人の女遊芸人のすがたが、なんとはなく、印象にこびりついているのだった。
三味線を斜めにかまえて、チラと馬上の自分をあおぎ見た年増おんな。
十か九つの女の子が、扇子をひろげて何かのせていたが、通りすがりに馬の上からちょっと見ただけなので、よくわからなかったけれど。
あの二人の女芸人が、妙に源三郎の心をはなれない。
自分を思っている萩乃のこと、同じく自分に思いを寄せているらしいお蓮様――さては、国の兄……いまだに行方の知れないこけ猿の茶壺のことなど、戞々《かつかつ》と鳴る馬の一足ごとに、源三郎の想念《おもい》は、際限もなく伸びひろがってゆく。
「此馬《こやつ》に一汗かかせてくれよう」
源三郎は大声に、
「つづけっ!」
背後《うしろ》をふりむいて叫びながら、思いきり一鞭《ひとむち》くれた。
馬は、長堤に呻りをたてて、土を掻い込むように走り出した。玄心斎、門之丞、谷大八の三人も、おくれじと馬脚を入り乱れさせて、若殿のあとを追う。
木母寺《もっぽじ》には梅若塚《うめわかづか》、長明寺《ちょうみょうじ》門前の桜餅、三囲神社《みめぐりじんじゃ》、今は、秋葉《あきば》神社の火のような紅葉だ。白鬚《しらひげ》、牛頭天殿《ごずてんでん》、鯉《こい》、白魚《しらうお》……名物ずくめのこの向島のあたりは、数寄者《すきしゃ》、通人《つうじん》の別荘でいっぱいだ。庵《あん》とか、亭《てい》とか、楼《ろう》とか風流な名をつけた豪商の寮や、料理屋が、こんもりした樹立ちのなかに、洒落《しゃれ》た屋根を見せている。
源三郎の視野のすみを、それらの景色が、一抹の墨絵のように、さっとうしろへ流れすぎる。
ぽつりと、額《ひたい》を打つ水粒。
「雨だな……」
「若ッ! いったいどちらまで?」
玄心斎が、息をはずませて追いついてきた。
砂煙を立てて、馬の鼻面を源三郎と並べながら、
「どこまでいらっしゃるおつもりで――もうよいかげん、ひっかえされては」
玄心斎の白髪に、落ち葉が一枚引っかかっている。
三
松平蔵之丞様《まつだいらくらのじょうさま》のお屋敷と、須田村《すだむら》の間をぬけて、関屋《せきや》の里まで行き着いた主従四人は、綾瀬川《あやせがわ》の橋のたもとにたちどまって、
「ハ、ハ、張り子の虎ではない。雨がなんだ、濡れたとて、破れはせぬぞ」
と、どもる源三郎をとりまいて、今はもう、しとどに横顔を打つ斜めの雨に、ほおを預けながら、
「しかし、この雨の中を、どこまでお走らせになっても、何もおもしろいことはござりますまい。お早々と御帰還のほど、願わしゅう存じまする」
玄心斎がしきりに帰りを促すそばから、谷大八もなんとなく胸騒ぎをおぼえて、
「これから先は、人家もござりませぬ。風流……も、ことによりけりで、この大雨のなかを――」
止められると、理由《わけ》もなく進みたくなるのが、若殿育ちの源三郎の常で、彼は無言のまま、いきなり馬首を東南に向け、小川に沿って走らせ出した。
いいかげんそこらまで行ったら、このすこし先の道が、水戸街道《みとかいどう》と出会うあたりから、もとへ引っ返すつもり……。
菖蒲《しょうぶ》で名高い堀切《ほりきり》も、今は時候《じこう》はずれ。
若宮八幡《わかみやはちまん》の森を右手に見て、ぐっと行きつくすと、掘割《ほりわり》のような川が、十文字に出会って……。
右、市川《いちかわ》。
左、松戸《まつど》――。
肩をぐっしょり濡らした門之丞が、追いついた馬上から、大声に、
「思い出しました……」
と、やにわに言った。
「お蓮様が、いま本郷の道場においでにならぬことは、殿をはじめ、玄心斎殿、大八殿も、ごぞんじでござろうな」
そう言って門之丞は、何かすばらしい計画を思いついたように、馬をとめた源三郎と、安積玄心斎、谷大八の三人の顔を見まわす。
雨のなかで、湯気をあげる馬が四頭かたまり、馬上の四人の侍が、何やら談合しているのですから、枯れ草をせおった近所の百姓が、こわそうに道をよけて行く。
