ひとりごとともつかない陰々《いんいん》たる左膳の声に、お藤もチョビ安も、ぞっとしたように口をつぐんでいる。
 左膳は、壺をねらっている連中を、数えたてているのです。
「二つ……道場の峰丹波の奴ばら」しばらく間。「三つ、あの得体の知れぬ蒲生泰軒《がもうたいけん》。四つ、どうやら公儀の手も、動いておるようにも思われる――五番目には、かく言うおれと……はッはッは、いや、おれの片眼には、江戸じゅうの、イヤ、日本中の人間が、あの茶壺をねらっているように思われるワ。お藤、泊めてもらうぞ」
 ごろっと、壁際に横になった。
 大刀を枕元にひきつけて、左手の手まくら。
「いや、知らぬうちに、後生大事に鍋を秘蔵しておったとは、われながら笑止《しょうし》。なに、そのうちに、取り返すまでのことだ――」
 無言におちたかと思うと、左膳は、いつのまにか眠りかけて、なんの屈託もなさそうな軽い鼾《いびき》が……。
「左膳の殿様、そんなところにおやすみになっては……」
 お藤は静かに起《た》って、着ている市松格子《いちまつごうし》の半纏《はんてん》をぬいで、左膳の寝姿へ掛けたのち、にっこりチョビ安をかえりみ、
「兄ちゃんは、あたしといっしょに寝ようね。御迷惑?」
 さびしそうな笑顔で、寝床を敷きにかかる。
 その夜からだ、左膳、お藤、チョビ安の三人が、この長屋にふしぎな一家族を作って、おもむろに、壺《つぼ》奪還《だっかん》の術策をめぐらすことになったのは。

       二

 なんの因果で、こんな隻眼隻腕の痩せ浪人に……と、はたの眼にはうつるだろうが、お藤の身にとっては、三|界《がい》一の殿御《とのご》です。
 恋しいと思う左膳と、こうしていっしょに暮らすことができるようになったのだから、お藤の喜びようったらありませんでした。
 莫連者《ばくれんもの》の大姐御でも、恋となれば生娘《きむすめ》も同然。まるで人が変わったように、かいがいしく左膳の世話をする。何かぽっと、一人で顔をあからめることもあるのでした。
 だが、左膳は木石《ぼくせき》――でもあるまいが、始終|冷々《れいれい》たる態度をとって、まるで男友達と一つ屋根の下に起き伏している気持。左膳の眼には、お藤は女とはうつらないらしいので。
 同居しているというだけのことで、淡々としてさながら水のよう……あの最初の晩、一つしかない寝床に、チョビ安とお藤が寝て、左膳は畳にごろ寝したのだったが、それからもずっと左膳は、そこを自分の寝場所とさだめて、毎晩|手枕《てまくら》の夢をむすんでいる。
 さめては、思案。
「どう考えても、ふしぎでならねえ。あんなに、眼をはなさずに、昼夜見まもってきた壺の中身が、いつの間にすりかえられたか――」
「父上、あたいにも、ちっともわからないよ。だけどねえ、これからどうして探したらいいだろう」
 ういういしい女房のように、土間の竈《かま》の下を焚きつけていたお藤が、姐さん被《かぶ》りの下から、
「くよくよすることはないやね。丹下の殿様がいらっしゃるんじゃアないか。およばずながらこのお藤もお力添えをして、三人でさがしまわれば、広いようでもせまいのが江戸、どこからどう糸口がつかないものでもないよ」
 左膳を仮りの父と呼んでいるチョビ安は、ここにまたお藤というものが現われて、まるで母親を得たような喜びよう。
「ねえ、父上、あたい、この人をお母《っか》アといってもいいだろう?」
 左膳の苦笑とともに、お藤の顔には、彼女らしくもない紅葉《もみじ》が散って、
「ああ、そうとも、丹下の殿様がお前の父《ちゃん》なら、あたしはおふくろでいいじゃないか」
 チラと左膳を見ると、左膳、いやな顔をしてだまっている。
 豪刀濡れ燕も、この、からみついてくる大姐御の恋慕心は、はらいのけることができないとみえる。
 妙な生活がつづいている……すると、朝っぱらから出ていったお藤が、何か風呂敷包みをかかえて帰ってきた。左膳は毎日、ごろっと横になっているだけだが、その時チョビ安、左膳の背後《うしろ》にまわって、肩をたたいていました。
 お藤がその前で、包みをとくと、出てきたのは、女の子の着る派手な衣装いっさいと、かわいい桃割《ももわ》れのかつら。
「芸があるんだよ、あたしにゃアね。めったに人に見せられない芸だけれど、壺を探しかたがた、その芸を売り物に、安公と二人、門付《かどづ》けをしてみようじゃアないか」
「いやだい、あたい、女の子に化《ば》けたりするのは」
 その衣装を見て、チョビ安は口をとがらしたが、すぐ思い返したように、
「でも、そうやって江戸中を歩いていりゃあ、壺も壺だけれど、父《ちゃん》や母《おふくろ》に逢えるかもしれないね」
 としんみり……。

