乱したようです。
見渡すかぎりの稲葉《いなば》の海に、ところどころ百姓家の藁屋根が浮かんで、黒い低い雲から、さんざと落ちる雨の穂は、うなずくように、いっせいに首をまげています。物みなそうそうと黒く濡れそびれたなかに、鳴子《なるこ》や案山子《かかし》が、いまにも倒れそうに危うく立っている。
[#天から3字下げ]見るうちに人細り行《ゆ》く時雨《しぐれ》かな
ではない、見るうちに馬細りゆく時雨かな……田圃《たんぼ》のなかの畦道《あぜみち》を、主従四人の騎馬すがたが、見る間に小さくなってゆくところは、まことに風流のようですが、当人達はそれどころではありません。
[#天から3字下げ]夕立《ゆうだち》にどの大名《だいみょう》か一しぼり
夕立ではないが、野狩りに出た殿様の一行が、雨に濡れて馬をいそがせて行く。はたから見たら、さながら画中の点景人物でしょうが――お蓮様と丹波がいつのまにかこの近くの寮へ来ていると聞いた柳生源三郎は、もう狂的です。
これを絶好の機会に、一刀両断に邪魔をはらってしまおうという気……。
とぶように馬を走らせて行く。
どういう考えか門之丞は、しきりに、そのそばに馬の首をすり寄せて、
「もうすぐそこです! きょうこそは、ひと思いに――」
焚《た》きつけるがごとき口調――。
「伊賀の若殿様ともあろうお方が、よく今まで、女や、丹波ごとき者どもに邪魔立てされて、辛抱しておられましたな。若のがまんづよいのに、わたくしはホトホト感心つかまつった……」
「イヤ、言うな。先ほども玄心斎が申したとおり、仮りにも母の名がついておるから、こらえにこらえてまいったのだ。だが、この暴風雨にまぎれて……門之丞、きょうで勝負をきめてしまおう」
玄心斎と、大八は、おくれながらも、左右から声を追いつかせて、
「敵にはいかなるはかりごとがあろうも知れませぬ。なんの対策もなくそこへとびこんでまいるは、上々《じょうじょう》の策ではござりませぬ。なにとぞ思いとどまって――」
「若ッ! 若ッ! きょうは単なる遠乗りのはず。たしかにお蓮様一味が、その寮とやらにひそんでおるとわかりましたら、いずれ近く日を卜《ぼく》して……」
耳にも入れない源三郎、馬の腹を蹴りつづけて、遮二無二《しゃにむに》突進――。
暴風雨は、源三郎の頭の中にも、渦巻き、荒れくるっているのでした。
最初。
源三郎の一行が品川へ着いた時、駈け抜けて司馬の道場へ江戸入りの挨拶をしたのが、この門之丞。源三郎の側近にあって、何かと重く用いられている門之丞なんだが、魔がさしたというのか、どういうつもりか、しきりに源三郎を案内して、刻々敵の張りめぐらした罠《わな》の淵へとさそってゆく。
揺れなびく田の面《も》の向うに、やがて客人大権現《まろうどだいごんげん》の木立ちが、不吉の城のように、黒く見えてきた。
「殿ッ、あの林のかげでござります」
馬上、門之丞がゆびさした。
七
虫が知らせるというのか、玄心斎と大八は、こもごも源三郎の馬前に立ちふさがって、
「殿ッ! どうあってもこれから先へお進みなさるというならば、まず、この玄心斎めの白髪首をお打ち落としなされてから……」
いらだつ源三郎の小鬢《こびん》から、雨の粒が、白玉をつないだように、したたり落ちる。
「何をたわけたことを申すっ! 亡き司馬先生の志をつぎ、道場と、かの可憐なる萩乃を申し受けて、わが面目《めんもく》を立て、また一つには、兄の顔を立てるためには、このさい、なんといたしても邪魔者を除かねばならぬではないかっ」
「ソ、それはわかっております。おっしゃるまでもござりませぬが、時機を待とうというお心で、今までああして、ただ、一つ屋根の下にはりあって、いわば血のなき闘い……ともかく穏便《おんびん》にお忍びになって来られたものを、いまとなってにわかに――」
「馬鹿を言えっ!」
源三郎は、大八と玄心斎のあいだへ、つと馬首をつき入れながら、
