て箸を置きました。雨に追われて、馬を走らせたので、空腹に、思わず食《しょく》をすごしたようです。
 食後も。
 誰もくるようすはない。
 雨はやみ、風が雲を吹き払って、月が顔をのぞかせたらしい。どこから迷いこんできたのか、死におくれたこおろぎが一匹、隅のたたみに長い脚を引きずっている。
 まるで自分は体《てい》のいい捕虜《とりこ》……気をひきしめねば、と自らをはげましつつも、源三郎、いつしか眼の皮がだるくなってくるので。

       三

 少年の敷いた夜のものにくるまって、源三郎は、なんのうれいも、警戒もないもののごとく、ぐっすり眠った。
 不覚! というよりも、腕の自信が強いからで。
 それは、呼べば応《こた》える別室に、玄心斎、門之丞、大八の三人が、寝もやらず控えている……という心がある。
 あらしの後の静けさは、いっそう身にしみます。土庇《どびさし》を打つ雨だれが、折りからの月を受けて銀に光っているのが、屋内《おくない》にあっても感じられる。
 それほど戸外《そと》は、クッキリと明るい月夜――。
 何刻《なんどき》ほどたったか……フと寝返りをうった源三郎は、瞼《まぶた》に、ほのかに光線《ひかり》を感じて、うす眼をあけました。
 はじめは、月のひかりだと思った。
 それにしては、黄ばんでいる――。
 夜が明けたのかしら……まだ夢にいるような混沌《こんとん》たるあたまで、瞬間、そうも感じたのでした。
 と!
 そっと襖のしまる音がした。といって、誰かがはいってきたのではなく、この時まで室内にひそんでいた何者かが、ちょうど今、忍びやかに出て行ったらしい気配――。源三郎は、一時にパッと眼がひらいて、ハッキリそれを感じた。全身に感じた。
 まるで、暗い海底から、陽のあかるい水面へ泡が立ちのぼって、ポッカリ割れるように、急に、冴えざえとした意識……。
 耳も眼も、異常に鋭くなった源三郎、気がつくと、燭台の灯が、うすあかく天井を照らし出している。
 ふしぎ! 寝る前に、たしかに消したはず。
 源三郎の顔に、ニッと、言うにいわれぬ微笑が――。
 来たナ。何かコソコソやりおるナ、というこころ。
 耳をすますと、ふすまの外で、
「ウム、ぐっすり眠っておるぞ」
 という低声《こごえ》。つづいて、
「だが、敷き寝《ね》しておって、取れぬ……」
 というのは、刀のことを言うらしい。
 源三郎は、床の下にさしこんで寝ている大刀を、そっと上からさすって――またしても浮かぶのは、残忍とも見える、血を待つほほえみ。
 にわかに、室外に、けんめいに笑いをこらえる声が聞こえた。それがだんだん高くなって、ウハハハハ、あははははは、と、突如として家をゆるがす夜中の哄笑、ぞっと総毛立つものすごさをともなって。
 七、八人をうしろに従えて、いきなり、ガラリ! 襖をあけた峰丹波は、
「源三郎殿、夜中ながら、御挨拶に推参……」
 低い声を投げこみましたが――丹波、ビックリした。
 床《とこ》は、もぬけのから……室内には、だれもいない。
 と見えたのは、源三郎、早くも起き出ると同時に、そのあけられたふすまの側の壁に、ピタリ背をはりつけているので。
 稽古襦袢《けいこじゅばん》に袴《はかま》の腿《もも》立ちとった一同、頓《と》みには入りかね、手に手に抜刀をひっさげて、敷居のそとに立ちすくんでいる。
 シイーンと静まり返った中から、やがて、伊賀の暴れン坊のふくみ笑いが……。
「ママ待ちかねておったゾ。ようこそ。サ、サ、ズッとこれへお通りめされ――」

