いませんけれど、ただ、そのお婿さんの相手が、あの萩乃ではなく、このあたしでさえあれば――」
「またさような馬鹿馬鹿しいことを!」
「でもね、源三郎さま、いま此寮《ここ》には、不知火流の免許取りばかりが、十五人ほどいっしょに来ているんでございますよ。よくお考えにならなければ、御損じゃないかと……」
「フン! その十五人が、またたくまに、一人もおらんようになりましょう。ついでに母上、あなたも……」
 言いながら源三郎は、今はじめて、夕陽《ゆうひ》に輝く山桜のような、このお蓮様の美しさに気がついたように、眼をしばたたいたのでした。

       二

「とにかく、母上――」
 言いかける源三郎を、お蓮様は、ヒラリと袂を上げて、打つような手つきをしながら、
「まあ! その母上だけは、どうぞ御勘弁を、ほほほほほ」
「いや、拙者にとっては、あくまで母上です」
 と源三郎は、鯱《しゃち》が鉛《なまり》を鋳込《いこ》まれたように、真っ四角にかたくなって、
「おっしゃりたいだけのことを、おっしゃってください。うかがいましょう」
 と、横を向く。
 若い蒼白な美男、源三郎――剣の腕前とともに、女にかけても名うての暴れ者なのだが――。
 このお蓮様の顔を前にしていると。
 その、黒水晶を露で包んだような瞳のおくへ、源三郎、ひきこまれるような気がするのだった。白いほおのえくぼは、小指の先の大きさでも、大《だい》の男を吸いこむだけの力はある。彼がしきりに母上、母上と呼ぶのは、そうでも言って絶えず自分の心に枷《かせ》を加えようという気持なので。
 お蓮様の視線を避けて、くるしそうに首をめぐらした源三郎の眼の前に、玄心斎、谷大八の二人は、今にも、スワ! と言えば膝をたてそうに、おっとり刀の顔。ふたりに挟まれた門之丞は、これはまた心ひそかに、何かの成算を期するもののごとく、腕を組み、眼をつぶって、じっと天井をふりあおいでいる。
 暴風雨《あらし》の音は、すこし弱くなった。寮のなかはシンとして、十何人もの荒らくれ男が、別室にひそんでいるとは思われないしずかさ。
 その静寂のなかに、かすかにすすり泣きの声が聞こえて、源三郎はぎょっとして、あたりを見まわしたが……。
 見まわすまでもなく。
 その泣き声の主はお蓮さま――何か急に思い出したように、彼女は襦袢《じゅばん》の袖を引き出してしきりに眼へ当てながら、身も世もなさそうに、泣き声をかみしめている。
「強いようなことを言ってみても女ですもの……あたくしは、源様あなたの御慈悲がなくては、生きて行けません」
「司馬先生の御遺志どおり、兄との約束にしたがって、穏便に事を運べば、源三郎、決して母上を粗略にはいたしませぬ考え――一に、そちらの出ようひとつでござる」
「はい、よくわかりました。はじめて、それに気がつきました。どうぞよろしくお取りはからいくださいますよう……」
「ソ、それは本心でござるな」
 いきおいこんで乗り出す源三郎を、玄心斎と大八は、傍《かた》えから制して、
「シッ、殿ッ、これには何か魂胆が――」
「若ッ、こう急に降参するとは思えませぬ」
 かわるがわるささやけば、お蓮様は、涙に輝く眼で一座を見わたし、
「そう思われても、しかたがござりませんけれど、今まで楯《たて》ついてきましたことは、ほんとに、世間知らずの女心から出た浅慮《せんりょ》、どうぞ、わたしの真心をおくみとりなされて――」
 生一本な源三郎です。このお蓮様の涙は、ただちに源三郎の心臓にふれて、彼は苦しそうに、つと起って縁の雨戸の間から、雨に乱れた庭へ眼を放った。
 さっきお蓮様が丹精していると言った、うす紅色の芙蓉《ふよう》の花は、無残に散り敷いている。それは、いまのお蓮様の姿のように、憐れにも同情すべきものとして、源三郎の眼に映ったのでした。