「ドド道場では、人眼も多い。世間の騒ぎになろうを慮《おもんばか》って、今まで一心に堪《こら》えてまいったのだワ。お蓮と丹波が、あれなる寮にまいっておるというからには、もっけの幸い――ゼ、絶好の機会ではないか! いつの日かまた……萩乃に血を見せぬだけでも、余の心は慰むぞ」
「しかし、峰丹波をはじめ、相当手|強《ごわ》いところがそろっておりますとのこと」
「丹波――?」
上を向いて笑った源三郎の口へ、雨の条《すじ》が、小さな槍のように光って飛びこむ。
「これじゃ!」
いきなり、ひょウッ! とふるった源三郎の鞭に、路傍の、雨を吸って重い芒《すすき》が微塵《みじん》に穂をみだれとばして、なびきたおれる。サッサと馬をすすめて、
「このとおりじゃ、丹波ごとき……いわんや、爾余《じよ》のとりまきども――」
「おいっ!」
と大八が門之丞へ、
「どうしてお止め申さぬ。貴公には、この、無手で敵地に入るような危険が、わからぬのかっ?」
ところが、門之丞はけろりとして、
「お止め申したとて、おとどまりになる若ではござらぬワ」
「と申して、貴公はさながら、手引きをするがごとき言動――奇ッ怪だぞ、門之丞!」
いきおいこんだ谷大八も、もう大きな声を発することはできないので。
いつのまにか一行は、客人大権現《まろうどだいごんげん》の境内へはいって、司馬の寮の前へ来てしまっているのだった。
争う時は、過ぎた。もはや、ここまで来た以上、主従四人一体となって、これから起こるどんな危機にも面《めん》しなければならぬ。
蛇が出ても……。
鬼がとびだしても。
草屋根の門ぎわに、いっぱいの萩の株が、雨にたたかれ、風にさわいで、長い枝を地《つち》によごしている。
古びた杉の一枚戸を、馬をおりた門之丞が、ホトホトとたたいて、
「頼《たの》もう! おたのみ申す……」
中からは、なんの応《こた》えもない。草を打つ雨の音が、しずかに答えるばかり――源三郎がせきこんで、
「かかかかまわぬ。押しあけて通るのじゃ……」
と呻いたとき、ギイと門内で、閂《かんぬき》をはずすけはいがした。
八
くぐりをあけたのは等々力十内で……。
「お、これはようこそ――」
と、待っていたように言いかけたが、すぐ気がつき、
「これはお珍しい! どうしてわたしどもがここにまいっていることを、ごぞんじで?」
急ぎ口を入れたのが、門之丞です。
「ごらんのとおり、遠乗りにまいられたのだが、にわかの吹き降りに当惑いたし、これなる森かげにかけこんでみれば、この一軒家……ホホウ、道場のお歴々《れきれき》が、この寮にまいっておられるのか。それはわたしどもはじめ、殿もごぞんじなかった次第で」
なんとか辻褄《つじつま》をあわせているうちに。
そんなことは意に介しない源三郎。
きょうはいよいよ、邪魔だていたすお蓮様と丹波の上に、柳生一刀流の刃が触れると思うから、単純な伊賀の暴れン坊、自然に上機嫌です。
まるで、いつもの憂鬱な彼とは、別人のよう……。
若さと、華《はな》やかな力とを満面に見せて、その剃刀《かみそり》のように蒼白い顔を、得意の笑《え》みにほころばせながら――。
ヒラリ、馬をおりるが早いか、まごつく十内を案内にうながしたてて、そのまま庭の柴垣にそって、雅《みや》びた庭門をあけさせ、飛石づたいに庵《いおり》のほうへと、雨に追われるように駈け込んでいきます。
つづく玄心斎、谷大八も、自分達がついていて、若殿の身に何事かあってはたいへんだから、馬を木蔭へつなぐのも一刻を争い、門之丞の横顔をにらみつつ、小走りに源三郎のあとを追った。
繰り残した雨戸の間《あいだ》から、庭に面した奥座敷に招じあげられた源三郎、見まわすとそこは、落ちついた風流《ふうりゅう》な部屋で、武芸者の寮とは思われない、静かな空気が流れている。
誰もいません。
源三郎は、むんずと床柱を背にすわって、腕組みをしました。顔に見覚えのある、司馬の門弟の少年が一人、褥《しとね》、天目台《てんもくだい》にのせた茶などを、順々に運び出てすすめたのち、つつましやかにさがってゆく。