       四

 むやみに飛びこんでは、身体を入れた瞬間に、真上からか、横からか、源三郎の豪刀が伸びてくるにきまっている。
 こうなると、室外《そと》の連中、呼吸をはかって竦《すく》みあうばかりで、いつかな埓《らち》があかない。
 こうした場合の常識……誰かが刀の斬っさきに羽織をひっかけてツイと、部屋の中へ投げこんだ。
 が、児戯《じぎ》――。
 気がうわずっていれば、これに釣られて羽織へ刀を振りおろす。その動きのすきをねらって、一団となっておどりこもうという寸法なんですが、ドッコイ、そんな月並みな手に乗る源三郎じゃアありません。
 ウフフフフフ……と、ふすまのかげから、源三郎の低い笑い。
「よせ、よせッ。こどもだましは!」
 声とともに、忍んでいる源三郎の手もとあたりに、ピカッ! ピカッ! と光のざわめくのが一同の眼を射るのは、明鏡《めいきょう》のように磨《と》ぎすました刀に、うす暗い燭台の灯が、映ろうのらしい。
 そして、源三郎が柄《つか》の握りかげんをなおすたびに、天井から向うの鴨居《かもい》へかけて、白い、ほそ長い閃光がチカチカ走るのが、敷居のそとから、気味わるく見えるのです。
 ちょっとはいれない……。
 深沈たる夜気がこって、鼓膜《こまく》にいたいほどの静寂。これは、声のない叫喚だ。呶号《どごう》をはらむ沈黙だ。
 かくてははてしがない――と見た不知火剣士の一人、つぎの間から壁越しに、ここらに源三郎がいると思うあたりへ、グザッ! 柄も通れとばかり刀を突っこんだ。と、見事な京壁、稲荷《いなり》と聚楽《じゅらく》をまぜた土が、ジャリッ! と刃をすり、メリメリッと細《ほそ》わりの破れる音!
 同時に、
「うわアッ……!」
 とのけぞる源三郎の叫声《きょうせい》。つづいて、
「痛《つ》ウ――!」
 と低くうめくのは、さすがの源三郎横腹の深傷《ふかで》をおさえて、よろめくようす……わが隠れている壁から、ふいに繰り出された一刀で、源三郎、脇腹から脇腹へ、刺し貫かれたとみえる。
「ウーム、苦しい! 卑怯だっ! 正面から来いっ!」
 血を吐くような源三郎の声が聞こえた秒間《びょうかん》、しすましたりと、こなたは丹波を先頭に、ドッ! と唐紙を蹴倒して、雪崩《なだれ》こみました。
 煽《あお》りをくらった灯が、消えなんとして、ぱッと燃えたつ。
 と! どうです。
 畳にころがって、のたうちまわってでもいるかと思った源三郎、部屋の隅にスウッと伸び立って、思いきり斬《き》っ尖《さき》をさげた下々段の構え――薄眼をあいて、ニヤニヤ笑っているじゃアありませんか。
「ははア、御苦労。やっと姿を現わしたナ」
 と言ったものです。血なんか流れてもいないどころか、この下々段のかまえたるや柳生流でもっとも恐ろしいとなっている不破《ふわ》の関守《せきもり》という刀法……不破《ふわ》、他流にはちょっと破れないんです。
 それと、ピタと向きあってしまった。このもっとも避けていた場面に立ちいたった峰丹波、もう面色蒼ざめて、
「おのおの方、御用心、御用心!」
 かすれた声で叫びました。