       三

 お蓮様は、その源三郎の立ち姿を、仮面のような顔で、いつまでも見守っていました。
 玄心斎がニヤニヤして、
「お気が弱くなられましたな、御後室様。ははははは」
 ニッコリうちうなずいたお蓮様、
「気が弱くもなろうじゃアありませんか。あなたのようなお強い方々《かたがた》が、女一人を取り巻いて、いじめるんですもの」
「どうですかナ」
 谷大八も気がるな声が出て、お蓮様と笑いをあわせた。
 源三郎は静かに座に帰り、
「では、ど、どうなさろうというので」
「それを明日にでも、ゆっくり御相談申しあげたいと存じまして」
 チラリと一同の顔を見たお蓮様は、
「わたしは、またすこし悪寒《さむけ》がしてきましたから、これで失礼を」
 衣の重さにも得《え》堪《た》えぬように、お蓮さまはスラリと立って、部屋を出て行きましたが……源三郎はそのあたりを払うばかりの美しさに打たれて、思わず、あと見送らずにはいられなかった。
「本心でござろうか」
 両肘《りょうひじ》を膝に、前|屈《かが》みに首を突き出す玄心斎。
 谷大八はせせら笑って、
「さあ、どういうものでしょうな。女の涙は、拙者にはとんと判断がつき申さぬ。だが、まんざら計《はか》りごとのようにもみえなんだが……門之丞、貴公はどう思う」
「殿のお心一つだ。殿がお蓮様をお許しなさろうと思召せば、それで四方八方|丸《まる》くおさまって、何より重畳《ちょうじょう》なわけ――だが、あんなにうちしおれておるものを、殿も、お斬りなさるのなんのというわけには、ちとゆくまいかと考えられまする」
 源三郎は、今は小降りになった雨の矢が、裾を払うのもかまわず、竹の濡れ縁に立ち出でて、ふたたびじっとみつめているのは……またしても、見る影もなく花を落とした芙蓉《ふよう》の一株、ふた株。危険なところです――いま気を許しては。
 しかし、上には上ということがある。
 だが、そのまた上に、上があるかも知れない。そしてまた、その上の上に、もう一つ上が……。
 お蓮様が引っ込んで行ったあと家内《やうち》はいっそう静まり返って、峰丹波をはじめ、誰一人、この部屋に挨拶にでる者もありません。
 たださえ暮れの早い初冬の日は雨風に追われるように西に傾いて、いつとはなしに湿った夜気が、この、木立ちの影深い客人大権現《まろうどだいごんげん》の境内に……。
 どういう計画がひそんでいるかも知れないと、一同はすこしの油断もなく、無言のまま室の四隅から立ち迫る夕闇に眼を据えていますと……。
 ソッと襖があいて、
「お灯を――」
 と、いう声。
 さっきの少年の門弟が、燭台をささげてはいってきた。それを機会《しお》に、
「何もござりますまいが、お食事のしたくを頼んでまいりましょう」
 そう自然らしく言って、門之丞が、少年の後を追うように出ていった。夜になって、また風が出たようすです。轟《ごう》ッ! と、棟《むね》を鳴らす音に、燭台の灯が、おびえたように低くゆらぐ……。