道が行きどまりになったので、いやでも引っ返さなければならないかと、業腹《ごうはら》でならなかった伊賀の暴れん坊は、この門之丞の一言に、たちまち眼をきらめかして、
「うむ、そう言えば、どこかの寮とやらへ出療治《でりょうじ》にまいっておるとか、ちらと聞いたが……」
「ナニ、療治と申しても、何も病気だというわけではござりませぬ。表面は保養ということにいたして、またかの峰丹波とトチ狂いかたがた、われわれに対する今後の対策を凝《こ》らしているものと察しられますが――ところで、わたしは、道場の婢《おんな》どもが噂をしているのを、ちょっと聞きましたので。なんでもお蓮と丹波は、この先の渋江村《しぶえむら》とやらにまいっておるとのこと」
門之丞は言葉をくぎって、じっと源三郎の顔色をうかがった。
玄心斎と大八は、門之丞め、悪い時につまらないことを言いだしたと、にがりきって黙っている。
思い合わせてみると、きょうこの向島方面へ遠乗りにでかけようと言いだしたのも、この門之丞。それから、制止する玄心斎を無視して、それとなく巧みにここまで源三郎をみちびいてきたのも、門之丞。
四
仰向いて笑った門之丞の顔に、大粒の雨が……。
「彼奴《きゃつ》ら、われわれとの根《こん》くらべに負け、押し出されるがごとく一時道場をあけて、かような片田舎へ逃げこんだものに相違ござらぬが、もとより、対策がたちしだい、いついかなる謀計をもって道場へ引っ返してまいるやもはかりしれませぬ。今ごろは、かの女狐《めぎつね》と男狐《おぎつね》、知る人もなしと額をあつめて、謀《はかりごと》の真最中でござろう。そこへ乗りこんで、驚く顔を見てやるのも一|興《きょう》……」
そそのかすような門之丞の言葉に、思慮の深い玄心斎は眉をひそめ、
「門之丞は、どうしてさようなことを存じておるのかな。同じ屋敷内にあっても往き来もせぬ、いわば敵方の動静……それは、わしも、丹波とお蓮様がちかごろ道場におらぬらしいことは、聞き知っておったが、この近くの寮に出向いておるなどとは、夢にも知らなんだ」
「いや、わたしもはじめてで」
と、谷大八が横あいから、いぶかしげな眼顔。じつは、二人とも知っていたんです、玄心斎も、大八も。
お蓮様と丹波が、腹心の者十数名を引き連れて、近頃、この向島を遠く出はずれた渋江村《しぶえむら》の寮《りょう》に、それとなく身をひそめて何事か画策していることを。
それも、この五、六日のことで。
だが、道場では、どこまでも、お蓮様も丹波も在宅のように装《よそお》って、屋敷を明けていることはひた隠しにかくしているのだが、なんの交渉もないとはいえ、またいかに広い屋敷内でも、一つ屋根の下のこと――今まで知らなかったのは源三郎だけで、それだけに彼は、おどりあがるように馬上に身をひきしめ、
「おもしろい! これより押しかけて、ひと泡ふかせてくれよう。タ、タ、退屈しきっておったところだ。もう、あのにらみあいには、あきあきいたしたぞ。と言って、妻恋坂の道場では、先にも門弟が多いことだし、世間の眼というものもある。がまんにがまんをしてまいったが……ウム! この都離れた片ほとり、狐退治にはもってこいの場所だテ。おのれ、きょうというきょうは、かのお蓮と丹波を一刀のもとに、たたっ斬ってくれる」
蒼白な顔に、決意の笑《え》みを浮かべた源三郎、やおら馬をめぐらして、土橋を渡り、葛西領《かさいりょう》の四ツ木村のほうへと向かって行く。
玄心斎は、馬をいそがせて、
「若《わか》っ! 仮りにも老先生の御後室、婿のお身にとっては母上でござるぞ。斬り捨ててよいものならば、今までにもいくらも折りがありましたものを……あれほど無言の戦いを、そもそもなんのために今まで辛抱強く突っぱってこられたか。それを篤《とく》と御勘考のうえ、ここはひとまず思いとまられて、お返しください。おかえしください!」
「爺《じい》っ! 臆病風か」