       五

 かつて植木屋の若い者に化けて、道場へはいりこんだこの柳生源三郎と……。
 峰丹波、いつか真剣の手合せをして、不動のにらみあいに気力で圧倒されたあげく、意気地なくも、フワーッとうしろへブッ倒れて、何も知らずにこんこんと眠ってしまったことがある。
 意気地なくも――とはいうものの、あの時、あの庭の隅で、相青眼《あいせいがん》にかまえたままのにらみあいは、いまから思うと、まるで永遠のように長かった。そのうちにかれ丹波、一刀を動かさず、一指をも働かせずに、ズウンと気がとおくなって、土をまくらにしてしまったのです。意識をとり戻したときは、身はすでに座敷へ運び入れられて、医者よ、薬よ……という面目ない騒ぎ。
 決して丹波が弱いんじゃない、源三郎が強過ぎるので。
 あの時のことは、丹波一代の不覚――いま思いだすと、暗いところに独りでいても、カッカと耳が熱くなるくらい。
 が、相手の腕前はこれで十二分に知っていればこそ、丹波、今まで自重に自重をかさねて、策をめぐらしてきたのだ。
 なみたいていのことで立ち向かっては、だれが出ても、とうてい敵《かな》いっこない……だから、苦心惨澹して、やっとここまでおびきだしたのに――。
 それなのに!
 やっぱり、いけない!
 みごとに裏をかかれて、今この、刀を持った源三郎と、こうしてこの狭い部屋で、面《めん》と顔をあわせることになってしまった。
 まるで獅子の檻《おり》へ、じぶんから飛びこんだも同然で……こりゃア丹波、あわてるなといっても、無理です。
 しかし、こっちは人数が多い。あたま数で押して、遮《しゃ》二|無《む》二討ちとってしまおうと、自分はすばやく岩淵達之助《いわぶちたつのすけ》のうしろへまわって、
「かかれっ! かかれっ!」
 声だけはげましたが、誰だって斬られるのはあまり好きじゃない。一同。しりごむ気配が見えた時……。
「キ、気の毒だが――」
 弁解《いいわけ》のようにうめいた伊賀のあばれン坊、不破《ふわ》の関守《せきもり》の構えから、いきなり、身を躍らせると見せておいて……とりまく剣陣のさわぐすきに、近くの一人へ、横薙《よこな》ぎの一刀をくれた。
 遠くを攻めると見せて、近くを払ったのだ。
 肉を斬り、骨を裂くものすごい音とともに、そいつは、持っていた刀を手放し、空気をつかんで、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》ッ! と畳を打つ。
 とたんに。
 誰かの裾が燭台をあおって、フッと灯が消えた。
 闇黒――のどこかに、戸外の夜光がウッスラ流れこんで、白いものが白く見えるだけのうすあかり。
 一同は、言いあわしたように、さっと壁ぎわに身を沈めた。手に手に、白い棒とも見える抜刀を低めて。
 同時に、また一人の叫声《きょうせい》が走ったのは、源三郎の剣、ふたたび血を味わったらしい。
 すると、この瞬間です! 源三郎の横手に立っていた峰丹波の手から、何やら、長めの手拭いとも見える白い布ぎれが飛んで、ちょうど振りかぶっていた源三郎の刀へ、キュッと、ふしぎな音して捲きついたのです。

       六

 しゅウッ! と異様な音を発して、空《くう》をさいて峰丹波の手から、生あるごとく流れ出て源三郎の長剣に、捲きついたもの。
 ふたりを斃《たお》し、いま三人めをねらって、大きく刀をかぶっていた源三郎は。
 ぐっと手もとに、かすかな重みの加わったのを知ると同時に。
 何かしら、かたなを背後へひかれるような気がした。
 変なじゃまものに、刀をしばられた感じ――。
 オヤ! と思いました。
 それとともに、
 いま水粒がぱらっと飛んで、刀もつ手から自分の首すじへかけて、かすかにとばっちりをうけたのを意識した。
 丹波はそれなり壁ぎわへ飛びすさって、一刀を平青眼……。
 じっと闇黒《やみ》をすかして源三郎のようすを、見守っている。
 刹那のしずかさ。
 岩淵達之助《いわぶちたつのすけ》、等々力《とどろき》十|内《ない》、ほか大勢も。
 呼吸《いき》をのみ、うごきを制しあって、くらい中に源三郎の立ち姿を見つめていますと。
 源三郎、金《かな》縛りにあったようにそのままの姿勢です。
 この得体の知れない出来ごとに眉をひそめ、小首を捻って、とっさの判断に苦しむようす。
 無理もない……。
 いまも柄を握る源三郎の両手に、何かは知らず、うす気味わるい冷たい液体が、ジクジクしたたり落ちている。
 闇の中で見えませんから、このつめたい液体がなんだかひどく不吉なものに感じられて、これがとっさに、源三郎の心理におよぼす影響は、決して小さくありません。
「ウヌ……!」
 と源三郎、うなりながら、刀をひきおろしてみた。
 刻一刻、重味の加わるような気のするその刀――。
「小細工を……」
 剣林のまんなかですから、八方に気をくばりつつ、伊賀の若様、片手の指をその刀身に触らせて調べてみると!
「ナ、なんだ、これあ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
 べっとりと冷たく濡れたものが、刃をつつむようにからみついて、キリキリと締めつけている。
 除《と》ろうとしても、急にはなれやしない。
「真綿でござるよ、アハハハハハ」
 かたすみから、笑《え》みをふくんだ峰丹波の声が流れて、
「濡らした真綿――オイソレとは取れぬもの。まず、その
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