   刀絡《かたなから》め


       一

 門之丞は、そのまま部屋へ帰ってきません。
 やがて、同じ少年の弟子が、敷居ぎわにあらわれて、手を突き、
「御膳部《ごぜんぶ》の用意が、できましてございますが……御家来衆は別室で、ということで、どうぞお二人はあちらへ――」
 と言う。
 玄心斎は、さてこそという眼顔で、源三郎を見た。
「若、わたくしどもも、ここで……」
 そして、少年へ、
「イヤ、拙者らもここで、いただいてかまわぬとおおせらるる。お手数ながら、拙者らの膳も、此室《ここ》へお運びねがおう」
「いや、待て、爺《じい》」
 源三郎は、いつになくニコニコして、
「お、お前達はあっちへ行って食え」
 谷大八が、懸命のいろを浮かべて、
「ですが、殿お一人をここへお残し申して――」
 この言葉に、伊賀の暴れン坊、ムッとしたらしく、
「ヨ、ヨ、余一人を残していっては、不安だというのか。何を馬鹿なことを、ダ、第一、ひとりになるのではない。コ、これを見よ」
 源三郎、膝わきに引きつけた大刀の柄をたたいて、闊然《かつぜん》とわらった。
「心配するでない。客は、主人側のいうとおりになるのが、礼である。玄心斎と大八は、別室へしりぞいて、心おきなく馳走にあずかるがよい」
 顔を見あわせたのは、大八と玄心斎です。なかなか、心おきなく……どころの騒ぎではない。敵の巣の真《ま》ッただなかにすわりこんで、平気で家来を遠ざけようというんですから、この若殿という人間は、危険ということをすこしも感じない、いわばまア一種の白痴じゃないかしら?――長年お側に仕えてきた二人ですが、この時は、そんな気までして、中腰のまま決し兼ねていると、
「あっちへ行って食えと申すに! なぜ行かぬ」
 いらいらした主君の声だ。源三郎の気性は、知りぬいている。もうこうなったら、いくら押しかえしたところで、許されません。かえって、怒りをますばかり……。
「門之丞は――」
 といって、玄心斎は、なおも心を残しながら、起ちあがった。
「は、別室にて、お二人のおいでをお待ちでございます」
 との少年の答えに、
「それみろ。早く行け」
 源三郎がうながす。部屋を出る時に、玄心斎がなんとかささやきますと、
「ウム。心得ておる」
 そう言って源三郎は、大きくうなずきました。
 やがて――。
 大八と玄心斎がその室を去りますと、少年の手で膳部が運びこまれて、源三郎の前に置かれた。
「ソ、そちが給仕をしてくれるのか」
「は。不調法ながら……」
 無言のまま源三郎は、まず、吸い物をすこし椀のふたにとって、少年の前につきだした。
 毒見をしろ……という意《こころ》。少年も、だまってそれを受け取って、口へもっていきます――。

       二

 膳にならんでいるすべての物は、順々にすこしずつ分けて、少年のまえにだまってさしだす……毒殺に備える用心。
 少年もまた、臆する色もなく、それらをみんな口に入れている。すき洩る風になびく燭台のあかりをとおして、じっとそのようすを見守っていた源三郎、笑いだした。
「はッはッは、ド、どうだ、ま、まだ死にそうなようすは見えぬな」
 少年は、ニッコリ微笑して、
「は? お言葉ともおぼえませぬ。それはどういう――?」
「イヤ、まだ腹は痛うならぬかと申すのじゃ、ハツハッハ」
「いえ、いっこうに……」
「うむ、其方《そち》は何も知らぬとみえるナ」
「と申しますと?」
「よろしい。タ、ただ、武将たるもの、敵地にあって飲食をいたすには、これだけの用心は当然――武士の心得の一つというものじゃ」
 眼をまるくした少年は、思わず、
「敵地?」
 と、声を高めました。
 その顔を、源三郎はつくづく見つめて、
「なるほど、其方《そち》はまだ年端《としは》もゆかぬ。御後室と丹波と、予とのあいだに、いかなる縺《もつ》れが深まりつつあるか、よくは知らぬのであろう」
「は。うすうすは……」
 と少年は、その前髪立ちの頭をしばし伏せましたが、
「しかし、なにとぞ御安心のうえ、お箸をお取りくださいますよう――」
 ウムとうなずいて、源三郎は食事をすすめたが、その間も、気になってならないのは……。
 丹波をはじめ十五人の道場のものどもが、いまだに顔を出さないのみか、さほど広くもなさそうなこの寮《りょう》が、イヤにヒッソリ閑《かん》として、どこにその連中がいるのか、そのけはいすらもないことです。
 挨拶に出べきはず。無礼!――と、いったんは心中におこってみたが、それよりも、不審のこころもちのほうが強い。いま、給仕の少年にきいてみたいと思ったが、なんだかうす気味わるがって、怖れているようで、かれの性質として、それもできないのです。
 もう一つは、あの、うちしおれて、憐れみを乞うたお蓮さまのことば……あれをそのままとっていいかどうか。裏にはうらがありはしないか。
 また、出ていったきり帰らない門之丞と、別室で食事しているはずの玄心斎と大八は、どうしたか――。
 やっぱりあのお蓮様は、斬ってしまうに限る。あしたにでも斬らねばならぬ。それから、峰丹波も……
 源三郎は、そうふたたび心に決しつつ、黙々とし
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