火燈《かとう》めかした小襖が、音もなくあいた。
さやかな絹ずれの音とともに、あられ小紋の地味な着付けのお蓮様が、しとやかにはいってきた。
二人は、無言のまま、チラと顔を見合った。切り髪のお蓮様は、いたくやつれているように見えるものの、その美しさはいっそうの輝《かがや》きを添えて、見る人の心に、いい知れぬ憐れみの情を喚び起こさずにはおかないのでした。
横手に並ぶ玄心斎、門之丞、大八の三人には、会釈《えしゃく》もくれずに、源三郎と向かいあって座についたお蓮様は、白い、しなやかな指を、神経質らしく、しきりに膝の上で組んだり、ほごしたりしながらも、
「まあ、ひどい雨ですこと」
思いついたように、戸外《そと》の庭へ眼をやり、
「この雨で、せっかくわたくしの丹精した芙蓉《ふよう》も、もうおしまいですね」
と、笑った。雨になるか、風になるかわからない、この会合のまっ先に、お蓮様によって口火をきられた言葉は、これでした。
お蓮様が尾のない狐なら、丹波はその上をゆく狸であろう。でも、それを承知で、こうして乗りこんで来た源三郎も、ただの狐ではありますまい。間に立って奇怪な行動の門之丞は、さしずめ小狸か……。
沈黙がつづいています。
上《うえ》には上《うえ》
一
源三郎が、言った。
「しかし、この暴風雨《あらし》のおかげです。きょうわたしがここへ来たのは――わたしにとっては、感謝すべき雨風だ」
ニコリともしない源三郎の蒼顔に、お蓮様は、平然たる眼をすえて、
「あら、では、この雨の中を、わざわざお訪ねくだすったというわけではないんですのね」
と、チラリと門之丞に視線を投げた。
膝に手を置いた源三郎の肘《ひじ》が、角張った。
「わざわざお訪ねするのでしたら、こう簡略にはまいりません。なんのお手土産《みやげ》もなく」
皮肉に、
「供もこれなる三人きり……まず、煮て食おうと焼いて食おうと、ここはそちらのごかってでござろうかな、ハハハハハ」
「ちょっと風邪《かぜ》心地でございましてね」
とお蓮様は、まるで親しい人へ世間話でもするように、
「この四、五日、こっそりこちらへ養生にまいっておりました」
「それはいけませぬ。それで、もう御気分はよろしいのですか」
「はあ、ありがとう。もうだいぶいいのです」
「し、しかし、もう御養生の要も、あるまいと存じますが……」
「ええ、もうこんなによくなったのですから、ほんとに、養生の要もありません。近いうちに本郷のほうに帰ろうかと、思っていたところでございますよ」
「いや!」
と、源三郎のつめたい眼が、真正面からお蓮様を射て、
「いや、私が養生の必要がないと申したのは、そういう意味ではござらぬ。もう、母上……さればサ、今まで母上と思っていましたからこそ、手加減をいたしておりましたが……もはや母上と思わず、ここでお目にかかったのを幸い、お命をいただくことにきめましたによって、しかる以上、もう御養生の要もござるまいと、かように申しあげたので――」
ニッコリしたお蓮様は、
「このあたしがあなたの母では、たいへんなお婆さんのようで、あんまりかわいそうですよ、ほほほほほ。ですから、あなたももう母と思わずに、斬るというんでしょうが、なら、そこが相談ですよ、源様。おや! こちらにこわい顔をした人が、三人も並んでいては、お話がしにくいけれど、ホホホホホ……」
「退《さ》げましょうか」
源三郎の言葉に、玄心斎と大八は、懸命に眼くばせして、死んでもこの座を起たない申しあわせ。
少女のように、恥じらいをふくんで笑い崩れたお蓮様。
「いえ、誰がいても、思いきって言いますけれど、ねえ、源さま、いつかのお話は――」
「ナ、なんです、いつかの話とは?」
「あたしとしては、あなたが道場のお跡目《あとめ》になおるに、なんの異存もござ
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