       三

「まあ、かわいい女の子だこと! 鳥追いじゃあなし、なんでしょうね」
「虫踊《むしおど》りなんですよ。虫踊りのお藤さんと、お安ちゃんですよ」
「虫踊り? 虫踊りとはなんでえ」
「オヤ、お前さんもずいぶん迂濶《うかつ》だねえ。いや江戸じゅうで評判の、尺取り踊りを知らないのかえ」
 ぱっと晴れあがった日和《ひより》です。町角に、近所の人達がひとかたまりになって、ワイワイ話しあっている。
 本郷は妻恋坂の坂下、通りのはるか向うから、粋な音じめの三味線の音が流れて来て、大小《だいしょう》二人の女の影が、ソロリソロリと、こっちへ近づいてくるのが見える。
「あの、ようすのいい年増《としま》のお藤さんと、十ばかりのかわいいお安ちゃんっていう女の子とが、組になってサ、お藤さんの三味線につれてお安ちゃんの持つ扇子の上で、尺取り虫がお前さん、踊《おど》りをおどるんだよ」
「へーイ! 尺取り虫が? そいつア見物《みもの》だ」
 ガヤガヤ言いあっているところへ、櫛巻きお藤と、お安ちゃんこと、チョビ安扮するところの女の子とが、ぶらりぶらり近づいてくる。
「サア、代《だい》は見てのお帰りだ」
「一つ、呼びとめて、その珍芸を見せておもらいしようじゃアねえか」
 街《まち》の人々にとりまかれた、お藤とチョビ安。
 お藤は、木綿の着物に赤い襷《たすき》をかけて、帯の結びも下目に、きりりとした、絵のような鳥追い姿。
 チョビ安の女装したお安ちゃんは、見ものです。
 肩上げをした袂の長い、派手な女の子の姿。小さな笠を眼深にかぶって、厚く白粉《おしろい》をぬったあどけないほおに、喰《く》い入るばかりの紅《べに》のくけ紐。玉虫色の唇から、チョビ安いい気なもので、もうすっかり慣れっこになっているらしく、
「小父《おじ》ちゃん、小母《おば》ちゃん、虫の太夫さんに踊《おど》らせておくれよ。そして、たんと思召しを投げて頂戴《ちょうだい》ね」
 みんなおもしろがって、
「さあ、やんな、やんな」
「お鳥目《ちょうもく》は、おいらがあとで集めてやらあ」
「毎度おやかましゅう」三味線の手を休めたお藤、
「ではお言葉にあまえまして、江戸名物は尺取り虫踊り……」
 チチチン! と、三味をいれて、
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「尺取り虫、虫、
 尺取れ、寸取れ、
 足の先から頭まで、
 尺を取ったら命とれ……」
[#ここで字下げ終わり]
「太夫《たゆう》さん、御見物が多いけど、あがっちゃアいけないよ」
 言いながらチョビ安、手にしていた日の丸の扇をさっとひらいて、袂からとりだした小箱の蓋をひらき、そっとその扇の上へ放しだしたのは、お藤手飼いの尺取り虫が三匹。
 大事に、温かにして、押入れの奥で飼《か》ってきたのです。
 三味の音に合わせて、その三匹の尺|取《と》り虫が、伸びたり縮んだり、扇子の上で思い思いの方角に動くのが、見ようによっては、踊《おど》りとも見えて、イヤモウ、見物はわれるような喝采……。

