から、前からうしろから、ただ一人を斬りに斬った。
「えェイッ! これでもかっ!」
「さ、この一太刀で冥途《めいど》へ行けっ!」
「これが引導だっ!」
「おいっ、とびちがえては危い。一人ずつかかれっ!」
「ア痛《いた》っ! 誰かの斬っ尖が、おれの指にさわったぞ」
だらしのないことを言うやつもある。黒闇闇裡《こくあんあんり》――聞こえるのは、不知火連のかけ声だけ、閃めくのはその一党の剣光のみ。
源三郎は、音《ね》もたてない。この刀林の下、いかな彼もたまるまい。すでに膾《なます》にきざまれたに相違ないのだ。
と! この時です。廊下《ろうか》のほうからこの部屋へ、ぽっと、一|道《どう》の明りがさしてきて、
「まあ、お前たち、しばらくお待ちったら! しばらく――」
意外、この場の留め女が、お蓮様とは!
三
ただでは刃向かえぬ手ごわいやつをやっと謀略でおびきよせて、せっかく殺しかかったこの仕事なかばに、自分でここへ出て来て止めるとは!
と、丹波をはじめ一同は、いぶかりながらも、とにかく主筋《しゅすじ》となっているお蓮さまのお声がかりだから、みんな不平そうに刀を引いた。
でも、内心、仕事なかばどころか、もう完全に仕事は終わったと思ったのです。
みなの剣は血にぬらつき、たしかに、返り血らしい生あたたかいものをあびた覚えもある。
いま、部屋の中に罩《こ》もっているのは、むっと咽《む》せっかえるような、鉄錆《てつさび》に似た人血のにおい……一党は、手さえ血でべとべとしている。
ここへ今、灯がはいれば、たたみには深紅《しんく》の池が溜って、みじめに変わりはてた伊賀の若様の姿が、展開されるだろう――。
そう思って、早く燈火を歓迎するこころ。
一同、シンと声をのんで、明りの近づくほうをふり返りました。
「まあ、しばらく、しばらく、お待ち……」
お蓮さまはあたふたと、さやさやと衣擦《きぬず》れの音をさせてはいってきた。
「なんですねえ、ドタバタと、騒々しい!」
さっき宵の口に、源三郎の夕餉《ゆうげ》に給仕に出た少年が、先に立って手燭《てしょく》をささげている。
その光に。
さッと室内の状《さま》が、うかび出た。
とたんに。
峰丹波、等々力十内、岩淵達之助、ほか十数名。
「ヤヤッ! これはっ――!」
驚愕の合唱をあげた。
お蓮様は? と見ると、柳の眉の青い剃りあとを、八の字に、美しい顔をひきゆがめたなり、声もなく立ちすくんでいます。
無理もない。
見るがいい!……室のまん中に全身|朱《あけ》にまみれて長くなっているのは、不知火門弟の若い一人! 仲間じゅうでよってたかって斬りさいなみ、突きまくった刀痕は、頸、肩、背といたるところ、柘榴《ざくろ》のごとく口をあけて、まるで、蜂の巣のよう――!
「ウーム! あやまって、とんだ惨《むご》いことをいたした……」
悄然《しょうぜん》たる丹波の言葉も、誰の耳にもはいらないらしく、一同、刀をさげ、頭《こうべ》をたれて、黙々とその無残きわまる同志の死体を、見おろすばかり、頓《と》みには声も出ません。
こんなこととは、誰《だれ》不知火《しらぬい》。
道理で、なんだか手応《てごた》えが弱いと思った。
「迷わず成仏《じょうぶつ》――」
なんかと、かってな奴があったもので、一人が片手を立てて拝んだりしたが、こいつは迷うなったって、無理です。これじゃア成仏できますまい。
足もとにばかり気をとられて、
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