「めっそうもござりませぬ。なれど、智謀には智謀をもって対し、隠忍には隠忍をもって向かう……お引っ返しくださいっ! 若っ!」
「十五人ほどの腕達者が、ひきそっておりますとのこと――」
谷大八の声は、横から風にうばわれてしまう。
雨はいよいよ本降りとなって、先頭の源三郎を、はばむがごとく濡らすのであった。
「暴風雨《あらし》じゃのう」
源三郎の白い歯が、チカリと光って、すぐあとにつづく門之丞を、振り返った。
五
客人大権現《まろうどだいごんげん》の境内、ずいぶん広い。
その一隅……生い繁る老樹のかげに、風流な柴垣をめぐらした一棟がある。
竹の濡れ縁に煙草盆を持ちだしていた司馬道場の御後室、お蓮様は、
「まあ、急にひどい吹き降りになって……」
びっくりするほどの若やいだ声で、笑いながら、被布《ひふ》の袂をひるがえして、屋内《おくない》へにげこんだ。
ドッ! と音をたてて、雹《ひょう》かと思うような大きな雨粒と、枯れ葉を巻きこんだ風が、ふきこんでくる。
「ほんとに、秋の空ほど頼りにならないものはない。朝はあんなに晴れていたのにねえ」
と、思い出したように、
「ああ、いつまでこんなところに待っていなくっちゃアならないんだろう。ほんとに、嫌になってしまう。だけど、道場のほうでは、私達のいないことを、うまく隠しているだろうねえ」
「それは大丈夫だと思います。かたく申しつけてまいりましたから――あなた様をはじめ、一同道場にいるようにつくろって、よもや、源三郎一派に気取《けど》られるようなことはあるまいと存じます」
峰丹波は、そう励ますように言いきって、自ら立って縁の雨戸を一、二枚繰り出した。
その音を聞きつけて、次の間から、岩淵達之助《いわぶちたつのすけ》、等々力《とどろき》十|内《ない》の二人が、あわただしく走りでてきて、
「おてずから、恐れ入ります」
「わたしがしめます」
「ことによると、きょうあたり、かの門之丞の案内で、まいこんでくるかも知れませぬぞ」
丹波は、急の暴風雨《あらし》に備える雨戸を、十内、達之助の二人にまかせてしめさせながら、自分は座にかえり、
「とにかく、門之丞をこっちへ抱きこんだのは大成功で……悪運がつきません証拠とみえますな、はははは」
お蓮様はおもしろくもなさそうに、
「でも、なんとかうまいことを言って釣りだしてくればいいけれど――あの門之丞だって、主人を裏切るような男だもの。ほんとにこっちについたのかどうか、すっかり仕事がすんでみなけりゃアわかりゃあしない。お前のように、そう頭から信用することもできないと思うよ」
「ナニ、あの門之丞だけは、大丈夫です。計画どおり、彼の手引きで源三郎を処分した暁は、大枚の金子とともに、あの萩乃様を……こういう約束でございますからな。萩乃様に首ったけの門之丞としては、色と欲の二筋道で――もうこっちのものです」
達之助と十内が、雨戸のあいだをすかして、別の間へしりぞいてゆく。どうせみんな同じ穴の狐ですから、二人に聞こえるのもかまわず、お蓮様と峰丹波は、高話です。閉《た》てのこした雨戸のすきから、縞のような光線がさしこむだけで、昼ながら、室内はうすぐらい。
ここは司馬家の寮なのですが、故先生が老病になられてから、何年も来たこともなく、手入れもしないので、それこそ、狐や狸の巣のように荒れはてている。
お蓮様が、何を考えてか、峰丹波、岩淵達之助、等々力十内ほか十五人ほどの腹心の弟子達をひきつれて、こっそりここへ来てから、もう五日あまりになります。毎日毎日、しきりに、何かを待っているようす……。
六
一面の裏田圃……上木下川《かみきねがわ》、下木下川《しもきねがわ》、はるかに葛飾《かつしか》の野へかけて、稲田の面《おもて》が、波のようにゆらいでいる。釣鐘堂《つりがねどう》、浄光寺《じょうこうじ》の森は、大樹の梢が風にさわいで、まるで、女が髪を振り
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