   狐と狸


       一

 縁に立っている源三郎だ。
 柱によりかかって、じっと見上げているのは……空を行く秋のたたみ雲。
 あせっているんです、源三郎は。
 いつまでこうしていても、果てしがない――。
 実際そのとおりで、源三郎のほうとしては、あくまで道場は自分のものの気、祝言も式もないものの萩乃は己《おの》が妻の気……。
 それにひきかえ。
 お蓮と峰丹波の側では、道場はどこまでも自分達の所有の気。萩乃は源三郎の妻でもなんでもない気。したがって、縁もゆかりもない田舎侍の一団が、道場へ押しこんできて、したい三昧《ざんまい》の生活をしているものと認めている気。
 気と気です。
 気の対立。どっちの気が倒れるか、自分こそは勝つ気で、両方で根比《こんくら》べをする気。
 対立《たいりつ》の状態で、ここまでつづいてきましたけれど、性来気の短い源三郎としては、今まで頑張るだけでも、たいへんな努力でした。
 それがこの先、どこまでつづくか際限がないのだから、源三郎、いささかくさ[#「くさ」に傍点]ってくるのに無理はない。
 それも。
 積極的に争うなら、源三郎お手のもので、間髪を入れず処理がつくのですけれど、今の言葉でいう、いわばまア占拠……双方《そうほう》じっとしてねばる[#「ねばる」に傍点]だけだ。
 消極的な戦いだから、伊賀の暴れん坊、しびれをきらしてきた。畳《たたみ》を焼いて煖《だん》をとったり、みごとな双幅《そうふく》や、金蒔絵《きんまきえ》の脇息《きょうそく》をたたッこわしたり、破いたり、それを燃料に野天風呂をわかすやら、ありとあらゆる乱暴狼藉《らんぼうろうぜき》をはたらき、いやがらせの八方をつくして……。
 いま文句が出るか、今文句が出るかと。
 いくら待っても、先方はウンともスンとも言わない。
 渡り廊下でつづいた別棟に、お蓮様、丹波をはじめ道場の一派、われ関《かん》せず焉《えん》とばかり、ひっそり閑《かん》と暮らしているんです。
 売った喧嘩を買ってくれないほど、はりあいの抜けることはない。
 源三郎を取り巻く伊賀の若侍たちも、拍子抜けがして――。
 暴《あば》れくたびれ。
 退屈。
 あう――ウア! 欠伸《あくび》の合唱、源三郎の欠伸と門之丞の欠伸とがいっしょだったので、源三郎|自嘲《じちょう》的な笑いを洩らし、
「秋晴れだナ。馬に乗りたい」
 と言った。
「結構ですな、チトお気ばらしに……」
「余は、江戸はくらい。遠乗りにはどの方面がよかろうかな?」
「拙者もよくは存じませぬが、まず墨堤《ぼくてい》……いかがで?」
「ま、よかろう、馬ひけ」
「御意《ぎょい》。供は?」
「其方《そち》と、玄心斎と、大八と、三人でよい」
 こうしたわけで、若さと力を持ちあつかった源三郎、轡《くつわ》を並べて、妻恋坂の道場を後に――。
 空には、鱗のような雲の影が、ゆるやかに動いていました。

       二

 西北から、大きな緑の帯のような隅田川《すみだがわ》が、武蔵《むさし》と下総《しもうさ》の間を流れている……はるかに、富士と筑波を両方にひかえて。
 昼ながら、秋の狭霧《さぎり》が静かに罩《こ》めわたって、まるで水面から、かすかに湯気があがっているように見えるのだった。その模糊《もこ》とした中から、櫓《ろ》の音が流れて来て、嘴《くちばし》と脛《すね》の赤い水鳥が、ぱっと波紋をのこして飛びたつ――都鳥である。
 吾妻橋《あづまばし》から木母寺《もっぽじ》まで、長い堤《つつみ》に、春ならば花見の客が雑踏《ざっとう》し、梅屋敷《うめやしき》の梅、夏は、酒をつんでの船遊び――。
 が、今は秋も半《なか》ば。
 草紅葉の広い野に、まばらな林が風に騒いで、本郷の道場を出た時は、秋晴れの日和であったのに、いつしか空いっぱいに雲がひろがり、大川をくだる帆も早く、雨、そして風さえ孕《はら》んだ、暗いたたずまいである。
 馬《うま》乗り袴《ばかま》が、さやさやと鳴る。
 馬具がきしむ。
 薄陽《うすび》と河風を顔の正面《まとも》にうけて源三郎は、駒の足掻《あが》きを早めた。
 遠乗りの快味のほか、何ものもない彼の頭に、ただ一つ……。
 さっき妻恋坂をおりきった街角に、人を集めて何か芸当を見せている二
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